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終戦の思い出 倉井 永治

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/12/27 9:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 徴兵検査

 はじめに、本誌(終戦に想うこと(終戦前後の体験記))に載せて頂いた私の駄文に、先輩諸兄各位から有難い感想等を寄せて頂き、大変感謝しております。失礼ですが本誌上をお借りして厚くお礼申し上げます。

 なお、半世紀以上も前の終戦前後の話など、若い人達は興味が無いと思いますが、何かの参考にでもなればと思い再度筆を執りました。一読頂ければ幸いです。

 昭和19年(月日不明)、本船が神戸へ入港した際、私は此処で徴兵検査を受けた。明治政府は時代の要請により富国強兵政策の一環として明治6年、20歳(以下何れも数え年)の男児に徴兵制度を課した。そして30年、兵を養ったお陰で大国ロシャの強引な南下政策を、多くの犠牲を払いながら排除し(日露戦争)、日本は亡国の危機を脱したのである。徴兵制度はその後も存続し昭和19年従来の20歳が19歳に繰り上げられて実施され、私は丁度それに該当したのである。又、徴兵検査の受検は本籍地(私の本籍地は新潟県)での受検が原則と思っていたが、入港先の神戸で受ける事になった。何れも戦争末期の切迫した情勢によるものと思われた。
 私は神戸市内の小学校の講堂と思われる所で、同じ19歳の若者達と一緒に「越中フンドシ」一丁の姿で整列していた。当時、青年以上の年配男児の越中フンドシ着用は常識であり、現今のパンツとかブリーフとか舌を噛みそうな物を着用している男児は殆んどいなかった。越中と言うからには冨山が元祖で(編集部注:越中ふんどしの由来は、細川越中守が創始したと言う説と、日根野越中守が創始したと言う説、大坂新町の妓越中が創案したところからこう呼ばれたと言う説がある<日本語源大辞典>)それなりに歴史があると思われるが、ノーベル賞の田中さんと言い、越中富山の売薬業と言い、その発想には感心する。これほど便利な下着は世界廣しといえども類が無いのではないか。木綿の手拭の片方の端に紐を付けたような、至極簡単明快なこの越中フンドシー丁の姿で団扇一本を持ち、ヒンヤリとした縁側に寝転んで涼をとるなどは、まさに天国であり、日本男児の本懐というものだ。閉め切った部屋の中でクーラーと言う無粋な機械を回して、衣服を着用したまま涼をとるなどは「野暮」と言うものである。

 この越中フンドシは、敵と交戦中に降参の場合、又は軍使となった者は白旗の代用として利用したり(帝国軍隊では降参は無かったが、軍師が利用したことがあるらしい)、濡れ手を拭く手拭の代用は勿論、怪我の場合は包帯となり、下駄の鼻緒にもなる。その他、応用範囲は広く枚挙に暇が無い。それに第一、洗って乾かせば忽ち乾き、乾燥率は抜群である。青天下、竿に乾され風にはためくこの越中フンドシを眺めていると心が安らぐではないか。まだある。旅に出る時、これを数枚トランクの底に忍ばせても嵩張らない利点がある。これ程便利重宝な越中フンドシは何故消えたのが、「責任者は出て来い」と言いたい。

 しかし、失敗もあった。ウドンを畷っているとき、社会の窓から覗いているフンドシの紐を、こぼしたウドンと間違えて、箸でつまんで口に入れようとした等、我ながら呆れたものである。

 また、寝転んで涼をとっているとき、フンドシの横から金の玉がダラリと覗いている図などは、あまり格好の良いものではないが、本人は知らぬが仏の天下泰平であるから罪は無い。

 さて、少々横道に逸れたが本題に戻る。整列した若者達が5~6名毎に横に並び「四つん這い」になる。これが夜這いの格好と思ったが、私は経験がある訳ではない。検査官は尻の方へ廻り、フンドシをずらして尻の穴をグイッと広げての「痔の検査」である。「宜しい」、ピシャリと尻を叩いて終わりである。時間にして僅か数秒。次はM検である。椅子に腰掛けた検査官の前に進み、直立不動の姿勢をとる。「フンドシを外せ」との検査官の命令に、慌ててパラリと前の部分を外すや、検査官は抜く手も見せずグイッと、Mをしごく。それは「あっ」と言う間もない電光石火の早業である。「よし、次」、私は身に覚えがあった訳ではないが、胸を撫で下ろした。ここで淋病、梅毒などの者は油を絞られる。そして最後は色盲の検査である。検査官と対峙して椅子に掛ける。その机上にある本の中の、迷彩色に隠された字を答えると言うことであり、検査官は一定の速さでパラバラとページをめくっていく。相手が答えようが答えまいが一向にお構いなしで、答える暇がないほど早い。今まで経験したことのない「瞬間の勝負」である。私はなんとか全部答えることができた。一世一代の検査は終了した。当時、検査年齢が繰り上げられたことによって人数も倍増し、検査官の苦労も並大抵ではなかったろう。身長、体重、坐高、視力、その他の検査も受けたと思うが全く記憶にない。検査が終るといよいよ判定である。

