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大事な家系図

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/2/24 13:53
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485


私の姑の母、私にとっては義理の祖母にあたる人にとって、戦時中の混乱の中で、先ず失ってはならない大事なものが家系図だったようです。

今、立派に復元され表装された家系図を見ると、祖母の実家、河西家の始祖は武田信玄の二男・隆寶(タカトミ)で、その母は三条従一位藤原公賴の女・・となっています。

さぞかし大切なものだったのでしょう。
姑の納骨の時にも掲げたソレを添付します。

で 、何が個人の昭和史かというと、まぁ、読んでみてください。




***************


はじめに
私がこの家系図を新しく書かせて頂くことになって、第一に感謝しなければならないのは、この仕事をここ迄運んで下さった功労者のことです。
河西の隆さん、小池の志づさん、誠にまことにありがとうございました。

次に、私の心に与えた翳《かげ》りと光、即ち憂いと喜びとそれに繋《つな》がる思いのありのままを記しおくことを御堪忍頂きたいと存じます。

                   河西 てう
***********

こんな書き出して始まる、てうおばぁちゃんの回顧録、短いものですが、掲載します
***********



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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/2/24 14:29
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
回顧すれば昭和二十年八月十五日 四年にわたった大東亜戦争《=第2次世界大戦1939~1945のうち1941~1945》は終結しました。
当時吾々《われわれ》家族ハ《は》、旧満州国《=日本が中国東北部に作った仮の国家、敗戦により消滅》興安東省札蘭屯の政府官舎に居た。

以前からの情報により 日本軍の敗色は疑うべくもなく、米ソ《=アメリカ・ソビエト社会主義共和国連邦》、中国と、大国敵中の孤立 日本人全滅は火を見るより明らかだった。ここに於《おいて》 警務庁分室の吏員《りいん=公務員》その家族一同覚悟の決死を聞かされた時、将来性豊かの青壮年達のために泣いた。

その矢先十五日の正午、天皇陛下の畏き《かしこき=おそれおおい》御詔勅《ごしょうちょく=天皇の書かれた文書》が放送され「臣民《しんみん=人民》一同強く生きよ」との御言葉。 ここに於 吏員談合の結果、脱出計画を決められた。

息子の武は事務官として最後の処理に当たらねばならない急場を 寸時《すんじ=少しの時間》帰宅して曰く《いわく=言うことには》「荷物は最小限度とし三段階に分けて、直先《まっさき》に捨ててよいもの、次に捨てるもの、捨ててはならないものと区別して荷造りすること、それを二時間以内に」

嫁の久子と私は生きる為に途中の食料も作らねばならない。隣組《となりぐみ=戦時中町内会の下に作られた班》からの回覧板には「布団類は梱包《こんぽう=荷造り》して送り先を縫い付けよ」などと書かれ、全く途方にくれて何から手を下してよいのやら正に周章狼狽《しゅうしょうろうばい=あわてふためく有様》の態だった。

先ず失ってはならないのは家系図だった。書類を一所に納めたと思ふ《う》箱の中を懸命にさがしたけれども見つからない。心の動揺と焦燥《しょうそう=あせり》は高まる。時間の徒《いたずら》に経《た》つのがもどかしく、詮方なく《せんかたなく=仕方なく》遂にあきらめた・・・

                           続く

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/2/24 14:46
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
役所の家族と共に夜通しトラックにゆられて辛うじてチチハルに逃れた。
時すでに四囲《しい=まわり》の道は断たれて動かれず、避難者一同の共同生活が始められたのだった。

その直後、日本の航空司令部から通訳官として召された武が行方不明となり、生死の消息さえ絶えてしまった。その憂愁《ゆうしゅう=心配や悲しみの心》と栄養失調《えいようしっちょう=食物の不足による体の不調》のため、私は紫斑病《しはんびょう=血液や血管の病気》で倒れた。また小児に流行していた麻疹《はしか》のために、勇の長女陽子が、次女の瑞枝が、武の長女妙子が、相次いで死亡するなど悲惨《ひさん=悲しく痛ましい》苦渋《くじゅう=苦しみ悩む》の一年が過ぎた。

