Re: 16歳の養鶏 その2
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16歳の養鶏 (オアシス, 2006/2/9 13:59)
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Re: 16歳の養鶏 その2 (オアシス, 2006/2/9 22:16)
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Re: 16歳の養鶏 その2 (しんちゃん, 2006/3/9 10:26)
- Re: 16歳の養鶏 その2 (オアシス, 2006/3/9 22:24)
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Re: 16歳の養鶏 その2 (しんちゃん, 2006/3/9 10:26)
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Re: 16歳の養鶏 その2 (オアシス, 2006/2/9 22:16)
オアシス
居住地: 東京都世田谷区
投稿数: 26
次に 高く卵を売る工夫・努力と事業としての収支、ほか纏《まと》めと補足です。
私の飼っていた鶏の種類は、 白色レグホン プリマスロック 名古屋コーチンの順で、羽数もその順でした。当時から色のついた卵が高かったので、、でも一羽が年間に産む卵の数も上記の順でした。
収入をあげるには小売です。
実需家(病院・料理教室・高級住宅地の家)に直に訪問販売です。5歳年下の弟に手伝わせましたが、自転車で持って廻るのに卵が割れないようにの苦労と 気を使って売るのに辛いと泣いていました。
綺麗《きれい》な粒の大きな卵は20円以上、白いそこそこの大きさのは17~8円で売れました。
夏と冬は産む数が違います。年平均で100羽の生鶏で60パーセントの産卵です。
平均単価@20円×60個×30日×12ヶ月=432.000円が年間総収入。
餌代、春秋に種鶏場から購入の初生雛代、他諸経費を差し引いて120.000円
即ち月1万円程儲《もう》かっていたように思います。乾燥鶏糞《かんそうけいふん》と駄鶏売却代もあります。
残念ながら、出納帳など収支記録が残ってないんです。(記録魔の私 チャンとつけていたと思うんですが、、、)
4年後 昭和30年7月、(入社のっけから結核で採用留保) 幸運にも一流企業に就職しての最初の給料は月俸6.000円 諸手当を加えて支給額11.450円(明細表有り)ですから、如何《いか》に稼《かせ》げて母・姉・私・弟 4人の生計の足しになっていたかがわかって頂けると思います。
勿論《もちろん》私ひとりで出来ることではなく、他家族3人の助けがあってこそやれたことですが、私は旧中《旧制中学》、高校を通して欠席 早退 遅刻がこの養鶏の為に極めて多く、担任始め多くの先生方の理解がなければ出席単位不足で卒業できなかったでしょう。
殆ど《ほとんど》養鶏に費やしたのは 26年4月まで、先にも記したように 養鶏は儲かるので 参入業者が増え、直需要家への販売は大変なので 市場経由卸《おろし》売りに切り替えたため、採算が悪化したこともあり徐々にやめました。
昭和26年からの4年間の大学生としての私は、月月火水木金金《=休日の無いこと》でアルバイトに明け暮れました。
最初の2年は、線路工夫補助・ポスター貼《は》り・ 競輪場の自転車預かり・海水浴場の休憩店の風呂《ふろ》炊き・道路測量・留守番・文具店パートetc etc、、
後半2年は、家庭教師(兄弟2人の4家庭 週2回)の効率の良いアルバイトと、講義録をガリバン《謄写版》で刷って売るのとで 安定しました。
入学前“入学金を免除して” と大学事務局に申し込み 事務局員に笑われ、延納で1800円を払いましたが、4年間の授業料は全額免除して貰《もら》い、奨学金を貰って 国立は有り難かったです。
かくて 私の福岡での『16歳6ヶ月から22歳6ヶ月』の生徒、学生としての苦闘の青春時代 でも厳しい暮らしの中でロマンもあった輝かしく懐かしい思い出を偲《しの》び記させていただきました。
後記
