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「特集」私が小学生だった頃ー1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/10 11:51
kozaru  半人前 居住地: 千葉県  投稿数: 37
国民学校3年か4年の時の「悪さ」
この「悪さ」《わるさ=いたずら》は当時の漫画本からヒントを得たと記憶しています。
青びょうたん のあだ名がついた学年一番の秀才がいました。
ある日この秀才君以外全員が宿題をしてきませんでした。
先生が秀才君以外を全部立たせて15分ぐらい授業をしました。
終わりに「みんな秀才君の爪《つめ》の垢《あか》でも煎《せん》じて飲みなさい」
と言いました。
早速悪童4人が相談し下校時秀才君を取り囲んで「爪の垢をよこせ」「爪はきち
んと切っているから垢はない。何にするんだ」「先生が爪の垢を煎じて飲めとい
った。言うことを聞かないと先生に言いつけるぞ」「????」とやり取りがあ
りましたが暴力はまったくありませんでした。次の日悪童4人は水入りのバケツ
をもって廊下に立たされるのを覚悟で登校しましたがお《とが》めがなく、その後
先生は秀才君の爪の垢を煎じて飲めと言わなくなったと記憶しています。
この青びょうたん君、大学受験戦争で最強の勝者でなかったようです。
kozaru
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/10 11:31
kozaru  半人前 居住地: 千葉県  投稿数: 37
かれいさん
先生の代理のような大役ではありません。
遅れた人の自覚を促す先生の手段であったと今はおもっています。
kozaru
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/9 14:44
かれい  一人前   投稿数: 137
kozaruさん こんにちは

kozaruさんが先生の代理をいいつけられたのですね。
昔は、生徒にとって先生は絶対の存在でしたから、云われたことは守りましたね。

今の生徒はもうちょっと扱いにくいかもしれませんね。

かれい

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/9 13:02
kozaru  半人前 居住地: 千葉県  投稿数: 37
九九の話(国民学校2年の時)
授業終了時先生が「君は残れ後で職員室へ来なさい」と言われました。びくびくしながら職員室へ行くとA君もおり「先生は忙しいのでA君に3の段の九九を教えてほしい。覚えるまで2人とも帰らないように。九九はお経のように覚えればよいから」とのことです。
2時間位かかって宿題?を終えました。6の段、7の段も別の友達が宿題?を課せられました。これが友達にバレてA君もがんばって落ちこぼれになりませんでした。
現代の先生、親御さんはこれをどう思うか興味があります。
kozaru
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/8 20:32
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
Kozaruさん

 実録・昭和史に貴重なお話をありがとうございました。

引用:
ランドセルはお粗末なものしかなく壊れて従兄弟のお古でよその学校の校章の入ったものを担いでいました。

この時期より敗戦前後の事で後世に伝えたいものが沢山あります。


 私も、よその学校の制服で通学していました。
 極端にもののない時代、誰も文句をつける人はいませんでした。
 終戦直後、モーニングで銭湯《公衆浴場》にくるオジサンがいました。
 焼け出されて着るものが何もなくなった。たまたま友達に貸していたモーニングを返してもらったのでーーーとのことでした。

 着るものさえあれば、格好《かっこう》なんてどうでもいい時代だったのですね。

 今後も、この会議室をよろしくお願い申し上げます。


 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/7 16:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
投稿者:kozaru  
ボクの国民学校1年のころ

試しに師範学校《しはんがっこう=小学校の教員を養成する学校》付属国民学校の試験を受けてみました。
できなかった問題で記憶にあるのをかきます。面接の最後で「お家の家紋はどれですか」と問うのがあり答えられませんでした。
ランドセルはお粗末なものしかなく壊れて従兄弟《いとこ》のお古でよその学校の校章の入ったものを担いでいました。
悪童の大将と戦争ごっこで特定の人にパーシパル(シンガポールの英軍司令官)をさせ、木の枝にハンカチの白旗を担がせ降伏の場面を真似させました。いじめの一種で今なら父兄の問題になるでしょう。このパーシパル君社会に出て小企業を起こし元気にやっていました。
この時期より敗戦前後の事で後世に伝えたいものが沢山あります。
kozaru

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/7 16:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
マーチャン

引用:
  それから「肝油」と「ジミ錠」というクスリが毎日支給されました。栄養剤だったのでしょうか。将来の兵士の体位向上のためだったのでしょうね。

「マクリ」《=海人草を主剤とする回虫駆除薬》とかいう虫下しを飲まされませんでしたか。
それから、頭をDDT《=防疫殺虫剤》で真っ白にされたり。

「ジミ錠」は知りませんが、2度目の転校先の小学校(5年生)では、希望者には有料で給食の時に「肝油」《=ビタミンA・Dを多量に含む油》を。おまけでドロップが一粒ついてました。

引用:
  音楽の授業も、劇的に変わりました。
  「ドレミ」に変わって「ハニホ」になったのです。
  教科書の歌も「工場だ 機械だ 鉄だよ 音だよ」「おとうさんは出征 おかあさんと四人で」などというあまり情緒のない歌が増えました。


