特攻インタビュー(第5回)
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆沖縄集団自決冤罪訴訟(1)
皆本‥終戦50年の時ですかね。渡嘉敷島で慰霊祭がありますから行ったら、NHKの那覇支局の人がスタッフ3人を連れて取材に来ました。彼に会う前に、沖縄から私の自宅に電話が来ましたが、電話ではやっぱり、間違ってとられたり、説明が不足するので、前の日に那覇のホテルに泊まるから、資料を作って説明したら一所懸命、勉強していました。で、当日、スタッフを連れてきて撮影をやってくれました。
島の小学校の講堂で、村主催の歓迎会の大祝宴がありました。向こうのおばさん連中が着物を着て沖縄の踊り、それから同行した私の家内なんかも一緒に踊る。それを撮影しましてね。知らなかったのですが、その晩、ローカル放送で流して、翌日、全国ネットで放送されました。沖縄で戦った軍人と島の人が一体になってやっているということでね。で、彼とは何回か東京で会っておりますが。だから、NHKには色々、問題なんかあるけど、そういう素晴らしい人もおるという事で感じております。
それから、さっき言ったように、復員した時、遺骨をガーゼに包んで持って帰り、全国を回りました。鹿児島県の田舎に行って、駅に降りたら、お父さん・お母さんはじめ、皆、紋付を着て夏の暑いのに出迎えて頂きました。それから、船舶団長の大町少将を護送した中島一郎少尉が埼玉県の入間出身なんですよ。彼は出撃する時、持ち物を全部、舟艇のハッチに積みました。何もないから遺骨の代わりに、彼が訓練に励んだ海岸のサンゴ礁の椅麗な石を持ち帰って。それで、ご両親に手紙を出しましたら「ありがとうございます。頂きます」と言われた。
当時の国鉄は乗り継ぎ、乗り継ぎでしょ。弟に「一緒に来い」と言って、まず広島で乗り継いで。3回かな、乗り継いで行きましたらね、次の列車が出るのを待っとったら、車掌さんが来て敬礼をするんですね。で、「どうぞ、ご案内します」……おかしなこと言うなと思ったら二等車に案内するんです。今のグリーン車。で、「ここにお掛けください」って言うから、「ちょっとお待ち下さい。私は全国を、こうやって遺骨を頂いて、ずっとお届けして回るから、旅費も節約して行きますから二等車は無理です」って言ったら、「いや、どうぞ」と言うんです。で、4回か5回乗り換え、乗り換えで行きましたが、私と弟は、検札を全部免除してもらいました。涙が出ましてね。国鉄の偉い方に礼状を書きました。「戦に負けたといえど国鉄精神! これは規則違反かもしれんが、そのご厚情は生涯忘れ得ません。」
それから鳥取に行った時は米を持って行きました。米なしでは旅館も泊めない時代だったんです。その米を警官が見て「何だ」と。「米だ」と答えたら「何!闇米か!」と言う。「ちょっと待ちなさいよ。私たちはそういうんじゃない。遺骨を持って私の部下の所に行く」……それで、彼が報告したら職場の警部補が服装を着替えて「私がご案内します」というわけ。戦に負けたと言いながら、やっぱり日本の素晴らしさは続いていると感じました。
それで、中島一郎君のところにご遺骨を持参して行きましたら、たいへん喜ばれて、「皆本さん、私は埼玉県の狭山茶の連合会長やってるが、お礼に、熊本へ種茶の実を送るから植えてください」とありがたい思し召しをいただきました。熊本の菊池で、私の弟や従兄弟のところで製茶をやっとりますがね。で、平成17年に「特定非営利活動法人 埼玉県国民保護協力会」を立ち上げました。いざという時、テロとかなんかが発生した場合、第一線で戦うのは自衛隊・警察・消防だろう。それ以外の非戦闘の老若男女の方々を救うのは誰がやるんだ。これを我々はやろうじゃないかということで作りましてね。今、500人以上の会員がおります。私も高齢だから後輩に譲りました。その挨拶状を上田知事(埼玉県)に書きましたら、上田知事から丁重な手書きの礼状が来ましてね。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆沖縄集団自決冤罪訴訟(2)
--------戦争が終わった後も、渡嘉敷島のことでいろいろな人とのつながりが出来たのですね。
皆本‥曽野綾子さんも、沖縄の集団自決の真実を長年にわたり執筆されて、援助されて深謝申し上げています。家内も私も誕生日の時に僅かずつの金を送っています。あの人はアフリカ難民の救済もやっておられますから。
--------戦隊長だった赤松嘉次さんとは、戦後もずっとお付き合いを?