二十一年八月十八日の夜 急に引き揚げ命令が下った。
一日の猶予《ゆうよ=日や時間を延ばすこと》さえなく翌払暁《ふつぎょう=明け方》出発と決められた。持ち物は制約され、お金は一人千円、衣類ハ《は》二枚、下着若干《じゃっかん=幾らか》、書類写真など一切まかりならぬ、違反者一人でもあれば、その集団は帰国禁止との苛酷《かこく=厳しい》さだった。

私はこの時に、札蘭屯を出る時いたく心を痛めた家系図の見つからなかったことに、あきらめの終止符をうった。
                     続く

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/2/24 15:01
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
帰途に四十四日を費《つい》やして拾月四日故鄕の上諏訪に着いた。
疎開《そかい=空襲の被害を避けて都会から田舎に移動する》して岡村の家に居た初子に逢い、満、明も復員したことを聞き、今村善御さんの戦死は実に悲哀だったが小池家、渡辺家も無事で順次引き揚げ、誠も翌年帰り、生死不明だった武も十二年ぶりに帰って来て、漸く吾家《わがや》も平静を取り戻すことが出来た。

その後再び燃え上がったのは、家系図を紛失した責任だった。
子供たち九人の中 一人岡村の家で生まれて主にその家で育った志づは、一番関心が深く憂愁も重かったのは無理からぬことだった。

そのとき脳裏《のうり=頭の中》に浮かんだのは義弟三吉さんが、かつて分家するに際し、難解な家系図をわかり易く整理しておられたことだった。

幸いなるかな ある日志づと語らい 千葉に八重様を訪《たず》ね、書き写したき旨願うてみた処《ところ》、家宝なれば門外不出《もんがいふしゅつ=秘蔵して持ち出しを許さない事》と拝借《はいしゃく=借りる》は許されなかったが、三男隆さんのご厚意により、映写して頂き、それを志づが丹念に《たんねんに=細心の注意をして》《つづ》ってくれた。                     続く

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/2/24 22:46
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
この清書が出来上がれば家系図は復活するので、誠にありがたいことだった。

私が清書の責任を負ったのだが、紛失のいきさつを書くのに心重かったり、用紙の望ましいのが無かったりで逡巡《しゅんじゅん=ためらう》日を過ごして居た時しも、岡村の家の後始末を頼んでおいた勇が来藤、先祖伝来の目ぼしい品物を持参して呉れた。

調べたところその中に茶色に変わった古い紙袋に「家系譜河西」と記したのがあった。取り出して見ればこれこそまがいも無い河西家本家本元の系図ではないか。

私はびっくり仰天《ぎょうてん》した。これは一体どうしたこと。満州で紛失したと許《ばか》り思ふて《思うて》いた家系図が出現した。不思議とも不思議、私の頭脳は全く混乱してしまった。

靜に瞑目《めいもく=眼を閉じる》、過去の当時を考えてみた。
満州の荷造りを手伝った時、家系図と表記した古い紙袋を手にした記憶は判然とよみがえった。
然し大勢の手で片付けたので、その後のことは分からない。

私が大切と見た紙袋が今目の前にある紙袋と同じなのか、それとも違うのか、それも分からない。兎《と》にも角《かく》にも紛失とあきらめた家宝たる系図が出現したことは確かだ。

夢ではないこの不可解の謎《なぞ》を誰が解き得よう。
私は奇跡を感受した。祖霊《それい=祖先の霊》の声なき声を聞いた。計り知られぬ恩寵《おんちょう=めぐみ》に対し敬虔《けいけん=うやまいつつしむ》なる謝意の祈りを捧げた。

この古い系図は家宝として子々孫々に伝へ、三吉様の整理された新しい系図を次頁から記す。

昭和四十八年五月末日      河西てう 九十才
    現戸主 河西 武に譲る

遠つ視(み)の み霊の護り《みたまのまもり》くすし《奇し》くて  
  わが家系図の現出に希望

遠つ視(み)の み霊に応《こた》えまへらくは
  うつし世につくすまこととぞ思ふ

岡村の 家より受けしみめぐみは
  霊験とこそ かしこみまつる

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/24 23:42
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
てうさんの記録は、次の頁から系図に移ります。

それを見ると、なぜ「敬虔なる謝意の祈りを捧げた」ほど大事な家系図であるのかが、わかります('-'*)

