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戦死公報 (伸) <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/5 20:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  
 兄は第二国民兵《注》でしたが、戦局の悪化で召集をうけ呉《くれ》海兵団《=海軍の教育訓練部隊》に入団し、新兵教育を受けて暫くして南方へ送り出されました。 昭和20年6月19日に、比島《=フィリピン諸島》の将棋谷《しょうぎだに》付近
で栄養失調症《=食物不足による病気》による戦病死をしたらしいのですが、享年31歳でした。

 この公報は半世紀を経ていますので、紙質が悪い上に変色していますので、新しい紙にコピーをとり撮影したものです。
知らぬ異国で食べるものも無いままに、空しく死んでいった兄が哀れでなりません。遺骨は翌年の6月に返ってきましたが、その筋《=その事に関係ある官庁・警察》の内示で、肉親の者が迎えるだけの淋しいものでした。白木の箱の中には「英霊《えいれい=戦死者の霊》」と書かれた一片《いっぺん》の紙切れが入っていただけでした。
                             

 読みにくいといけませんので公報の文面を再掲します。

***********************************************************

呉人第五號《ごう》ノ三三九一二
  昭和二十一年六月十五日
              呉地方復員局人事課長
  大淀区長殿
    戦没者《せんぼつしゃ》ノ件通報
 左ノ件遺族ニ傳達相成度《でんたつあいなりたく》
     本籍地  大阪市大淀区大仁本町一丁目拾貳《12》番地
     現住所  (本籍地に同じ)
      戦没者 海軍二等整備兵曹《せいびへいそう》  上田栄一郎
右者《みぎのもの》昭和二十年六月十九日比島(栄養失調症 於将棋谷)方面ニ於《おい》テ戦病死セラレシ旨《むね》公報ニ
接シ候《そうろう》ニ付《つき》御通知致候《いたしそうろう》ト共ニ謹《つつし》ミテ深甚《しんじん》ノ弔意ヲ表《ひょう》シ候

  (註)本件一切ニ関スル照會《しょうかい》竝《ならび》ニ通知等ニハ必ズ書類番號《ごう》ヲ附記《ふき》相成度《あいなりたく》

***********************************************************
  伸


***********************************************************
 


注 第二国民兵= 兵役の一種、常備兵役、補充兵役を終えた第一国民兵と、それ
以外の該当しない17歳から45歳までの男子が服した。

--
編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/14 12:19
スカッパー  半人前   投稿数: 25
伸さん

先日の勉強会後の懇親会では失礼致しました お兄さんの戦死公報の投稿を拝見 当時同じ比島にいた者として簡単に戦況をお知らせしご参考になればと思ってます
1.海軍二等整備兵曹とは航空機の整備を所管《=管理》としています
2.確かリンガエンから上陸されたと聞いていましたが
以上から推測しますと中部比島《=フィリピン諸島》のクラーク基地に勤務 何れかの航空隊所属で有《あ》っただろうと思います
 昭和19年12月頃の戦況は 航空隊では連日のリンガエン湾の敵機動部隊攻撃で特攻機《=体当たり用特別機》
を含み残存機数も激減 再起を計る為台湾に移動を決定 百数十名の残存 搭乗員のみ移動を北部ツゲガラオ基地から開始 ルソン島の防衛線を北部を尚武《しょうぶ》集団 中部を建武《けんぶ》集団 南部を振武《しんぶ》集団の三分割とし、中部建武集団所属の海軍部隊は 20年1月残留《ざんりゅう》地上員約1万5千人でクラーク防衛海軍
部隊を編成 陸戦に不慣れな武器も満足に無き状況で米軍侵攻《しんこう》の防衛に ピナツボ山麓での死闘が始まる 食料不足 マラリヤ赤痢等の病魔にも襲《おそ》われ 終戦時には僅color=CC9900]《わず》[/color]か450名が生存率3%の悲惨《ひさん》な激戦が続きました これはクラーク基地(11の飛行基地)での状況です が他も大差は無いものと思います 私の場合は19年9月比島着任12月に飛行隊の再編成で内地に帰還九死に一生を得ております
 
