特攻インタビュー(第3回)
- このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
- このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています
投稿ツリー
- 特攻インタビュー(第3回) ・その21 (編集者, 2012/3/6 8:35)
- 特攻インタビュー(第3回) ・その22 (編集者, 2012/3/7 7:39)
- 特攻インタビュー(第3回) ・その23 (編集者, 2012/3/8 7:23)
- 特攻インタビュー(第3回)・ その24 (編集者, 2012/3/10 6:46)
- 特攻インタビュー(第3回) ・その25 (編集者, 2012/3/11 8:14)
- 特攻インタビュー(第3回) ・その26 (編集者, 2012/3/13 8:14)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆鎮魂と慰霊
--------戦争が終わった後、江名さんは大学に復学されたのですか?
江名‥大学1年の者は大部分、大学に戻りました。私も大学に復員届けに行きましたら、「もし卒業の免状が欲しければやるよ」と言われましたけどね。1年で学徒出陣ですからね、勉強らしい勉強はしておりませんでした。だから基礎的な勉強もしてみたいという事で、親の許しを得て大学に戻りました。
だけど、その時は食糧難でしょ。私は東京に自宅がありましたから、弁当にサツマイモあたり持って行きましたけれど。ビール瓶に重湯を詰めて飲んでる学生もいましたよ。そういう時代でしたけれども、私は復学して良かったと思います。そのまま社会に出たら、学術書を読む時間もなかったと思います。
--------ペアの方とは戦後、お会いになりましたか?
江名‥会いました。2人とも80歳を過ぎて、今は体調が悪く、黒島とか串良の慰霊祭には残念ながら出ることは難しいですね。大方の戦友は亡くなっております。黒鳥の柴田さん、中村憲太郎さんも大分前に亡くなりました。だから、マッカーサーの言葉じゃないですけど、私どもは「fade away」する世代なんですけど(笑)。まあ、かろうじて残り時間を大事にしておりますけど(笑)。
--------戦友とお会いした時には、戦争の時の話とかされるんですか?
江名‥そうですね、やはり戦友っていうのは学生時代の友人とは違い、どうしても青春に嘗めた戦場体験の話が中心になります。今でも同期生の会合があちこちでありますが、そういう当時の話が中心です。懐かしく、いつも同じ話をしています。またか!と思いますけど、また聞いちゃうんですね。しゃべることがまたね、その人にとってのガス抜きなのかもしれませんけどね。みんな、よく同じ話をしますよ。それは変わりばえはないです。だって、引き出しが一つしかないんですから。そんな話を、やはり会うとするんですねえ。
--------特攻の話も出るんですか?
江名‥特攻隊については仲間ではします。ただ、部外者とはいたしません。特攻の話は、あまり私はしたくないし、しない人の方が多いかもしれませんね。
--------ご自分の正直な気持ちとしては、あの時死ななくて良かったと思われます?やはり、複雑な気持ちですか?
江名‥亡くなった戦友は20歳前後でした。それから私は65年生きてるわけですよ。この違い、不公平な配剤はちょっと言葉に表せませんね。こんなに不公平なことはないと思うんですよ。個人的には生き残って良かったと思いますが、亡くなった戦友に対して申し訳なく思います。ですから私どもは、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の春の慰霊祭、それから9月23日の世田谷特攻観音の秋季慰霊祭に、ひたすら亡き友の鎮魂、慰霊をしにお参りしています。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆特攻とは何であったか
--------江名さんが戦場に出られた頃は、特攻が当たり前のようになっていて、それが終戦ま続いたわけですけど、特攻作戦が行われた背景というものについて、江名さんは何かお考えがありますか?
