地震などの天災を語る 
(期間:2013.5.1 - 2013.6.30)

「天災」とは地震・台風・雷・洪水・津波などの自然災害ですが
天災は忘れた頃にやってくると言われます。
みなさんの体験や伝聞、それに対策や後始末なども、お待ちしています。


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  • [No.132] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/21(Tue) 19:13
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    > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    山岳用ランプで診察する開業医

    家と病院を失った医師たちは自らも被災者でありながら
    聴診器が入った往診用カバン、縫合セットなどの器具を包んだシーツを背負い
    避難所に駆けつけた。

    体調不良で苦しむ避難者たちのために、避難所に診察スペースを作り、治療に力をつくしている。

    「先生、熱っぽいです」「そりゃ大変だ。風邪かな?体温を測ってみよう」
    約400人が避難する岩手県大槌町の高台にある弓道場、薄暗い場内で医師の植田俊郎さん(56)は山岳用のヘッドランプを点灯させながら被災者と向き合っていた。

    海岸沿いにある植田医院と自宅が入る4階建ての建物は3階までのまれ
    植田さんは家族や看護師ら18人と屋上に避難。
    とっさに聴診器と血圧計が入った往診用カバンと自動体外式除細動器(AED)を手に取った。
    「これがないと患者さんを守れない」

    地震翌日にヘリコプターで救出されて以来、着の身着のままで弓道場に寝泊まりし、診療を続ける。
    医薬品は救援物資で届きはじめたが、患者たちのデータが入ったパソコンは海水に浸り、被災者たちは薬の手帳を失った。
    極めて厳しい医療環境だが、「この土地で生きていく。やるしかない」


    隣接する山田町の堤防近くにある近藤医院の医師、近藤晃弘さん(51)は地震直後、医院2階の窓ガラス越しに堤防の様子を見ていた。
    ぶ厚い堤防が「ズン」という地響きとともに2メートルぐらい津波に押し込まれ、海水が町になだれ込んだ。
    看護師ら約20人と3階に逃げた。

    医院と自宅は壊滅状態。近藤さんはけが人が多数出ていると考え、3階の手術室にあった添え木、縫合セット、ハサミ、ピンセットをシーツに包み、がれきの中を持ち運んだ。

    避難所の山田南小学校で、地元の医師2人とともに診療を開始。
    地震直後はがれきで体を負傷した患者が多かったが、「レントゲンが撮れないため、触診で腫れ具合を確認しながら打撲か骨折かを見極めた」

    近くの薬局の人たちが泥をかぶりながらも、無事だった医薬品を持って駆けつけてくれた。
    みんなで手分けして、かじかむ手で泥を洗い落とした。
    「これがあったから、救援物資が届くまでの数日間を絶えることができた」と感謝する。


    [No.131] プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/21(Tue) 17:43
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    > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    津波に向かい、命捧げた駐在さん

    東日本大震災による警察官の死者・行方不明者は宮城県で13人、岩手県で11人、福島県で5人、東北管区警察局で1人の計30人(5月11日現在)が確認されている。

    その多くは、住民から親しまれ被災者らの命を守るため自らの危険を顧みずに飛び出し犠牲となった。

    「大谷駐在所史上、最高の駐在さん」
    宮城県警気仙沼署大谷駐在所の千田浩二巡査部長(30)の地域での評判だ。

    平成22年11月、神社の行事で警備についていたとき、お清めして海に入る住民に交じって自らも海に入った。地域の人たちにとっても、予期せぬ行動だった。

    大谷に来て始めた釣りに没頭し「老後は大谷に家を買って住みたい」と笑顔で話していたという。

    地震発生直後、千田さんは海岸近くに人がいるのを発見した。
    ためらうことなくパトカーを走らせた。
    「海岸に行く」窓越しに同僚にジェスチャーで伝えたのが最後の姿になった。

    千田さんの同僚はパトロールの途中、海から巨大な津波が押し寄せてくるのに気づき
    高台の方向に逃げたが、千田さんのパトカーがのまれ、海に流されていくのが目に映った。

    22年4月、一緒に駐在所へ居を移した妻(30)と長女(4)と長男(3)は無事だったが、大津波で駐在所の半分がえぐりとられるように損壊した。


    宮城県警岩沼署生活安全課の早坂秀文警部補(55)も地震の日、同僚数人と一時
    約1200人が孤立した仙台空港近くの沿岸部へ避難誘導に向かい、音信不通となった。

