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Re: 「特集」私が小学生だった頃(かれい)

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通常 Re: 「特集」私が小学生だった頃(かれい)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/7 16:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「私が一年生だった頃」その2です。

私は終戦の翌年、昭和21年に疎開《そかい=空襲の被害を避けるため都会から田舎へ住居を移した》地の宮津で国民学校一年生になりました。

幼稚園にいけなかったものですから、入学の日をそれは楽しみにしておりました。
母が買ってくれた赤いランドセルには、派手な孔雀《くじゃく》の絵がついていました。
それに、姉がかってくれた赤いセルロイド《=ニトロセルローズを主剤にしたプラスチック、玩具や文具に使われたが燃えやすかった》のふで箱を入れて、一日に何度背負ってみたことか。
このランドセルはボール紙でできていたそうで、半年位経ったら、カバーが切れてしまいました。

・入学式は姉のお下がりのワンピースで、母と一緒に行きました。母は紋付き《=背に紋のついた和服》でした。

・この日の履物は記憶にありませんが、普段の通学はわら草履《=わらを編んで作ったぞうり》でした。
上級生と並んで集団登校してました。

・服装は自由で、私はモンペをはいたことはありません。冬は綿入れの防寒頭巾《ぼうかんずきん》を被《かぶ》ってました。
冬は寒くて冷たくて、手がかじかんで、胸当てのついたズポンのボタンが外せず、おもらししてしまったことがありました。

・学校はすでに男女共学になっており、隣の席は男の子でした。

・教科書は新聞紙状のものを2枚貰いました。家でお母さんに切って綴《と》じて貰《もら》うようにとのことでした。
母が水色の布団綴じ糸で冊子にしてくれました。 サイタ サイタ サクラガ サイタ でした。

・一年生の時は給食はありませんでした。お弁当のことはあまり記憶にないのですが、新聞紙に包んだお芋というのも珍しくなかったです。お昼になるといなくなる子もいました。

忘れられない思い出は、朝から「今日のお弁当は玉子焼きだ」と騒いでいた子がいたことです。当時は、玉子は病人くらいしか食べられないほど高級品だったのです。
お昼になると、みんなその子のお弁当を見にいきました。その子は開けてみて「あっ!」。ずらっとタクアンが並んでいたのです。お母さんも罪な冗談を言ったものです。

・担任の先生は堀文子先生。師範学校出の独身の先生で、橋立の突堤《とってい=堤防》の方から、さっそうと自転車で通勤なさっていました。大好きな先生で、あこがれていました。一年後にご病気で休職。ニ年生の夏に転校することになり、母に連れられてご挨拶《あいさつ》に行きましたが、その一年位後に亡くなったと聞かされました。結核だったそうです。

一年半しかいなかった学校ですが、校歌は今でも覚えています。

松のみどりのいろ映《は》えて 
天の橋立 すえながく 
たてるわれらのまなびやよ
これぞみくにの光なり
かれい

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編集者 (代理投稿)

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