江名‥非常に難しいご質問ですけど。先程ちょっと申しましたように、ミッドウェイから、昭和17年6月から連戦連敗ですよね。それで当時のベテランの搭乗員が昭和18年になると、ほとんどゼロになりました。
そこで、海軍は慌てて予科練の大量募集。予科練の甲13期は2万人採ってるんですよ。予備学生は13期で5千名、14期で3千名でした。それだけの機材や燃料をどうしようと思って集めたのか分かりませんけどね。必要だったでしょうけど、残念ながら機材もないし燃料もないから、戦場に出るだけの技量も備えぬまま特攻戦死しました。
先程申しましたように、昭和19年6月ですか、マリアナ沖海戦では373機のうち350機以上が落とされて、しかも戦果ゼロなんですね。一応なけなしのパイロット、300時間以上の訓練を受けたパイロット達を集めて新鋭機で攻撃に行って壊滅なんですよ。
その前に「回天」とか「桜花」は計画されていましたから、別の次元で、特攻作戦を海軍は研究した訳ですけども。その頃、現地部隊では攻撃に行きましても、特に艦攻、艦爆なんていうのは全機落とされましたので、現地でも特攻作戦の考え方が起きましたし、大本営も"外道の作戦″をやらざるを得ないところまで追い込まれたと私は思います。通常攻撃で撃ち落されてしまうなら、爆弾を抱えての特攻の方が、まだ戦果があるんじゃないかという発想だったと思います。特攻は人員、機材がいずれトータル・ロスとなり、作戦とは言えませんが。
--------江名さんは、特攻作戦の第一線に立たされた、まさにそういう世代にめぐり合ったわけですが、江名さんにとって特攻とは何か。例えば今振り返って、ご自分の特攻体験がその後の人生に影響を与えたことはありますか。
江名‥そうですね、それは人さまざまだと思います。戦後、特攻に対する考え方はいろいろで、相当、幅がありますね。私の場合は、やはり日本という共同体(ゲマインシャフト)の中に住んでて、学徒として徴兵猶予の恩典まで与えられて戦争の最中、学業を続けられた。それで、私達の小学生の幼なじみはもう戦場に行き、戦死してるんです。そこにね「ノーブレス・オブリージエ」 ですか。与えられた特権に対しては義務と責任があると。この国がまさに滅びようとする時に、やはりその特権を与えられた我々は、まあ悔しいけれども、自己犠牲……自己犠牲する事を苦しいけど自分自身に納得させて、柩となる自分の飛行機に乗るという考え方を私ども14期予備学生は共有しました。
外道の作戦とはいえ、危急存亡の時に若者がそういう気持ちになっておりました。特攻戦死した戦友のことを思うと辛くて、彼らの鎮魂・慰霊に一生尽さなきやいけないという気持ちが強いんですよね。非道な、やってはいけない作戦でしたが、予科練の若い人達も含めまして、特攻の命令に対して自己犠牲で応じたことに、ただただ、もう頭が下がるばかりです。だから、特攻隊負っていうのは、基地を飛び立って、それで還ってこない人が真の特攻隊員だと思います。私のように還ってきた者が"特攻隊員″と名乗るのは、ちょっと借越だと思いますね。私は特攻隊員じゃないんです。特攻隊員って言うのは、やはり基地を飛び立って還ってこない戦友のことを、私は言うべきだと思うんですね。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆日本人のマジョリティ
江名‥まあ、言えることはですね。当時の学徒は、非常に価値観が多様だったということです。私なんかはまだ大学一年ですからね。マルクスなどの禁書は、ほとんど読んでおりませんでした。手に入りませんでしたしね。禁書を手に持ちますと特高に捕まる時代でした。我々の仲間、学徒出陣組でも、そういったマルクスを勉強している男がいました。また、一方ではですね、国粋主義的な男もいました。思想は右から左まで非常に価値観が多様でした。
価値観は多様でしたが、日本人のマジョリティはですね、昭和16年12月8日、開戦の時に、みんな声を上げて「万歳!」を叫んだんですね。12月8日に詩人の高村光太郎は、こんなこと書いております。「記憶せよ。12月8日。この日、世界の歴史改まる。アングロサクソンの主権、この日、東亜の陸と海とに否定さる。否定するものは彼等の『ジャパン』。渺渺たる国にして、また神の国たる日本なり。これを知らしめたもう秋津御神なり」
それほどね、当時の日本人のマジョリティは、あの太平洋戦争を、12月8日を万歳でもって迎えました。もう1人、作家の伊藤整。彼がやっぱり、その日こういう事を書いています。「私はこの戦争を戦い抜くことを、日本の知識階級は大和民族として絶対に必要と感じている。私達は彼等のいわゆる黄色民族である。この区別された民族の優秀性を決定する為に戦うのだ。ドイツの戦いとも違う。彼等の戦いは同類の問の利害の争いの趣があるが、我々の戦いは、もっと宿命的な革新の為の戦いと思われる」と。こういう事を伊藤整が言ってるんです。
当時は、帝国主義の白人社会だったんですよ。その中に黄色(イエロー)の日本が、後発の帝国主義国家として台頭してきました。この「イエロー」を叩き潰すことが白人社会の最大命題だったんですね。「ジャップを叩け!」ということがヒトラーの「Mein Kampf」(我が闘争)」にも書いてあります。黄色人種に対する侮蔑が。唯一、帝国主義の仲間に入った日本を叩き潰せといことを、当時の日本人も感じていたんですね。だから、こういう伊藤整の文章になったんで。当時の日本人はいろいろ戦争に対する個人的な見解がありましたけど、あの戦争に突入したことによって、自分の持っている思想よりも、立ち上がった黄色人種の先頭に立つ日本が、何としてもこの戦争で勝利を遂げたいという思いがあったと思います。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆アメリカ人学生との質疑応答