    遺体が発見されたのは、3日後の14日午後4時ごろ。海岸から1キロほど離れた民家の敷地内に倒れていた。
    ほかの同僚と、乗っていた車両はまだ見つかっていない。

    2人の孫のおじいちゃんでもあった。仙台市内の自宅の隣に30平方メートルほどの土地を買って小さな公園を作った。
    その芝生で、表情を崩して小学生の孫とキャッチボールに興じるのを、近所の人はよく見ていた。


    [No.130] Re: 被災地に生きる 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/20(Mon) 20:48
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    男爵さん こんばんは

    異国の災害で子供を亡くした親御さんの心を思うと、言葉も有りません。

    娘さんが亡くなった災害からの復興の為に義援金をつのる親の思い、
    もし自分の子供だったらどうしただろうと思うと、切ないです。


    [No.129] Re: 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/20(Mon) 19:45
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    旭岳さん こんにちは

    > > > 「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
    > > > ばかりです。

    犠牲の英語教師、父が受け継ぐ日米の絆

    米国人ではじめて死亡が確認された女性英語教師テーラー・アンダーソンさん

    宮城県石巻市市内の小学校で授業を終えたとき地震が起きた。
    大津波警報を受け、自宅のあった門脇町に向かう途中で津波に巻き込まれたとみられる。

    震災翌日は中学校の卒業式が行われるはずだった。
    教頭は「テーラーさんは、休日なのに式に出席すると言っていた。思いやりが伝わってくる先生だった」と声を震わせる。

    米国の大学で日本文学を専攻し、2008年に来日した。
    石巻市の小中学校で外国人指導助手として3月まで教鞭を執り
    8月に帰国する予定だった。

    テーラーさんの父は、悲しみを乗り越え、遺志を継ごうと
    3月23日、米国で復興支援基金を創設し
    約10日間で5万ドル(約420万円)が集まり
    学校再建などに使われるという。

    教頭は「交流が終わってしまうと思っていたが、テーラーさんの思いがつながった」と感慨深そうに語った。


    門脇町は小高い日和山のふもとです。海や北上川河口の近く。
    http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E141.18.27.310N38.25.1.350


    [No.128] Re: 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/20(Mon) 17:30
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    旭岳さん こんにちは

    > > 「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
    > > ばかりです。

    採用で復興誓う被災地の会社


    被災地の水産加工会社は再開のめども立たずに、高校生の内定取り消しが相次いだ。

    そんな中で、壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町でいちはやく操業をこぎつけた海苔加工の会社「渡辺海苔店」がある。

    高台に立つ同社は無事だった。しかし、従業員の自宅は波にのまれた。
    「海苔は放置するとしけってダメになる。責任感から、みな保管作業をしていて家に戻らなかったから、命が助かった」と工場長が言う。

    従業員は各避難所にちりぢりとなったが「避難所でじっしているより、仕事がしたい。何かに集中したい」という声が上がり
    何かのときのために原料の海苔一年半分を冷凍保管していたので、自家発電用燃料の供給を申し出る業者も現れた。

    被災地のおにぎり需要から海苔不足が起きていて、スーパーやコンビニのおにぎり用の注文について全国の取引先から再開の打診があった。

    「町の復興の明かりをつけたい」と会社は震災から二週間後に操業を再開した。

    しかし、パートの半数は仕事に出られず、稼働率は通常の五割。

    そこで地元の志津川高校に相談して、(他の会社の)内定取り消し者の採用に乗り出した。

    この本には同校の男女一名ずつが地元の会社に内定していたのに、津波で内定取り消しにあって困っていたのを、地元の「渡辺海苔店」で働くことができたことを書いている。゜


    [No.127] Re: 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/19(Sun) 18:12
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    旭岳さん こんにちは

    > 「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
    > ばかりです。

    それでは次の話です。

    生命の息吹「海を愛する子に」と命名

    石巻の病院で4月3日に生まれた長男に
    会社員の克弥さんは
    母と自宅を津波で失ったが
    わが子の名は海にちなんだ名前の浬(かいり)とした。
    「困難を乗り越え、海を愛する子になってほしい」