開戦、疎開《そかい=戦火を避けて都会から田舎に居を移す》、終戦、22年9月父親を亡くし(銃後《じゅうご=戦地でない内地など》で勤務地大阪での過労か)福岡の伯父に引き取られ同居、折り合い悪く母子で 引揚者住宅をやっと算段《さんだん=やりくり》して買って、生活難が始まった次第です。
この間 旧制中学転校6回(5校)、新制高校3年生の時の大学進学のための全国統一アチーブメントテストで 全校1位(県で5位?)、大学は法学部総代で卒業証書受領と 「やってやれない 事は無い」の 大天狗《だいてんぐ》が この後 病気、病気で無力さの限りを感じた波乱万丈?の人生行路が続くのであります。
オアシス
私の飼っていた鶏の種類は、 白色レグホン プリマスロック 名古屋コーチンの順で、羽数もその順でした。当時から色のついた卵が高かったので、、でも一羽が年間に産む卵の数も上記の順でした。
収入をあげるには小売です。
実需家(病院・料理教室・高級住宅地の家)に直に訪問販売です。5歳年下の弟に手伝わせましたが、自転車で持って廻るのに卵が割れないようにの苦労と 気を使って売るのに辛いと泣いていました。
綺麗《きれい》な粒の大きな卵は20円以上、白いそこそこの大きさのは17~8円で売れました。
夏と冬は産む数が違います。年平均で100羽の生鶏で60パーセントの産卵です。
平均単価@20円×60個×30日×12ヶ月=432.000円が年間総収入。
餌代、春秋に種鶏場から購入の初生雛代、他諸経費を差し引いて120.000円
即ち月1万円程儲《もう》かっていたように思います。乾燥鶏糞《かんそうけいふん》と駄鶏売却代もあります。
残念ながら、出納帳など収支記録が残ってないんです。(記録魔の私 チャンとつけていたと思うんですが、、、)
4年後 昭和30年7月、(入社のっけから結核で採用留保) 幸運にも一流企業に就職しての最初の給料は月俸6.000円 諸手当を加えて支給額11.450円(明細表有り)ですから、如何《いか》に稼《かせ》げて母・姉・私・弟 4人の生計の足しになっていたかがわかって頂けると思います。
勿論《もちろん》私ひとりで出来ることではなく、他家族3人の助けがあってこそやれたことですが、私は旧中《旧制中学》、高校を通して欠席 早退 遅刻がこの養鶏の為に極めて多く、担任始め多くの先生方の理解がなければ出席単位不足で卒業できなかったでしょう。
殆ど《ほとんど》養鶏に費やしたのは 26年4月まで、先にも記したように 養鶏は儲かるので 参入業者が増え、直需要家への販売は大変なので 市場経由卸《おろし》売りに切り替えたため、採算が悪化したこともあり徐々にやめました。
昭和26年からの4年間の大学生としての私は、月月火水木金金《=休日の無いこと》でアルバイトに明け暮れました。
最初の2年は、線路工夫補助・ポスター貼《は》り・ 競輪場の自転車預かり・海水浴場の休憩店の風呂《ふろ》炊き・道路測量・留守番・文具店パートetc etc、、
後半2年は、家庭教師(兄弟2人の4家庭 週2回)の効率の良いアルバイトと、講義録をガリバン《謄写版》で刷って売るのとで 安定しました。
入学前“入学金を免除して” と大学事務局に申し込み 事務局員に笑われ、延納で1800円を払いましたが、4年間の授業料は全額免除して貰《もら》い、奨学金を貰って 国立は有り難かったです。
かくて 私の福岡での『16歳6ヶ月から22歳6ヶ月』の生徒、学生としての苦闘の青春時代 でも厳しい暮らしの中でロマンもあった輝かしく懐かしい思い出を偲《しの》び記させていただきました。
後記
開戦、疎開《そかい=戦火を避けて都会から田舎に居を移す》、終戦、22年9月父親を亡くし(銃後《じゅうご=戦地でない内地など》で勤務地大阪での過労か)福岡の伯父に引き取られ同居、折り合い悪く母子で 引揚者住宅をやっと算段《さんだん=やりくり》して買って、生活難が始まった次第です。
この間 旧制中学転校6回(5校)、新制高校3年生の時の大学進学のための全国統一アチーブメントテストで 全校1位(県で5位?)、大学は法学部総代で卒業証書受領と 「やってやれない 事は無い」の 大天狗《だいてんぐ》が この後 病気、病気で無力さの限りを感じた波乱万丈?の人生行路が続くのであります。
オアシス