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終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/12/23 8:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 昭和19年4月、私は無線講を卒業すると直ちに輸送船に乗り組み、南方海域で兵員や物資の輸送に従事した。当時は既に日本の敗色濃厚となり、制空、制海権の大半を失っていたが、戦況の詳細については知る由もなく、緊迫した空気の中での乗船であった。

 南方海域での事であるが、海軍の物資輸送で船団を組み航行中、並航していた近くの船の舷側に、轟音と共に巨大な水柱が上がったのを目撃した私は、非番であったが直ちに通信室へ直行した。当時、本船は船団の司令船であったので、臨時に乗船していた海軍の通信担当下士官が私と同時に通信室へ駆け込むや、局長(通信長)の了解のもと、直ちに送信機を起動し、「本船団は〇〇日〇〇時〇〇分、北緯〇〇度〇〇分、東経〇〇〇度〇〇分にて敵潜水艦の攻撃を受け……」と指定されている周波数、宛先で暗号文を打電した(予め、予想される電文が作成されている)。幸に他の船に被害は無かったが、それ以後、私と同じ船室でベッドを並べている中年のパーサー(事務長)がすっかり脅えてしまい、就寝前には必ず救命胴衣を着用し、貴重品を抱え込み、「こんな船には乗るんではなかった。次席さん(次席通信士=私のこと)早く下船しないと殺されてしまうよ……」等と、くどくど愚痴を云われるのには閉口した。私は決心して乗船した以上、運を天にまかせ、非番のときは十分に休養をとり職務に精励(せいれい)することができた。又、本船が台湾の港に着岸し、私達は船内のサロンで休憩中、敵機が超低空で我々の船を急襲してきたことがあった。当時本船は、陸軍将兵の輸送業務に従事していたので、船首部に対潜水艦用の砲が一門備え付けられ、その要員として陸軍の将校一名と兵士十名程(彼等は船砲隊と呼称されていた)が配置されていた。彼等は直ちに応戦した。サロンでは警報と同時にボーイがテーブルの下へもぐり込むのが見えた。「俺の死に場所は通信室だ!」瞬間閃いた私は階段を駆け上がり通信室へ飛び込んだ。と同時に敵機が投下した爆弾の一発は本船左舷近くの海中に落下し、海水が通信室の窓から侵入した。敵機は去った。僅か十秒前後の出来事であったが被害は無かった。
 やがて船砲隊長が我々の前に海水でズブ濡れの軍服のまゝ姿を現し、「いやーびっくりしたよ、敵さん逃げ足が早いので、なかなか当たらなくてね-」等と云い乍らも上機嫌であった。彼は田舎の親父然とした中年の陸軍少尉殿である。あんな時代遅れの砲では「蟷螂(とうろう)の斧」ではないか、と誰もが思っていたが、皆に健闘を称えられた少尉殿は満足して立ち去った。
 かくて私は南方海域で幾度か危機に遭遇したが、幸に難を逃れ生き延びることができた。

 その後、本船は当時日本の領土であった北朝鮮の清津や羅津(清津より更に北の港で、ロシヤ国境に近い)と新潟の問を往復し、満州(現在の中国東北地方)産大豆の輸送に従事したが、戦局の悪化と共に唯一安全と思われていた日本海にも敵潜水艦が出没し、被害が出始めていたので輸送船の単独航海は危険となり、駆逐艦等の護衛による船団航海が主流となった。本船が満州の大豆を新潟へ陸揚げしていた頃、岸壁にこぼれ落ちた大豆を、近くの市民は競って拾い集め、配給食料の足しにする程事情は逼迫(ひっぱく)していたのである。ところで本船が羅津に入港中、私達2、3の若いオフィサー連は連れだって上陸し、付近の見物に出掛けたが、此処は全く観るべき処もなく、港に迫る樹木の無い荒涼たる山並みが続き、人家もまばらで人影も殆ど無い状況であった。我々は山腹に点在する人家へと続く道を登り、とある一軒の家の前にさしかゝると、中から中年の日本の婦人が現れて、「是非休んでいってくれ」と、我々を家の中へ招じ入れ、茶菓をもって歓待してくれた。全く人恋しいといった様子で、「戦争は終わりに近づいていると思いますが、もしその状態になったら私達家族はどうなるのでしょうが、この辺はソ連国境も近く大変不安です。一日も早く内地へ帰りたい、できることなら貴方達の船にでも乗って帰りたい」と、訴えるのである。私達は何と答えてよいのか、返答に窮するのみであった。そして終戦後あの人達の運命は、あれから一ケ月もしないうちに急変したであろう、と容易に想像できた。それはソ連の突然の参戦と日本の敗戦により、半島在住の多くの日本人が災禍に遭遇したからである。今は国交が閉ざされている北朝鮮の、あの荒涼たる羅津の風景と、その後のあの家族の運命が想い出されるのである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/24 7:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 さて、単独航海が不可能となった本船は、船団に組み込まれて北朝鮮の潜を目指す事となり、能登半島の七尾北湾(七尾湾の中央にある能登島により、湾は南北に分かれている)で編成した船団は、駆逐艦の護衛のもとにそこを抜錨(ばっぴょう)したのは終戦も間近い昭和20年8月の初旬であった。戦時歌謡の文句にある「あゝ堂々の輸送船……」に程遠い大小取りまぜた生き残りの中古船であったが、その中で私が次席通信士として乗り組んでいた日本郵船の江ノ島丸(6400トン)は大きい方で船団の殿(しんがり)をつとめる重要な位置についていた。船団の大半が湾口を出て、殿の本船が湾口にさしかかったとき、通信室で当直中の私は、「ズシーン」という鈍い音と、多少の衝撃を感じたが、本船は何事も無かったように航行している。やがて芹沢局長(局長とは通信長のこと。船舶無線電報局の長という事で船では局長が慣用語であった)が「本船は磁気機雷らしきものの海中の爆発により、機関の一部を損傷したので湾内へ引き返し修理をすることとなった」との情報を伝えてくれた。こうして本船は又元の湾内へ引き返し、海岸近くに仮泊(かはく)して機関を修理することとなったのである。しかし、本船を除く他の船は駆逐艦に護衛され、北朝鮮の清津港の沖に達したとき、突如参戦したソ連航空機の攻撃により壊滅状態になった、との事であるが、それを風の便りに聞いたのは随分あとの事である(これが事実とすれば私達は九死に一生を得たことになる)。