詳しい資料が必要であれば所蔵しておりますのでお申し越し下さい
英霊の安からん事を祈りながら
                  スカッパー
 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/3 9:39
  新米   投稿数: 10
スカッパーさん、今日は。
兄の死亡時の詳報《しょうほう》を有り難うございました。生存者が3%といいますと、ガダルカナルやインパールの戦闘よりも
《ひど》い結末ですね。あれらから兄の関係する書類を調べましたら、今少し詳しいことが解りました。

兄は昭和18年7月15日に呉に入団しました。直ちに九州の築城海軍航空隊へ所属し、新兵教育を受けたあと南方へ派遣
《はけん》されたようです。最後の便りがあったのは、昭和19年の始め頃で、比島のキャビテ軍港からでした。、所属部隊名は
呉局気付《くれきょくきつけ》テ二一ウ七四ウ二二二、又はテ二一テ一九のようですが、遠い日の事なので定かではありませ
ん。

この度は海軍に繋《つな》がるご縁でご親切なる書き込みを有り難うございました。今後とも宜しくお願い申します。
     
                           
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/4 18:54
スカッパー  半人前   投稿数: 25
伸さん

前回は私の偏見と的外《まとはず》れの記事を投稿したようで クラークを中心に書き込みましたが 19年始めキャビテ軍港からの軍事郵便が有ったとの書き込みで キャビテは御承知の通りマニラ湾の南隅にあります ここからお便りならば或いはマニラ中心の周囲の航空基地に勤務されていた可能性もあります

従って最後は「振武《しんぶ=武力を振るい表す》集団」に所属されマニラ東方の山岳地帯に転戦されていたかも、とも推測が出来ます

マニラを中心に八つの航空基地が存在しキャビテに近い所に海軍のニコラス航空基地があり その他基地の造成管理に菲島《ひとう》海軍航空隊が北、中、南に夫夫《それぞれ》ありました マニラからクラークまでトラック便で約2時間で行けます(私も、この便で着任しております)のでクラークを否定する事も出来ませんが ニコルス基地に勤務されて居たとすれば、20年2月5日「海軍南部隊長古瀬大佐からニコルスから撤退《てったい=退却》マッキンレイへ」との記録がありました。 

米軍の侵攻《=領土を侵す》に抗《こう》し切れず撤退したのでしょうか。 

又2月26日バギオの方面軍司令部から「マニラ地区生存ノ海軍部隊全員ハ古瀬大佐(北菲《ほくひ》空司令)ガ指揮ヲトリ(マニラ東方海軍防衛隊)ヲ編成 古瀬大佐指揮官トナリ 陸軍振武《しんぶ》集団ノ指揮下ニ入リ直ちに東海岸インフアンタ地区ニ転進 所在地区ヲ警備防衛シツツ陸軍用糧秣《りょうまつ=兵と馬の食糧》ノ確保ニアタルベシ」

との命令が出ておりますので 飛行搭乗員が台湾に移動後、残された地上勤務員はこれら部隊に吸収され 馴れない陸戦を強いられたのでしょうか 武器も食料も満足に無く疫病《えきびょう=伝染病》に追い討ちをかけられての行進だったろうと推察します
北の尚武《しょうぶ=軍事を重んじる》集団は山下大将直轄《ちょっかつ》の陸軍部隊ですからお兄さんの所在とは無関係と思います

最後の地である「将棋谷」について色々資料を探しましたが 楠《くす》谷、一の谷、十三の谷、飢餓《きが》の谷等はありましたが また「建武集団」に居て戦後生還した同期生にこの名称を聞きましたが記憶無しとの事でした

軍事郵便の「ウ七四」の記号は所属部隊なのか私は「ウ四四九」で発信した経緯がありますがなんの記号か思い出しません 以上が現段階での調査結果です 又何かが判明すれば投稿いたします
          スカッパー
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/5/5 9:31
  新米   投稿数: 10
スカッパーさん、こんにちは。

この度はさらに詳《くわ》しい当時の模様をお知らせ下さいまして、有り難うございました。第二国民兵で弱兵の兄が軍の都合
でマニラ東方の山岳地帯を彷徨い《さまよい》歩き、力尽きて死んでいったのかとおもうと、万感の思いです。

>最後の地である「将棋谷」について色々資料を探しましたが 楠谷、一の谷、十三の谷、飢餓の
>谷等はありましたが また「建武集団」に居て戦後生還した同期生にこの名称を聞きましたが記
>憶無しとの事でした

