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軍隊と私の戦争(米田)ー2

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あんみつ姫

通常 軍隊と私の戦争(米田)ー2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/23 19:13
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。

*********
時が経つにつれ、町中で多くの軍人を見かけるようになった。釜山駅付近に常駐するようになった?重兵科に属する暁部隊は兵員、兵器の輸送の他、当地で食糧を含む資材の調達《ちょうたつ=取り揃え》も行ったので物価にも影響したと思う。

昭和15、6年《=1940,41年》になると生活物資《=食糧・衣類・医療品など生活に必要な品物》が不足してきた。公的価格《=公けに決められた価格》、ヤミ取引《=売買を禁じられた品物の取引・または公定で無い値段での取引》という新語が生まれた。警察が経済分野も担当する様になった。

工業学校に入学して「教練」《=軍事に関する教育や訓練》という軍事的な授業を請《う》けることになった。当時は中村予備少尉の教えを受けていたが後に、現役の友成少尉、伊藤中尉が80連隊から配属されてきた。

彼等は「天皇陛下の命により」と赴任挨拶《ふにんあいさつ》の冒頭《ぼうとう=はじめ》を甲高い声で叫んだ。
なお、釜山中学には野台大佐という高位の教官が配属されていた。この人は野台事件を起こし当時の釜山を騒がした。

昭和15年の秋、公設グラウンドで慶尚南道の中等学校の体育大会が開かれ、大佐は審判長を務めた。競技は釜山中学と東莱中学が競い合い微妙なことになって種々もめたが大佐は釜山中学を優勝と判定した。

このため東莱中学と第二商業の生徒が騒ぎ出し、また、朝鮮独立万歳とか天皇制打倒などと叫びながらデモ行進した。直ぐ裁判沙汰《さいばんざた》になり多数の生徒が実刑を受けたり、退学になった。
数年前に文芸春秋社から出版された「1940釜山」という本にこの事件の記事があり、読んでみるとやはりこの人の審判に問題があったようである。

日米開戦の報は旧校舎の講堂で聞いた。それから暫くしてマレー半島のコタバル上陸作戦に参加してシンガポールへ進撃したという木場大佐が学校にきて戦話を聞かせてくれた。この人は釜山陸軍兵事部部長として我々が引っ越した旧校舎の建家に赴任してきた。
昭和17年《=1942年》、ミッドウェー海戦の大敗も知らず戦争は悪い方へと進んでいった。この様な中で我々は松尾先生の指導のもとに新校舎周辺の土木工事を行い、運動場、相撲場などを整備造成した。

戦いの具合が悪くなるにつれて、陸軍は精神主義神頼みになったが松尾先生は正に神憑り《かみがかり=常人とは思えない言動をする人》であった。

鬼畜米英《きちくべいえい=戦時中、欧米人は鬼、けだものであると言われた》を口上していた先生は戦後、仙台・東北高校でアメリカの国技である野球の監督となり、何回か甲子園に出場したのは見事であった。

しかし松尾先生は陽性で憎めないところがあり、東北高校の生徒から随分と慕われていたという嬉しい話を耳にした。

龍湖里付近に兵舎が出来、此処《ここ》に知人の兵隊が居たので行ってみた。そこに三八式《=明治38(1905)年制度化された小銃》歩兵銃に代る九九式小銃を見たがやはり単発《=1発ずつ発射する》で代り映えがしなかった。

この頃、軍人勅諭《ぐんじんちょくゆ=軍人に賜りたる勅語》を覚えさせられた。頭が柔軟だったのか、あの長い文章を難なく暗記した。現役将校が配属されている学校は毎年、大邱の80連隊から来る佐官《さかん=少佐・中佐・大佐》級の将校によって軍事教練の査察《ささつ=視察》を請けた。

初めの頃の講評点は概ね良好という程度であったが段々と向上し、後には優秀と評価された。泥まみれの匍匐前進《ほふくぜんしん=地に伏してはって前進する》が功を奏したのである。

               続く

--
あんみつ姫

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