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軍隊と私の戦争(米田)ー1

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あんみつ姫

通常 軍隊と私の戦争(米田)ー1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/22 22:29
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
軍隊と私の戦争(米田)ー1
釜山KLCLUB会員のgarishさんから貴重な資料が屆きました。

garishさんの釜山工業の先輩で釜山で生れ終戦直前に釜山工業を卒業して、海軍経理学校で終戦を迎えられた米田氏が、 同窓会報に『思い出の 釜山府 外史』と言うタイトルで載せたられた記事です。

ご本人のご了解を得て、代理投稿いたします。

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釜山府は元々軍隊色の薄い街で、常駐《じょうちゅう=常にその場所にある》している軍関係といえば大庁通りの小さな憲兵隊《けんぺいたい=軍事警察隊》と桟橋《さんばし》横に海軍さんが少人数いる位であった。

従って、幼い頃は軍人とか戦争という意識は全く無く、それを意識したのは満州、上海事変《=1932年日中間の戦闘》が起こり「廟行鎮《びょうこうちん》の敵の陣、我の友隊既に攻む」という肉弾三勇士の歌《=敵陣の鉄条網に爆弾を持って体当たりした3人の兵隊をたたえる歌》によって触発《しょくはつ=発動》された事による。釜山府は要塞《ようさい=とりで》地帯と指定され、地形が判る様な写真の撮影が禁じられ、地図の発行も制限されていた。

これは鎮海の海軍要塞司令部が決めただけの事で釜山には一門の大砲は勿論《もちろん》、要塞施設など全く無かった。要塞とは全くナンセンスな話しであった。

釜山が軍国色に染まってきたのは支那事変《=日中戦争》勃発《ぼっぱつ=突然始まる》からである。先ず、多くの兵隊と軍馬が北支《=中国北部》に向かって釜山を通過した。当然、相当数の兵隊と軍馬が釜山に滞留《たいりゅう=同じ所に留まる》した。

一部の兵隊は学校や民家に宿泊した。数百円で買い上げられた軍馬は一銭五厘《いっせんごりん=当時のはがきの値段、兵の命は一銭五厘といわれた》で召集された兵隊と同じ貨車に乗って北へ向かった。

第一小学校生徒の我々は連日のように釜山駅に列を組んで行き、手を振り、万歳を叫んで兵隊さんを見送った。物資が不足してくると兵隊さんの民家宿泊は中止された。

そのうち防空演習《=空襲の被害に対する訓練、バケツリレーや火叩きによる消火など》だ。先ず、灯火管制《とうかかんせい=空襲の目標にならないよう電灯を消したり黒い覆いをかぶせた》である。光の遮蔽幕《しゃへいまく》がいる。無駄《むだ》な出費だった。そして、防空壕《ぼうくうごう=地下や庭に穴を掘って空襲の時避難場所とした》を掘れ、天井板を剥《は》がせ《=焼夷弾による火災を少なくするため》と言ってきた。遂には疎開《そかい=空襲から逃れるため都会から田舎に住まいを移す》せよと命令され、我が家は二回も引越しさせられた。

現地の人は白い朝鮮服《ちょうせんふく》を着て外に出ていれば大丈夫と言っていた。《=白い衣服は飛行機から見やすく、朝鮮服なら攻撃されない》

昭和13年頃、南浜の空き地に高射砲と聴音機を置き、飛行機がくるという防空演習を見学した。上に向かって口を開けた大きなラッパで構成された聴音機の横にイヤホーンをした兵隊さんが座り操作していた。子供ながらもなんだか閉まらないなと感じた。

5月27日の海軍記念日《=1905年日本海海戦で大勝した日を記念日とした》になると釜山の西方50kmの鎮海から水上飛行機が飛んできて南浜の水産試験場前の海上にセットされた標的《ひょうてき=まと》に低空から小型爆弾を落として帰っていった。

                   続く

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あんみつ姫

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