そうですか、あれからもう六十年近い月日が流れていますから、同期生の方に記憶が無いと仰る《おっしゃる》のも、むり無い
ことと思います。再度に渡りましてのご親切に厚くお礼を申し上げますと共に、今後とも宜《よろ》しくお願い申します。           

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/14 10:19
スカッパー  半人前   投稿数: 25
伸さん

先日この件について 照会していた同期生から 電話があり
キャビテで20年1月2日に戦死した同期生があった事を思い出して連絡してくれました 
この軍港に936航空隊が第一航空艦隊所属に変更し駐留《=部隊が滞在する》していたようで この隊は水上機《=フロート付飛行機》偵察の任務航空隊でして ここで同期生は航空事故で戦死しましたが 或いは お兄さんは若《も》しか
してこの航空隊所属の可能性もあるやもとご参考になればと思い投稿致しました

 今更所属していた処《ところ》がどこであれ 詮無い《せんない=仕方が無い》事ではありますが

一緒に転属し私だけが内地生還《=生きて帰る》では残され戦死した同期生に対し未だに申し訳なく思う心が残ります もっとドライでなければと我が身を励ます今日この頃です

白木の箱《=遺骨は白木の箱に入れた》で思い出しました 航空隊では余程《よほど》のことが無い限り遺骨は帰って参りませ
ん 一度基地を発進すると何処の海やら空で果てるやも知れず 残された隊員で遺品整理や遺骨箱の作成を 明日はわが身といいながら作ったものでした 

これは余談でしたが こんな悲しい事は二度と味わいたく無いですね 
                  スカッパー 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/20 14:45
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
スカッパーさん 伸さん  こんにちは!

戦中生まれの私には戦時の記憶は皆無《かいむ=全く無い》
ですが、このような
お話しを拝見すると、俳諧師さんの兄上のような多くの方々
のご苦労の上に、今の日本があることをますます痛感します。

キャビテ軍港は戦前はアメリカ軍の軍港だったのでしょうか?

過日、・・・・昭和16年12月10日の日本海軍機の攻撃により、
キャビテ軍港の魚雷《=水中を走り艦を爆破する兵器》
格納庫が破壊されて魚雷233本を喪失《そうしつ》した
アメリカ軍は、以後1年にわたって深刻な魚雷不足に悩まさ
れた・・・・という記事を読みました。

尤も《もっとも》、この戦果を何故《なぜ》か日本はしらなかった
そうで、そんな点でも日本の情報収集力は弱かったのでしょうか。

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/6/7 15:02
  新米   投稿数: 10
スカッパーさん、あんみつ姫さん、こんにちは。
亡くなりました兄のために情報やお見舞いを賜《たまわ》りまして、ありがとうございました。一度現地に行ってみたいと思いつつ、生活に追われ、雑事にまぎれまして今日にいたりました。

今はもう命日や盆暮れ《=お盆と年末》に兄の御墓に詣《まい》りまして、掃苔《そうたい=墓石のこけを掃除する》してあげるくらいのことしかできませんが、次のお盆には、また墓参をしまてこのたびのことを、報告してまいります。いろいろとありがとうございました。
                         伸  
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2006/6/22 4:00
大村  新米   投稿数: 4
掲示板を拝見しました。
お兄様の所属部隊ですが、テ21ウ74ウ222は851空マニラ派遣隊、テ21テ19は954空です。どちらが先かわかりませんが、851空は飛行艇による哨戒部隊で、19年中頃に派遣され、954空は艦爆や水偵によるこれも哨戒部隊で、17年末からこの方面に駐屯《ちゅうとん=部隊がある土地にとどまっている》していました。いずれも水上機が中心なので、キャビテ軍港を基地としていましたが、米軍進攻後にどうなったかまでは手元の資料ではわかりませんでした。
前から見ていたのですが、ログイン方法がわからず、書き込みが遅れてしまいました。
軍事郵便保存会・大村
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/6/22 9:53
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
大村さま

伸さんのお兄様の所属部隊についての情報を頂き、ありがとうございました。

ところで、「軍事郵便保存会」とは、どのような会なのでしょうか?
お教え頂ければ幸いです。

--
あんみつ姫

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