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軍隊と私の戦争(米田)ー3

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あんみつ姫

通常 軍隊と私の戦争(米田)ー3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/3/24 21:20
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。
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そのうち、町中で飛行服を着た軍人、参謀《さんぼう=指揮官を補佐する高級将校》肩章《けんしょう=肩につける階級章》を吊《つ》るした将校などを目にするようになった。

高級将校の自動車往来も多くなった。しかし乗っている車はフォードかシボレーなどの米車であるのが奇妙に思えた。その自動車は乗る人の階級により尉官《いかん=少尉・中尉・大尉》は青、佐官は赤色、将官《しょうかん=少将・中将・大将》は黄色の旗を掲げていた。

昭和19年の夏、工業学校一期生は勤労動員《=戦争による人手不足のため学生が工場などに動員された》を受けた。私たち機械科生徒は西面にある朝鮮金属工業会社の鋳造《ちゅうぞう=鋳型に金属を流して整形する》工場と機械工場に配属された。

この会社は仁川造兵廟《ぞうへいびょう=兵器製造工場》の監督下にあって、主に軍馬が曳《ひ》く荷車《にぐるま》が主製品であった。我々は腕に「仁造釜監」と書いた腕章をつけて通勤した。鋳造工場に配属された岡村君が水圧プレスで指を潰《つぶ》す怪我をして我々一同痛ましい思いをした。

3・4カ月、此処で働き、9月頃学校に帰り詰込み授業を受けて12月に卒業した。級友は散り散りに別れ、私は凡一町の朝鮮紡績《ぼうせき》(株)に就職し、月給100円を戴《いただ》き、昭和20年《=1945年》1月から通勤を始めた。

この会社の従業員は4000名と規模が大きく自家発電所を持っていた。従業員の殆ど《ほとんど》は女工さんで美人が多いのには驚いた。

入社間もなく、帰宅途中でのスリチピでマッカリ《=朝鮮酒の一、濁り酒》の味を覚えた。四合程飲んで五十銭だった。動員からこの会社を辞めるまで軍事教練とは縁が無く、極めて平和的な生活を送った。

戦争は末期的症状となり、我々の兵役が早まり何時召集令状が来るかという事態となった。そこで私は嫌いな陸軍を避けて、海軍の特別幹部練習生・衣糧《いりょう=衣類と食糧》科に応募した。

兵長で入隊、海軍経理学校で一年間の教育後、準士官《じゅんしかん=将校と下士官の間、准尉》になるという好条件であった。三月、京城で試験を受け合格、担当将校から「性病に罹《かか》るな」と注意を受けて一旦帰宅 四月に鎮海の海兵団に入隊した。

この時、既に東京を始め、日本の主要都市は空襲によって壊滅《かいめつ=壊れて無くなる》状態になっていたのだが私はその実体を想像できなかった。

                   続く

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あんみつ姫

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