皆本‥はい。病気で亡くなりましたが、精神的な苦痛があったんでしょうね……。
沖縄集団自決冤罪訴訟(注3)で感じたことがあるんです。裁判のために、大阪から私の家に弁護士が来て打ち合わせなどをやったんですが、第1号の証人喚問に出てくれと言われたから、法廷なんか経験ないし、あんなところに行ったら目が眩むような気がするって断ったんです。でも「皆本さん、出てくれ」と頼まれて出ました。
40分間は主尋問で、こっちは弁護士との打ち合わせ通り。それに続き、40分間の反対尋問になりました。向こうに3人いて、3人のうち2人は親父さんと息子さんが弁護士。で、いろいろ質問された中に「皆本証人のところは、315名が集団自決されたが、皆本証人の奥さんはどうしておられましたか?」というのがあった。何を聞いているか私には理解がいかん。ははあ、と思ったから「じゃあ、申し上げます。あなた方は司法試験に合格して弁護士になっておられるが、もう少し兵役制度とか軍隊っていうことを勉強されてからのぞんでいただきたい」と言いました。よっぽど「馬鹿!」と言いたかったが法廷ですから。
郷友連盟などで講演するんですが、どうも、戦前の法律で行動しているのに戦後の法律で裁くような弁護士・裁判官がおる。平安時代の事案を今の法律で裁くような馬鹿な裁判官とか弁護士がおるからいかん。一番大事なのは兵役制度だ。世界のこれだけの文化・国家で兵役制度がないのは日本だけだ。徴兵制度じゃなくて兵役制度は作らにゃいかん。兵役制度がないと誰も無責任になって、喧嘩した場合に「自分だけは助かる」というような考えが流行したら日本の国はどうなるかということを、盛んに言っています。
それから、私の親しい方が8月6日の広島の慰霊祭にみえましてね。共同通信でワシントン支局長をやっていた松尾文夫さん。松尾さんが書いた本に『銃を持つ民主主義-「アメリカという国」のなりたち』(小学館)というのがある。松尾さんは終戦50年の時にドレスデンの和解という事を書いたりしておりました。東ドイツのドレスデン。1945年2月、ドレスデンは無差別爆撃を受けて、非戦闘員が3万5千人死んだ。軍人、軍属が戦死するのは、これは任務上やむをえん。ですが、非戦闘員もそれだけ死んだから慰霊祭をやったら、イギリスからは女王陛下の代理でケント公爵、アメリカから参謀総長が列席しました。それで、松尾さんは日本で、なぜ、広島・長崎でやらないかと。一番来てもらいたいのはアメリカの大統領だということ。私らもそう思います。オハマ大統領が日本に来て、広島・長崎に参ってもらいたいと思います。東京大空襲では、帝都を低空から焼夷弾爆撃をし、隅田川をはさむ下町一帯が一夜で灰塵となりました。
--------昭和20年3月10日の……
皆本‥はい。ルメイ少将がB29を指揮して、軍隊のいない下町を攻撃したでしょ。そして広島、長崎。それで日本はどうしたかっていうと、佐藤栄作総理は空軍大将になったルメイに勲一等地日章を授与しています。航空自衛隊創設の貢献・功労者ということで勲一等旭日章でしょ。だから、松尾さんといつも話しているんです。「何たることだ、日本は! ちゃんと世界に公言する必要がある」と。アメリカの作家ジエラルド・アスター氏が「降伏促進のために原爆を落としたと思うか?」と言うので、「ノー!」と言って、これは20世紀の人類の破滅だということを書きましたが。アメリカの大統領か参謀総長あたりが来て詣って、その後、日本の総理がパールハーバーに行くべきだと私は思います。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆武士道精神を重んじた二ミッツ元帥(1)
--------右の胸に着けていらっしゃるバッジは何ですか?
