16歳の養鶏
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- 16歳の養鶏 (オアシス, 2006/2/9 13:59)
- Re: 16歳の養鶏 その2 (オアシス, 2006/2/9 22:16)
- Re: 16歳の養鶏 その2 (しんちゃん, 2006/3/9 10:26)
- Re: 16歳の養鶏 その2 (オアシス, 2006/3/9 22:24)
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投稿日時 2006/2/9 13:59
オアシス
居住地: 東京都世田谷区
投稿数: 26
我が体験 16歳の養鶏 その1
終戦後の混乱期に生活のため養鶏をやっていた話を 思い出しながら書きます。
新聞を賑《にぎ》わせた鳥インフルエンザ、浅田農産のグループ総計 百何十万羽とは隔世《かくせい=時代を異にする》の感の話です。
昭和23《1948》年~26年夏まで、福岡の中浜町で養鶏を始めた時は旧制中学3年生、16歳でした。何故《なぜ》年端も行かぬ身で生計を担い養鶏を始めたかは後程記させて頂きます。
最初は飯塚の種鶏場から50羽の雛《ひな》を買っての事業?開始でした。毎年育雛《いくすう》を続けながら、雛・成鶏(卵を産む鶏)計150羽養鶏の規模まで2年ほど続けました。
卵は物価の優等生と言いますが、その頃は高価貴重なもの、買えば小売で15円~20円でした。
乾燥させた鶏糞はなんと かます=藁《わら》を編んだ袋一俵1200円で売れたんです。当時の150羽養鶏は、今で言えば1万羽養鶏と対比しておかしくない規模です。
あれこれと経営?に工夫、努力しました。
まず育趨室(3坪《約10平方メートル》程の小屋、飼料等も置く)を建てました。これは業者に頼んでです。
そこに 畳3枚を縦に川の字に並べた(よりチョッと狭い)形の6脚支えの育趨箱を、材木を苦労して入手し 自分で作りました。箱の片側 雛の眠る方5分の1のところを 垂れ幕で仕切って、その部分には湿らせた砂を5cm程敷き、雛が夜眠る場所とします。
下から練炭《れんたん=木炭・コークスなどの粉末を円筒型に成型した燃料》の弱火で湿気と保温調節をして雛を育てました。一ヶ月は 夜もその小屋で寝ての暮らしです。火が消えれば温かさを求めて重なりあっての圧死を起こすからです。
広いスペースの方は 日中に雛達が運動し、与えた餌を食べて育つ場所です。
一ヶ月から40日経つと 成鶏になる迄 別の小屋に移して育てます。
成鶏は50羽ずつ2つの鶏舎です。鶏舎の造りは次のようになっています。
広さは15坪《約50平米》(3間×5間)、長い側に止まり木を上下2列と糞《ふん》台です。
鶏には足に鶏環?と称する金属の番号札を 一羽一羽つけました。
みかん箱を二つに仕切って産卵箱を作り、それぞれに鶏が卵を産みに入ったら蓋《ふた》が廻《まわ》って入口をふさぐ仕掛けがしてあります。
この産卵箱を 止まり木奥の台に10ほど並べ、20羽が一度に卵を産んでも大丈夫なようにしてあり、30分~1時間おきに見回るんです。
壁に貼《は》った 縦に番号 横に日付を書いた表に「卵を生んだ日は○」で毎日記録していきます。
巡回して上げてやらなないと出られない。この仕掛け箱 トラップネストと云うんです。
見回って卵を取り出し、鶏を出してやるときに産卵管理が出来る訳。産まなくなった駄鶏《だけい=駄目な鶏》は 鳥つぶし屋 に売ります。トラップネストの効用は抜群で、それを手作りしたのは (^-^)自慢です。
餌の確保、仕入れも大変です。
先ず糠《ぬか》・ふすま(麦の外皮)・トウモロコシ・牡蠣殻《かきがら》・小雑魚《こざこ》の干したの、そして葉・野菜。
当時は飼料は飼料統制会社で扱ってました。大人が喚《わめ》き喧嘩《けんか》腰で買いあさるなか16歳の少年は負けまいと虚勢をはってタバコをぷかぷか、表単位で買い付けていました。
干し小雑魚は高くて買えません。でも動物蛋白《たんぱく》を与えないと卵の産みが悪いんです。
そこで考えました。
朝の4時半頃起きて、後輪の太い自転車の後ろに でっかいバケツを載せて、かまぼこ屋 廻りです。魚の皮・内臓・頭・骨を貰《もら》ってくるんです。たまに卵をお持ちして、、、
都合4,5件廻って集め、帰って大鉄鍋《てつなべ》で煮て餌に混ぜて鶏達の食事を作ります。これは週一回です。
野菜、青物は 家の前が空き地でしたので、そこで鶏用の欠き菜を10坪ほど植えて、下葉からかいで 足らない分は野菜屑《くず》を探し、野原に生えている鶏の食べそうな草を採って補充しました。
オアシス
終戦後の混乱期に生活のため養鶏をやっていた話を 思い出しながら書きます。
新聞を賑《にぎ》わせた鳥インフルエンザ、浅田農産のグループ総計 百何十万羽とは隔世《かくせい=時代を異にする》の感の話です。