 指名されて判定宮の前へ進み直立不動の姿勢をとる。「甲種合格」を宣言された。私は一瞬耳を疑い意外に思ったが間違いではない。「精々第一乙種くらいであろう」と思っていたのである。徴兵検査もここへ来て質が落ちたかと思ったが、甲種は甲種である。私の次に宣告された若者は「第一乙種合格」となり、「チクショウ、色盲検査で一字答える暇がなかった。判っていたのに検査官に嫌がらせを受けた」と、口惜しがること頻りであった。「そんなに甲種が欲しけりや、私が代わってやるよ」と言いかけたが止めた。勿論、そんなことが出来る筈がない。

 私は船へ戻り、再び敵潜水艦を気にしながらの危険な輸送業務に従事した。身分は軍属のせいかどうかは分からないが覚悟していた赤紙(軍隊への召集令状)は遂に来なかった。甲種合格は一番先に赤紙が来ると思っていたのだ。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/28 8:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 そして終戦後、私は下船し郷里へ帰った。「国破れて山河あり」、戦火に遭わなかった古里の山や川、そして人々は暖かく私を迎えてくれた。復員した人々は続々と帰郷し、私は小学校当時の同級生を尋ねた。彼等の殆んどは第一乙種で、甲種の人はいなかった。

 そして復員の際、払い下げ物資を担いできた話ばかりで、軍隊生活の厳しい話を聞く事は出来なかった。私は落胆した。配属将校による学校教練などは児戯に等しいと思っていた私は、かって世界最強を誇った日本陸軍の軍隊生活を体験する機会を失ったのである。万事要領が悪く、動作の鈍い私は軍隊生活を希望する筈は勿論無いが、戦後のある時期、野間宏の「真空地帯」を読むにつれ、「軍隊」と言う特殊社会の内部における人間模様を見聞し、体験する機会を永遠に失ったことを悔いた。そして、幼い頃の想い出だけが、いつまでも私の脳裏に残るのである。話は子供の頃(昭和初期)に遡る。

 数人の漢垂れ小僧が泥まみれで遊び惚けている時、あの懐かしい軍歌が聞こえてきた。私達は遊びを止めて競って往来(道路の事)へ駆け出してみると、整然と隊伍を組んだカーキ色の一団が挨を巻き上げながら行進してくるのが見えた。(当時の道路は殆んど舗装されていなかった)

 「兵隊さんだ、兵隊さんだ」。それは度々眼にする光景ではあったが、私達は夢中で傍へ駆け寄った。帯革や銃剣等に塗られた油と、兵隊さんの体臭と汗と、砂挨等がゴッチヤに混ざった匂いは、まさしく私達の大好きな「兵隊さん」の匂いであった。演習帰りであろうか、兵隊さん達は真っ赤な顔に汗を流し、重い銃を担ぎ、ザクザク、ザクザクと軍靴を響かせ、挨を巻き上げながら四列縦隊で行進して行く。隊長は先頭にあって子供達に対し、笑いもせず手も振ってくれません。列外の班長さんは私達に笑顔で手を振って応えてくれた。

 『ここは御國の何百里、離れて遠き満州の……』、一班が歌い、又次の班が繰り返し歌って行く。私達は、この大好きな軍歌に和して、隊列が舞い上げる挨の後を魅せられたようにぞろぞろと追った。垂れている青漢は挨で黒くなり、それを衣服の袖で拭ったりした。やがて、村外れで私達は立ち止まり、兵隊さんの一団が遠ざかって行くのを見送った。歌声も段々と小さくなり、赤い夕陽が西の空を染める頃であった。私達は子供心に、ちょっぴり浸った感傷を振り払い家路を辿ったのであるが、哀愁を含んだあの軍歌の余韻が、いつまでも私の耳底に残ったのである。

 そして、いつの問にか70年以上の歳月が流れた。ある時、私は訪ねてきた孫達に、話のついでに痩せた胸を反らしながら言ったものだ。「おじいちゃんはな、むかし甲種合格だったんだぞ」と。孫達の返答は「なに、それ」と。私はこれを聞いた瞬間、説明する気がしなくなった。隔世の感を改めて感じた。

 青年男児の義務であった徴兵検査は、明治6年の制定以来、昭和20年の敗戦に至る72年間でその幕を閉じたが、韓国では現在も実施されている。
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