皆本‥これはですね、ニミッツ元帥の基金バッジです。さっき言いましたように、あの人は沖縄にはいなかったんですね。太平洋方面、全軍の指揮官だった。それで、どういうものか、私等の島に医薬品や衛生材料を置いていってくれたからたいへん救われましてね。ニミッツは海軍の士官候補生の時に遠洋航海で日本に来た。で、宮中にお呼ばれしてお茶会に出ました。その時に来たのが東郷平八郎元帥でした。それでニミッツ少尉候補生は東郷元帥に直接声をかけて。それでニミッツは東郷元帥の武士道精神に傾倒しまして、東郷元帥の国葬の時には「オーガスタ」という戦艦の艦長でした。東郷さんが舞鶴の鎮守府司令長官時代におられた官舎をモデルにした建物をこミッツ記念館に造りました。庭にある「一心池」、これも舞鶴と同じ形で、そして泳いでる魚はみんな緋鯉ですよ。日本の鯉です。その横に植えてあるのは孟宗竹。アメリカにない。日本海軍の先輩方とアメリカの人が尽力して完成したものです。
私がミニッツさんに感動したのは、お父さんが早く亡くなられて、おじいちゃんに厳しく鍛えられています。どうかすると引っ叩かれたと。で、日本の武士道精神で俺はやるということで育ってきたと。だから日本の武士道をよく知っておられます。それで最後は母校の海軍兵学校で、卒業する学生のパレードの観閲官を頼まれましたが、「そういうのには出たくない」と辞退しました。他の同期生のご夫妻なんかと一緒にレセプションに出ておられますが。それで、墓地はアーリントン墓地に用意しますと言ったら「ノー」と言って、一般の兵隊さんが納まっている墓地に入っていかれました。素晴らしいと思いますね。日本では、何か売名的にやったり、地位を尊重してくれというようなことが先に出ますから。
私はいつも思うんですがね。日本が日露戦争に勝った時には日英同盟があった。その頃のイギリスには武士道精神があった。やっぱり、日本が生きていくためには武士道精神のある人と手を繋がにゃいかん。だから、マッカーサー元帥、あの人は私のいた工兵出身の先輩になるけれど、私はマッカーサー元帥より、ニミッツ提督の方が武士道精神のある人だと思います。こういう人と早く手を繋いでおけば、日本はあんな窮地に陥らなくてすんだんじゃないかと。やはり武士道精神こそ、私は一番大事なことだという感じがしております。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆武士道精神を重んじた二ミッツ元帥(2)
--------皆本さんが考える「武士道精神」とは、どのようなものなのでしょうか?
皆本‥例えば、牛島満閣下は、江戸時代の儒学者・佐藤一斎の書いた「言志四録」を若い時から一所懸命勉強していました。だから、他の人と動きがまったく違いました。恩賜の軍刀を頂かれて陸大を卒業されて、進んで母校の鹿児島一中の配属将校をやられました。普通だったら、配属将校は退役する前の人しか行かないんです。その後、都城の歩兵第二三連隊の連隊附中佐でおられたら、師団長が、もったいないから参謀本部か何かの参謀にしたいと言ったら、大尉・少佐時代に参謀本部勤務の経歴がないと難しいということで下関要塞司令部の参謀に行かれました。それから後、陸軍省に行かれた時に、陸軍次官から質問があったら「その事に関しては部下をして報告させます」って言ったら、その次官閣下が「馬鹿野郎!」と怒鳴ったといいます。で、帰って来られて「やあ、私より君達のほうが詳しいから詳しい人に報告させる」というような事で、そうやってこられました。で、二・ニ六事件の直後に歩兵第一連隊長になりました。第一連隊は二・二六事件の蹶起将校の主体でした。最初、他の人を第一連隊長に予定していましたが、ある人が「いや、あれだけの事件を起こした第一連隊だ。だから、やっぱり牛島を連隊長にしてくれ」と言ったそうです。で、牛島さん、やりましたね。第三二軍の軍司令官を決めるときも、同じような理由で牛島さんになったと思います。
他にも、沖縄師範学校長の野田貞雄さんは、昭和19年暮れか昭和20年の初めに文部省で会議がありまして、会議が終わったら「先生、もう沖縄に帰れる便がありませんので、他の要職にします」と偉い人に言われたら、野田校長はうんともすんとも言わず立ち去って、市ヶ谷にあった陸軍省に行きました。「生徒が待っている。私は帰らなくちゃいかんので」と言って、陸軍の爆撃機で那覇に戻りました。そして、戦が始まります頃から家に帰らんで、師範学校の生徒と一緒に起居を共にされて、最後に師範学校生が摩文仁の方に下がって行きます時に、それを見送って焼け跡の校舎で自決して果てられました。