例えば、五代の藤左衛門の項には
  法名 淸誉浄閑信士 墓所 正願寺
  浪人百姓《ろうにんひゃくしょう=武士の身分で平時は農作業したもの》下葉原ノ岡村に居住す 
  其妻ハ《は》雑事役
  河西庄右ヱ門の女《=むすめ》 男《子供》二人あり病死、後妻は大熊
  村笹岡各兵衛の妹 女子一人ありて離別《りべつ=離婚》 其後《そのご》
  藤森六兵衛の女と婚し女子一人あり

と、あります。

また九代直重は
  浪人 藤左衛門の子
  為元、弾之助 又 弾右衛門と称す
  河西家中興の祖《ちゅうこうのそ=一旦衰えたものを盛り返した人》なり、母は河西庄右衛門の女

  寛永七年八月(皇紀《こうき=神武天皇即位の年を元年とする日本独自の年の数え方、1872年制定》
  二二九〇年)下条原に出生
  始めの妻は中村祖兵衛の女 男女四人の子ありて
  病死す、 後妻は渡辺七郎兵衛の女 その子男女
  七人、その中の一女は直喬と婚し其の家を継ぐ 
  即ち軍治喬城の母なり 享保十九年卒す行年六十二才
  法名 本覚妙誓大師 墓 温泉寺

  正保二年祖父の由緒《ゆいしょ=いわれ》により召し出されて勤仕《きんし=仕える》
  勅岳院の御代下桑原の庄 岡村北沢の内に住居す
  先の佐渡の守和泉の守の屋敷なり
  
  寛文十年二月大工奉公 忠晴公の御代なり
  文禄十三年七月十六日 願いに依《よ》りその役を免じ
  養子甚五郎へ引替隠居《いんきょ》

  享保元年十二月廿五日卒す行年《ぎょうねん=この世に生きた年数》八十七才
  法名 方誉院隠西誓到居士

  直重初め渡辺甚五郎(妻の弟)を養子とせり
  然《しか》るにその実兄弥惣兵衛大阪にて病死、
  渡辺家断絶《だんぜつ=家名が絶える》せんとする為実父七郎兵衛より直重に
  乞ふて《こうて=頼んで》甚五郎を渡辺家に復帰せしめん事を以てす

  即ち忠虎公の大阪御加番の時
  元禄十四年三月晦日《みそか=末日》願旨を以て甚五郎を渡辺家に
  返し、改めて新に溝口太右ヱ門利久の末子善右衛門
  (比右ヱ門)を養子とす、即ち直喬

等と、延々と説明書きがあって、これを紛失することはさぞかし
御家の大事であったろうと察せられました。

まだ士族という言葉のあった明治生まれの人にとって、家系図と言う物は
大切な家宝だったのでしょう。

  
  
  

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/2/29 17:09
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
じっくりと読ませて頂きました。家系も流石《さすが》ですが涙ぐましいご立派な保存の歴史に感動いたしました。異国、それも戦火の中を随分とご苦労なさった大和撫子《やまとなでしこ》?ならぬ崇高《すうこう=気高い》な明治以前の日本女性を見せて頂きました。

口伝て《くちづて》には記憶しながらも中々後世に伝えるその歴史は崇高そのものです。

このXOOPSに全く相応《ふさわ》しい後世への貴重な資料と思いました。

どうも有り難うございました。

             04.02.29PM:としつる



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/2 11:25
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
としつるさん  

コメントありがとうございます。

引用:
涙ぐましいご立派な保存の歴史に感動いたしました。異国、それも戦火の中を随分とご苦労なさった大和撫子?ならぬ崇高な明治以前の日本女性を見せて頂きました。

戦前に大陸《=中国》に渡っていた方は、多かれ少なかれ厳しい戦中戦後を経験されたのでしょうね。

威勢の良かった関東軍《=満州に駐留した日本陸軍部隊》も、終戦の頃には一般の市民を守るどころか、浮き足立って遁走《とんそう》したと聞きました。

かの《=中国の》国民に対してそれまで威張っていた分、帰国できなかったものたちは余計に酷《ひど》い目に遭《あ》ったそうですね。

そんな中で、確かに 明治大正生まれの大和撫子は気丈だったのでしょうね

引用:
このXOOPSに全く相応しい後世への貴重な資料と思いました。


ありがとうございます。
そう仰って頂くと、掲載した甲斐《かい》があります。

祖母は和歌を嗜《たしな》んだ人で、書かれた文字が余りに達筆で古い漢字も多く、読み解く
のが難解で、吾《わ》が国語力の無さに泣きましたよ

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あんみつ姫

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