    地震の揺れがおさまると、克弥さんは勤務先から牡鹿半島の石巻市小渕浜の自宅に
    電話したが、すでに妊婦の妻は近所の自動車修理工場に避難していた。

    東松島市内の簡易郵便局で働く母にも連絡して
    「津波が来るから逃げろ」と呼びかけると、母はほかの家族の無事を確認するよう求めて電話を切った。

    しかし、夜になっても母は帰ってこなかった。
    不安になって車で探しに行ったが道路は寸断されていて、その日は泣く泣くあきらめた。

    高台にあった自動車修理工場では約200人の被災者が集まり、出産間近の克弥さんの妻には炊き出しの食事を優先して分けてくれた。
    石油ストーブもそばに置いてくれた。「身内が見つからない人も私のことを気遣ってくれた」と彼女は語る。

    予定日は3月20日で、4月1日に陣痛が始まり、石巻市内の病院に入院した。

    生まれた子どもの名前はすでに決めていた。
    克弥さんの母もその名前を気に入ってくれていた。ベビー用品も買いそろえて心待ちにしていた母は行方不明である。勤務先も跡形なく流されていた。


    [No.126] Re: 被災地に生きる 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/18(Sat) 20:17
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    男爵さん こんばんは
    多くの方が犠牲になったと言う事は又、残された方も多いと言う事ですね。

    「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
    ばかりです。


    [No.125] 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/18(Sat) 12:04
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    > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    看護師の夢、母に残した合格証書

    宮城県東松島市野蒜で津波に遭い亡くなった22歳の志保さんは
    2月の看護師国家試験に合格していた。

    彼女の母親も看護師で、市内の病院で看護部長を務めていた。

    祭壇には三人の遺影が並んでいた。
    津波は志保さんだけではなく、夫も長男の命も奪った。
    自宅が流されてしまったため、遺影は携帯電話に残った画像を使った。

    震災から5日後に廃墟と化した野蒜駅付近で志保さんが見つかり
    まもなく、そこから数十メートル離れた場所で水没した車中から
    夫と長男が寄り添うように倒れているのが発見された。

    「志保が生きた証がほしい」という母の願いに
    亡くなった人には交付されない免許状は
    事情を知った国会議員らによって国会で取り上げられ、厚生労働省も動いた。

    特別に、母親に合格証書が手渡された。


    [No.124] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/17(Fri) 16:37
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    旭岳さん 

    > やはりこの世には人智の及ばない事があると、謙虚に自然と向き合わなければ
    > ならにと言う事でしょうね。

    地震や津波はどんどん記録が書きかえられますから
    その都度、人間も進歩して対応していくのがいいと思います。

    さてまた紹介します。


    命救った先人の教訓

    宮城県石巻市雄勝町の水浜集落は
    約130戸の集落がほぼ壊滅したが、住民は380人中
    死者1人、行方不明者8人で全体の2%ほどだった。
    背景には、地域で受け継がれてきた知恵や防災意識の高さがあった。

    地区では、毎年高台に上る訓練を実施している。
    地区会長の^頭さんは「水浜のもんは、高台までの一番近い道を体で覚えている」
    という。
    「貴重品やアルバムはすぐに持ち出せるよう、リュックサックにまとめている」
    と話す住民もいた。

    集落には1人暮らしのお年寄りも多かったが
    伊藤さんは「どこの家に誰がいるか、頭に入っている」。
    自身も独居高齢者を家から連れ出し、背中を押して高台を目指した。

    集落は石巻市中心部から30キロ以上離れ、当初、道路はがれきや土砂で寸断された。
    4日間は完全に隔離されたが、全く慌てなかったという。

    もともと市内から離れたこの地域は米や缶詰などの保存食を備蓄する習慣があり
    水が引いてから被害に遭わなかった家に備蓄されていた食料を全員で分け合っていた。

    さらにガソリンを節約するため、集落中の燃料をまとめて1台の車だけを使用
    数日たってから1本だけ通った道を使って買い出しや、親類などへの連絡を効率的に行った。

    高台の避難所では約120人が共同生活をおくっていた。


    [No.123] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/16(Thu) 20:24
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    男爵さん こんばんは

    やはりこの世には人智の及ばない事があると、謙虚に自然と向き合わなければ
    ならにと言う事でしょうね。

    どう折り合うかは難しい所ですが。


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