私はいつも思いますが、明治5年に「邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」という日本の教育の伝統的な精神。明治6年に武士道を根拠に作り上げた帝国陸海軍の軍隊。これがやはり、沖縄において開花したと思います。これを絶やしちゃいかんと。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆武士道精神を重んじた二ミッツ元帥(3)
私が市ヶ谷で幹部学校の教育をやっていました時に、すぐ前に戦史室がありました。戦史室長が西浦進先生でした。西浦さんは、服部卓四郎・堀場一雄とともに陸士34期の三羽烏と称されましたが、その筆頭が西浦さんです。西浦さんの書いておられる中で感銘したのが「上級者の不勉強」。陸軍の場合、中佐・大佐になってからの勉強が足らんと。で、観念論だけで動いておると。歩兵操典を作ったが、これは戦場とか部隊経験のない者が起草しておると。こういう点で勉強が足りなかったのが、日本を追い込んだということを西浦先生が書いておられます。西浦先生から毎日、指導を受けました中で「おい、皆本君。帝国陸軍は視力1・0以上ないと士官学校に採用しなかった。視力0・8や0・7の人は士官学校に入れなくて陸軍経理学校に行った。経理学校に行った人と士官学校に来た人の頭脳を比べると、経理学校に行ったのがはるかに上だった。これは、たいへんな損失をやってる。返す返すも残念だ」ということがありました。私も防衛庁におる時、防衛大学校の採用の身体検査で、視力はいくつだ?と聞いたら1・0だという。昔を踏襲していていると思ったから、生活様式が変わっているのにこれではいかん!と。西浦先生から教わっていたから0・8まで下げようと。部下を使って、運輸省で民間ジェット・パイロットを調べさせたら、0・6まで下げていましたよ。コンタクト・レンズを使っていますからね。
で、海と空の課長たちを集めて言ったら「皆本さん! あなた、眼鏡かけた戦闘機のパイロットを、見たことあるか?」……海上の課長は「艦上に立って潮風を受けると、眼鏡が乾いて見えなくなる」と。だから当然ダメだ、ということで内局に行ったら、教育課長、人事第一課長、人事第二課長、みんな眼鏡をしてるでしょ (笑)。この人たちと一緒に変えてやろうと決意してすすめましたよ。航空が「とにかく視力を落としたら、パイロットに差支えがある」と言ったら教育課長が……後に事務次官をやって防衛大学校長もやった夏日晴雄さんが「何だ! 防衛大学校はパイロット養成学校か!そうしないために俺は苦労して航空学生制度を設けたんだ!」と。で、私が多数決でいきましょうと言ったら4対2ですよ。私が目の視力改正の発案者。内局の人3人と安堵した。それで嬉しかったのは、昭和52年3月15日、京都大学から防衛大学校長になられた有名な猪木正道先生から素晴らしいトロフィーを頂きましてね。その晩は浦賀でご馳走になりました。
また、西浦進先生から聞いたのは「昔の明治時代は幅があったよ。陸軍大学校に合格したら、支援兵種の工兵と砲兵は3カ月遅れで入校して良かった。その間、歩兵とか騎兵の人なんかは普通学の他にそういうことも勉強させた」と。その後は十杷一からげでしょ。やはり、西浦先生が言われるように勉強が足りなかった。そのままやってきたところに、作戦運用要諦に問題があった。だから時間があれば、靖囲偕行文庫とか偕行社に置いてある西浦進先生の本を読んでほしいですね。
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆若い人たちへ贈る言葉
--------はい。読ませて戴きたいと思います。その他に若い人に何か伝えたいことがあれば。
皆本‥特攻隊経験者として感じましたのは、まず、執行者の立場ですね。そして、目的と可能性を冷静に検討し、自己の勢いを自制すべきであると。何か、勢いに任せてやるという事は、上に立つ人は絶対やっちゃいかんと。もう、これをしみじみと感じました。
それから、チャーチル首相の就任の時の下院での第一声、「私が捧げることができるのは血と苦労と涙と汗だけである」。ブッシュ大統領は就任の演説で「私は、あなた達が観衆や従僕でなく、市民であることを求めたい」。エール大学のスタンパーグ博士は「秀才知より成功知へ。無力な秀才知から活力ある成功知能へ」。そして、「民主主義とは守ってもらうものでなく、守るものだ」と言っています。これは、さっきちょっと触れました松尾文夫さんの『銃を持つ民主主義』にある言葉で非常に感銘を受けました。私は、歴史なき理論は空虚で、理論なき歴史感は盲目であると考えています。部隊の先頭に立っていく当事者はさっき申し上げました通りと考えます。
