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軍隊と私の戦争(米田)ー4

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あんみつ姫

通常 軍隊と私の戦争(米田)ー4

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3
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/25 22:40
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。
*************

鎮海で約一ヶ月の基礎訓練を受け、精神注入棒、バッタの洗礼も受けた《=軍隊では精神注入と称してよく殴った》が思ったより楽だった。海軍兵長としての初任給は月に35円であった。

海軍では学校時代に苦労して覚えた軍人勅諭は全く不要だった。式典などで兵団《へいだん=幾つかの師団を合わせた大集団》長閣下《かっか=高位高官への敬称》は勅諭を少々間違えて読んだが何の問題にもならなかった。また、精神主義的な教育も雰囲気《ふんいき》もなかった。

我々の隊には一等兵の古兵《こへい=古参の兵》がいて、我々の世話をしてくれた。海軍では先輩だが階級が下なので暴力を振るう訳にもゆかず妙な具合であった。但し、下士官の班長からはバッタを戴いた。

五月の末頃、鎮海から東京品川の海軍経理学校に移動した。この移動を転勤と言い、転勤手当150円を戴いた。班長は海軍株式会社と言っていた。

鎮海に入って初めて上官から「連合艦隊《=日本のほとんど全部の艦隊を一つに連合した艦隊》は全滅したよ」と知らされた。東京への途中、母校釜山第一小学校へ宿泊した。この時釜山出身者は帰宅を許され、私は家にあった食糧を仕入れて東京に行った。

夜、釜山桟橋から乗った関釜《かんぷ=下関と釜山》連絡船が翌朝着いたのは下関郊外の小串という漁村で、艀《はしけ=小舟》に乗って上陸した。

此処から汽車で行った下関の港内に多数の船が爆撃や機雷《=水中機雷、海底や水面下に敷設し船に触れると爆発した》で沈没しているのを見て驚いた。驚きは東京まで続いた。広島市は未だ無事だったが途中の主要都市の殆どは空襲で慘憺《さんたん=無惨》たる状態であった。

私が入隊した海軍経理学校は品川駅に近い海岸にあった。兵隊の港内の移動は駆け足を原則としていたが食糧不足によりカロリー節約を理由に徒歩でも良いという事になった。帝国《=日本は大日本帝国と自称した》海軍も地に落ちたと思った。

東京は焼け野原になっていたが夜になると焼け残っていた川崎辺りの空襲の火の手がよく見えた。

学校は学科の時間が多く、肉体的には楽であった。歴史的な8月15日《=終戦の日》を迎え、正午の玉音放送《=ラジオで天皇が終戦を告げられた》を班内で聞いた。校内のアチコチで書類の焼却が始まった。

間もなく除隊式があり、私は海軍二等兵曹に任じられ、退職金1500円を戴いて軍隊から開放された。

さて、どうするか、釜山へ行けるかな、取敢《とりあ》えず姉が居る大阪に行こうと重い荷物を持って混乱している品川駅に行き、ホームに入ってきた大垣行きの汽車に乗り込んだ。此処から私の戦後の生活が始まった。

         軍隊と私の戦争;終わり

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あんみつ姫

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