江名‥私は外国の人とあまり戦争の話をしたことはありませんけども、昨年の3月に、その前の年の映画「特攻」に私も関係したもんですからね。アメリカで「特攻」を封切する時、来てくれないかということで、同期生と2人でアメリカに行きました。スタンフォード大学、カリフォルニアですね。ワシントンのジョージ・タウン大学と2カ所に行きました。映画が終わった後、学生と質疑応答をしました。
やはり一番ね、彼らはね、2001年9月11日のことを言うんです。そのテロと特攻は同じじゃないかということを質問されました。もちろん、いろいろ説明したわけですけども……テロは無差別の殺戮だが、特攻はあくまでも対象は戦争で相手の軍隊だと。一般市民に対して我々は攻撃をしていないと。テロの宗教的な自己陶酔ですか、そういうテロと、国のために「愛する共同体(ゲマインシャフト)」のために自己犠牲になった特攻とは違いがあるんじゃないか。特攻というのは8月15日限りで、もう「リベンジ」はないが、テロは未だに、お互いリベンジ、リベンジを繰り返して絶える事ないと。そこに大きな違いがあるという話をしましたら、一応は納得してくれました。
それで国のために殉ずるということにつきましては、我々アメリカ人も星条旗のために戦ったんだと、それは全く同じだと。だから、特攻隊貝の自己犠牲というものは、ある程度理解できるという事を言ってくれました。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
海軍航空特攻 江名武彦 氏
◆次世代へ伝えたいこと
--------私たちは戦争のことを何も知りませんが、特攻で犠牲になられた方々のことを理解したい、知りたいということもあって、こうしてお話を聞かせていただいているんですけど、特攻も含めて、ご自分の戦争体験を振り返られて、江名さんが次の世代に「これだけは伝えておきたい」ということがありましたら、是非お聞かせ下さい。
江名‥アメリカの学生と話していて非常に印象深く受け取ったんですけど、現代史を勉強してるんです。しかもアメリカは今日も戦争していますよね。太平洋戦争についても勉強しています。
だから今、仰った若い人達には、世界史・日本史・特に現代史ですね。これを、やはり複眼的な目でもって勉強して頂ければと思いますね。結論としては戦争はやってはいけないということですが、現代史を勉強することによって日本がなぜ、あの戦争、太平洋戦争をしたかということを、自分自身で勉強して頂きたいと思います。特に帝国主義について、どういうものだったかと。日本も、かつて後発の帝国主義国家でした。その帝国主義が21世紀になっても、アメリカ・ロシア・中国などに見られます。
それと、日本の平和憲法です。戦争・武力というものを永久に日本はしない。陸海空軍兵力は持たない。そういう憲法があります。その憲法を日本だけでは守れませんからね。憲法を守るために、我々はどうしたらいいかということです。特に、唯一の被爆国である日本が先頭に立って核廃絶に努めること。そういうことを若い人達に、しっかりと身に付けてもらって、世界平和のために尽くして頂きたいと思いますね。
ただ、人類が理性を持ったのは、まだ五千年しかないんですよね。チグリス・ユーフラテスの時代からでしょ、初めてロゴス・知恵を人間が持ったのは。しかし、人間の中には250万年の間の動物の血が流れています。この動物の血というのは残虐です。弱肉強食ですからね。この動物の血を、とにかく21世紀に何としても静めなければなりません。私は今、世界史的には大変危険な状態にあると思います。これを如何にして日本人が先頭に立って、この危険な環境を平和に持っていけるかどうか、それが最大の問題だと思いますね。そういうことを、若い人達に真剣に考えて頂きたいということです。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。
(……了……)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
江名 武彦(第三正気隊・海軍少尉)軍歴
1943年(昭和18年)10月21日
早稲田大学在学中、東京神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会に参加。
1943年(昭和18年)12月10日
大竹海兵団入団。
1944年(昭和19年)2月1日
飛行科予備学生第14期として土浦海軍航空隊入隊。
1944年(昭和19年)6月
偵察士として大井海軍航空隊に赴任。
1945年(昭和20年)3月17日
特攻要員として百里原海軍航空隊に転属。
1945年(昭和20年)4月10日
神風特別攻撃隊「正気隊」編成。特攻隊月に指名される。
1945年(昭和20年)4月20日
鹿児島県串良基地に移動。
1945年(昭和20年)4月28日
「第1正気隊」の一員として串良を離陸するが、エンジントラブルのため知覧基地に緊急着陸。
1945年(昭和20年)5月11日
「第3正気隊」の一月として串良を出撃。途中、エンジントラブルのため黒島近海に不時着水。
その後、島民に救助され黒鳥での生活が始まる。
1945年(昭和20年)7月30日
陸軍潜航輸送艇(マルユ)に便乗して黒島を離れる。
1945年(昭和20年)8月1日
長崎県口之津に入港。佐世保、大分、広島を経て茨城県百里原に向かう。
1945年(昭和20年)8月10日
百里原に到着。原隊復帰。
1945年(昭和20年)8月17日
復員。