60年ぶりにアメリカ歩兵第77師団のプライベート・ファースト・クラス(陸軍一等兵) の方に会って別れる時に、「必要あれば、私は年をとっていても、自転車に乗ってでも竹槍を持って行くんだ」ということを言いましたら、その場にいたテレビ局と新聞社がそういう風に纏めて報道してくれました。やはりですね、人にやらせん、自分がやらにゃいかんな、という感じがしています。
おかげさまで私は30年近く、環境関係の会社で大事にして頂きましたが、創業者の会長が「皆本さん、新入社員に何か教えてくれますか」と言うから、「諸君、入社おめでとう。君たちに二言、言いたいのは、会社に来て挨拶するのは社長は後でいい。トイレの掃除をしているおばさんに頭を下げて、ありがとうございますと言え。それができるようになったら会社の役に立つ」と簡単にやりました。というのは、トイレの掃除をしている人なんかは、ご主人がいないとか、難儀しながら食っていくために一所懸命頑張っている。そういう人ほど大事にすることが大切だと。で、私もバスなんかで乗りますとね、降りるときに「どうもご苦労さんです」と言ってね。やっぱり、それが大切だという感じがしております。
それからもう一つ。代表的民主主義国家の日本には、やはり、兵役制度……徴兵制じゃなくて兵役制度がないと……やはり皆が均等に国防の意識、その負担を感じないという気がしています。今度、何でしょ。インド洋の給油を引き揚げるなんてことを言っている。そんなもんじゃないな、っていうことです。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。
(……了……)
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※注1・最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎
アメリカ軍が慶良間・沖縄本島に上陸した頃、小沢中将は軍令部次長だった。
沖縄戦末期の昭和20年5月29日、連合艦隊司令長官(海軍総隊司令長官と海上護衛司令長官を兼任)に就任。終戦までその任にあった。
※注2・エリソン・オニヅカ中佐
アメリカ空軍の軍人。最終階級は空軍大佐。
日系アメリカ人最初のアメリカ航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士。
1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故で殉職。
※注3・沖縄集団自決冤罪訴訟
大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波書店)の中で、沖縄戦末期、軍の命令によって座間味島、渡嘉敷島の住民が集団自決を強いられたという記述があり、これを事実無根であるとして、元海上挺進第一戦隊長・梅沢裕氏と第三戦隊長・赤松嘉次氏の弟にあたる秀一氏が原告となって、大江氏および出版元の岩波書店に名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めて起こした裁判。第一審、第二審とも名誉毀損の成立を否定し、原告の請求を棄却した。原告側は最高裁に上告したが、2011年4月11日、最高裁第一小法廷は上告を棄却。原告側の敗訴が確定した。
皆本 義博氏(海上挺進第三戦隊第三中隊長)軍歴
1922年(大正11年)
熊本県生。
1941年(昭和16年)4月
陸軍予科士官学校入校。
1942年(昭和17年)10月
陸軍士官学校入校(陸士57期)。
1944年(昭和19年)4月
陸軍士官学校卒業。
1944年(昭和19年)7月1日
陸軍少尉任官。
1944年(昭和19年)9月
海上挺進第三戦隊第三中隊長。
1944年(昭和19年)9月下旬
沖縄・慶良間諸島の渡嘉敷島に到着。
1945年(昭和20年)3月26日
米軍の慶良間侵攻により、マルレの自沈命令が出される。
1945年(昭和20年)3月27日
米軍が渡嘉敷島に上陸開始。
1945年(昭和20年)3月28日
渡嘉敷島民315名が集団自決。
1945年(昭和20年)8月23日
渡嘉敷島で武装解除。
ー完ー