 我々はそのような事は露知らず、しばしの自由と休息を楽しんだ。機関の故障復旧の見通しは立たず、芹沢局長は家族を心配して東京郊外の実家へ帰省した。ここ七尾湾は白砂青松(はくしゃせいしょう)、風光明婿な別天地で、爆音一つ聞こえず、苛烈な戦争が今行われているとは想像できない時間と空間があった。晴天続きの炎天下、我々は船のタラップから澄み切った海に飛び込んだり、付近の海岸迄泳ぎ上陸し、海岸を散策したり、又近くの町(穴水町と思われる)や村落迄足を運んだりしたが、人影を殆ど見掛ける事もなく、森閑(しんかん)として蝉の声だけが賑やかであった。そんな或る日、例の仲間2、3人と泳ぎ疲れて付近の海岸近くにある寺の御堂に腰を下ろし休息していると、庫裏(くり)から一人の老婦人が出てきて、茶菓をもって歓待し、「この辺は壮年や若い男女も出征や徴用により殆ど出て行き、話し相手も居なく大変淋しくなりました。話し相手に度々来て下さい」と云うのであった。

 この様な事もあって炎天が続いた8月15日の昼、我々は船内でポツダム宣言を受諾し無条件降伏を決定した天皇陛下の玉音放送を聞いた。しかし、それ以前にも私は通信室の短波受信機による海外放送で、日本の敗戦は時間の問題であることを知っていたので別に驚きは無かったが、この決定により祖国と自らの将来については全く不明となり運を天に委せる、という心境となった。

 秋風が立ち始めた頃、私は意を決し生死を共にした本船に別れを告げて郷里(新潟県)へ帰った。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/25 8:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 翌、昭和二十一年、家で久し振りの正月を楽しんでいた私に-通の至急電報が舞い込んだ。「マッカーサーの命令により……」とする乗船指令書であった。当時、泣く子も黙ると云われた日本の占領軍最高司令官(極東軍最高司令官)マッカーサー将軍の命令は絶対であり、私はこうして日本の重要な戦後処理業務の一つである海外からの引揚者、復員軍人の輸送業務に従事することとなった。終戦前後の混乱期は汽車の切符も入手困難であったが、この電報を提示することにより容易にそれを手にした私は、指定された乗船港の横浜へ向かった。途中眼にした東京、横浜等の市街地は一面焼け野原の惨状で、焼け残った食堂や堀立小舎(ほったてごや)の前に、薄い紙切れ同然の食券を大切に握りしめた人達が長蛇の列をなし、順番を待っているのである。そして自分の目玉が写る程薄い重湯のような一杯の丼を、あっという間に畷り込むと、又列の後ろに並び空腹を満たそうとするのであった。人々は明日への希望より、とに角、今日生き延びることに懸命だったのである。

 私は、横浜港で指定された船に到着すると、思いもかけず江ノ島丸で別れた芹沢局長が待っていた。私は芹沢局長の好意によりアメリカ貸与のリバティ型汽船(7200トン)に乗り組み再び一緒に働くことになった。