「鉄だよ 音だよ ドドドン ドドドン」は私も知ってます。きっと兄弟がうたってたんでしょうね。

戦後の唱歌は、そういうのから見ると、また、様変わりしてますね。

「どーこかの時計が5時を打つ もうじきお帰りおとうさま・・・
 どーこかの時計が6時打つ  おかばん持ちましょ おとうさま・・」
という歌を覚えていますが、時代を反映していない、平和な歌詞だったなぁと思います。

かれい

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/7 16:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
マーチャン

引用:
 そうそう、戦前戦後のものは、何でもすぐ壊れましたね。
 靴下なんかも弱かったですね。

「戦後強くなったものは女と靴下」てなことをいい囃《はや》された時代がありましたね。靴下と一緒にするなといいたいですが、まぁ、その通りですね。

引用:
戦後の教科書にも「サイタ サイタ」から始まったものがあったことははじめて知りました。


ん? サイタ サイタ は戦前のものだったのですか?
どこかで混線しちゃったのかなぁ?

次のページは コマイヌサン ア コマイヌサン ン だったと思うのですが?

かれい

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/7 16:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
かれいさん

引用:
私は終戦の翌年、昭和21年に疎開地の宮津で国民学校一年生になりました。
このランドセルはボール紙でできていたそうで、半年位経ったら、カバーが切れてしまいました。
・教科書は新聞紙状のものを2枚貰いました。家でお母さんに切って綴じて貰うようにとのことでした。
母が水色の布団綴じ糸で冊子にしてくれました。 サイタ サイタ サクラガ サイタ でした。


 楽しく読ませていただきました。
 丹後の宮津ですね。

 そうそう、戦前戦後のものは、何でもすぐ壊れましたね。
 靴下なんかも弱かったですね。

 戦争直後は、教科書は、新聞紙大のものを家庭で製本して作ったのでしたね。

 終戦の年は、戦争中つかっていた教科書のあちこちに墨を塗って使っていました。翌年の教科書は手作りでしたね。

 戦後の教科書にも「サイタ サイタ」から始まったものがあったことははじめて知りました。

 小学校時代の思い出を拝見していると、ジーンとくるものがありますね。

マーチャン

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/7 16:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「私が一年生だった頃」その2です。

私は終戦の翌年、昭和21年に疎開《そかい=空襲の被害を避けるため都会から田舎へ住居を移した》地の宮津で国民学校一年生になりました。

幼稚園にいけなかったものですから、入学の日をそれは楽しみにしておりました。
母が買ってくれた赤いランドセルには、派手な孔雀《くじゃく》の絵がついていました。
それに、姉がかってくれた赤いセルロイド《=ニトロセルローズを主剤にしたプラスチック、玩具や文具に使われたが燃えやすかった》のふで箱を入れて、一日に何度背負ってみたことか。
このランドセルはボール紙でできていたそうで、半年位経ったら、カバーが切れてしまいました。

・入学式は姉のお下がりのワンピースで、母と一緒に行きました。母は紋付き《=背に紋のついた和服》でした。

・この日の履物は記憶にありませんが、普段の通学はわら草履《=わらを編んで作ったぞうり》でした。
上級生と並んで集団登校してました。

・服装は自由で、私はモンペをはいたことはありません。冬は綿入れの防寒頭巾《ぼうかんずきん》を被《かぶ》ってました。
冬は寒くて冷たくて、手がかじかんで、胸当てのついたズポンのボタンが外せず、おもらししてしまったことがありました。

・学校はすでに男女共学になっており、隣の席は男の子でした。

・教科書は新聞紙状のものを2枚貰いました。家でお母さんに切って綴《と》じて貰《もら》うようにとのことでした。
母が水色の布団綴じ糸で冊子にしてくれました。 サイタ サイタ サクラガ サイタ でした。

・一年生の時は給食はありませんでした。お弁当のことはあまり記憶にないのですが、新聞紙に包んだお芋というのも珍しくなかったです。お昼になるといなくなる子もいました。

忘れられない思い出は、朝から「今日のお弁当は玉子焼きだ」と騒いでいた子がいたことです。当時は、玉子は病人くらいしか食べられないほど高級品だったのです。
お昼になると、みんなその子のお弁当を見にいきました。その子は開けてみて「あっ!」。ずらっとタクアンが並んでいたのです。お母さんも罪な冗談を言ったものです。

・担任の先生は堀文子先生。師範学校出の独身の先生で、橋立の突堤《とってい=堤防》の方から、さっそうと自転車で通勤なさっていました。大好きな先生で、あこがれていました。一年後にご病気で休職。ニ年生の夏に転校することになり、母に連れられてご挨拶《あいさつ》に行きましたが、その一年位後に亡くなったと聞かされました。結核だったそうです。

一年半しかいなかった学校ですが、校歌は今でも覚えています。

松のみどりのいろ映《は》えて 
天の橋立 すえながく 
たてるわれらのまなびやよ
これぞみくにの光なり
かれい

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編集者 (代理投稿)

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