 そして、戦時中のMAM(潜水艦情報のこと、JJCから一定の時間と周波数により、敵潜水艦の出没位置が暗号(数字)で放送される。航海中の全船舶はその受信を義務づけられていたと思う)や赤表紙の暗号書(前記のMAM暗号解読書、及び遭難や被害を受けた場合に打電する暗号作成書)及びライフジャケットから解放されて、伸び伸びと働くことができた。中国の上海から福岡への復員輸送では、中支派遣軍に一兵士として所属していた次兄に会う事はできなかったが、福岡で進駐していた米兵が、厳冬中にもかゝわらず、上半身裸のまゝ球技に興じている姿には一驚(いっきょう)した。当時の日本人は食べるに食無く、満足に着る物も無い状態で寒い冬は檻複(ぼろ)を沢山纏(まと)って着ぶくれ状態で寒さを凌ぐ姿を見慣れていたので、彼等の元気溌刺(はつらつ)たる姿にただ呆然とするのみであった。
 戦勝国と敗戦国の差をまざまざと見せつけられ、「第一に食糧事情が違うのだ」私はそう結論づけてそこを去った。

 そして、その後、かつて、日米航空決戦場であったニューブリテン島のラバウルからの復員輸送に従事したが、港近くのラバウル冨士(200米程の火山で、富士山に似ていることから、その名がつけられ、又花吹山とも呼称された)をスケッチする等して戦後の解放感を味わうことができた。このラバウルは嘗て日本海軍航空隊の前線基地で、付近では日米海軍航空機による死闘が繰り返され、昭和18年4月18日、連合艦隊司令長官、山本五十六はここラバウル飛行場から前線視察に飛び立ち、ブーゲンビル島上空において敵機に撃墜され戦死したのであるが、本船が入港した当時はこのラバウル富士も薄い煙を上げ、禿げた山容を赤道直下の太陽に晒し、何事も無かったように静寂であった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/26 14:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 こうして私は多くの同胞(かつて日本の占領地、植民地等(満州を含む)で働いていた引揚者や復員軍人で、その総数は約625万人とも云われている)を内地へ運ぶ一端を担ったが、総ての名誉と地位と財産等を放棄し、裸一貫となったこれ等の人々も、やがて日本の復興に大きく寄与する一員となった事を忘れてはならない。
 しかし、当時の日本はこれ等の人々の流入による人口急増もあって、更に貧困と混乱に拍車がかかり、人々はただ食と職を求めて右往左往するのみであった。

 その後私は海上保安庁が掲げる「正義・仁愛」の旗の下で、500kHz、2091kHz、2182kHz、による遭難通信、緊急通信等の聴守運用に日夜を分かたず神経をすり減らしたが、今振り返ってみると終戦前後のあの短い一時期は、私の青春時代とも重なって緊張した空気の中でも楽しい時間であった。

 1895年(明治28年)マルコニーが実用化の道を拓き、我が国では1905年(明治38年)5月27日、海軍の哨鑑信濃丸が「敵鑑見ユ」を発信し、又1912年(明治45年)4月14日、当時世界一の豪華客船タイタニック号が発した遭難通信により、一躍時代の寵児として歓迎され、大いに利用されてきたモールス符号による無線電信も、情報通信分野の飛躍的な進展によって1999年(平成11年)1月を最後に、約一世紀に及ぶ実績を惜しまれながら永遠に姿を消し、歴史の-頁にその名を留める存在となったが、その素朴にして個性豊かな通信手段は、人類に夢と希望を与え、悲喜交々(ひきこもごも)のドラマを残し、それに携わった人々によって永遠に語り継がれることとなった。

 なお最後に祖国を信じて戦禍に倒れ、職に殉じた幾多の先輩、同僚を偲び、そして僭越ではあるが、今は亡き尊敬する局長、芹沢喜代巳さんについて少し語らせて頂きたい。芹沢さんはかつて戦前、花形の欧米航路でも着用していたと思われる古い制服をいつも着込んで、瓢然(ひょうぜん)と通信室へ現れ、黙々と仕事をこなし、時には軽妙な冗談も飛ばす痩身長躯(そうしんちょうく)の好好爺(こうこうや)であった。そして着用している制服の袖口はすり切れ、巻かれている金モールは腿(あ)せてはいるが意に介せず、ブカブカの古色蒼然たる制帽を頭にのせ乍ら局長室から出てくる姿が彷彿するのである。戦争がなくて、平和な時代が続いていたなら花形航路を十分満喫できたであろうにと同情の念に耐えない。

                  
 息が切れて手を休め、腰を伸ばし乍ら鍬(くわ)に寄りかかり汗を拭く、まだ一畝(うね)の半分も耕していない。しかし、隣の小さな畑にはナス、トマト、キュウリ等の苗が整然と植えられ、スクスクと成長している。その支柱も見事に組み立てられ、幾何学模様を形成している。私は満足してそれ等を眺めた。真っ青な南の空には白い雲が浮かんでいる。平和な風景がここにあった。これでよいのか、私はそれを眺めるや一瞬浮かんだ連想を断ち切り、手に唾して再び鍬を握りしめるのであった。
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