昭和23《1948》年~26年夏まで、福岡の中浜町で養鶏を始めた時は旧制中学3年生、16歳でした。何故《なぜ》年端も行かぬ身で生計を担い養鶏を始めたかは後程記させて頂きます。
最初は飯塚の種鶏場から50羽の雛《ひな》を買っての事業?開始でした。毎年育雛《いくすう》を続けながら、雛・成鶏(卵を産む鶏)計150羽養鶏の規模まで2年ほど続けました。
卵は物価の優等生と言いますが、その頃は高価貴重なもの、買えば小売で15円~20円でした。
乾燥させた鶏糞はなんと かます=藁《わら》を編んだ袋一俵1200円で売れたんです。当時の150羽養鶏は、今で言えば1万羽養鶏と対比しておかしくない規模です。
あれこれと経営?に工夫、努力しました。
まず育趨室(3坪《約10平方メートル》程の小屋、飼料等も置く)を建てました。これは業者に頼んでです。
そこに 畳3枚を縦に川の字に並べた(よりチョッと狭い)形の6脚支えの育趨箱を、材木を苦労して入手し 自分で作りました。箱の片側 雛の眠る方5分の1のところを 垂れ幕で仕切って、その部分には湿らせた砂を5cm程敷き、雛が夜眠る場所とします。
下から練炭《れんたん=木炭・コークスなどの粉末を円筒型に成型した燃料》の弱火で湿気と保温調節をして雛を育てました。一ヶ月は 夜もその小屋で寝ての暮らしです。火が消えれば温かさを求めて重なりあっての圧死を起こすからです。
広いスペースの方は 日中に雛達が運動し、与えた餌を食べて育つ場所です。
一ヶ月から40日経つと 成鶏になる迄 別の小屋に移して育てます。
成鶏は50羽ずつ2つの鶏舎です。鶏舎の造りは次のようになっています。
広さは15坪《約50平米》(3間×5間)、長い側に止まり木を上下2列と糞《ふん》台です。
鶏には足に鶏環?と称する金属の番号札を 一羽一羽つけました。
みかん箱を二つに仕切って産卵箱を作り、それぞれに鶏が卵を産みに入ったら蓋《ふた》が廻《まわ》って入口をふさぐ仕掛けがしてあります。
この産卵箱を 止まり木奥の台に10ほど並べ、20羽が一度に卵を産んでも大丈夫なようにしてあり、30分~1時間おきに見回るんです。
壁に貼《は》った 縦に番号 横に日付を書いた表に「卵を生んだ日は○」で毎日記録していきます。
巡回して上げてやらなないと出られない。この仕掛け箱 トラップネストと云うんです。
見回って卵を取り出し、鶏を出してやるときに産卵管理が出来る訳。産まなくなった駄鶏《だけい=駄目な鶏》は 鳥つぶし屋 に売ります。トラップネストの効用は抜群で、それを手作りしたのは (^-^)自慢です。
餌の確保、仕入れも大変です。
先ず糠《ぬか》・ふすま(麦の外皮)・トウモロコシ・牡蠣殻《かきがら》・小雑魚《こざこ》の干したの、そして葉・野菜。
当時は飼料は飼料統制会社で扱ってました。大人が喚《わめ》き喧嘩《けんか》腰で買いあさるなか16歳の少年は負けまいと虚勢をはってタバコをぷかぷか、表単位で買い付けていました。
干し小雑魚は高くて買えません。でも動物蛋白《たんぱく》を与えないと卵の産みが悪いんです。
そこで考えました。
朝の4時半頃起きて、後輪の太い自転車の後ろに でっかいバケツを載せて、かまぼこ屋 廻りです。魚の皮・内臓・頭・骨を貰《もら》ってくるんです。たまに卵をお持ちして、、、
都合4,5件廻って集め、帰って大鉄鍋《てつなべ》で煮て餌に混ぜて鶏達の食事を作ります。これは週一回です。
野菜、青物は 家の前が空き地でしたので、そこで鶏用の欠き菜を10坪ほど植えて、下葉からかいで 足らない分は野菜屑《くず》を探し、野原に生えている鶏の食べそうな草を採って補充しました。
オアシス
オアシス
居住地: 東京都世田谷区
投稿数: 26
次に 高く卵を売る工夫・努力と事業としての収支、ほか纏《まと》めと補足です。
私の飼っていた鶏の種類は、 白色レグホン プリマスロック 名古屋コーチンの順で、羽数もその順でした。当時から色のついた卵が高かったので、、でも一羽が年間に産む卵の数も上記の順でした。
収入をあげるには小売です。
実需家(病院・料理教室・高級住宅地の家)に直に訪問販売です。5歳年下の弟に手伝わせましたが、自転車で持って廻るのに卵が割れないようにの苦労と 気を使って売るのに辛いと泣いていました。
綺麗《きれい》な粒の大きな卵は20円以上、白いそこそこの大きさのは17~8円で売れました。
夏と冬は産む数が違います。年平均で100羽の生鶏で60パーセントの産卵です。
平均単価@20円×60個×30日×12ヶ月=432.000円が年間総収入。
餌代、春秋に種鶏場から購入の初生雛代、他諸経費を差し引いて120.000円
即ち月1万円程儲《もう》かっていたように思います。乾燥鶏糞《かんそうけいふん》と駄鶏売却代もあります。
残念ながら、出納帳など収支記録が残ってないんです。(記録魔の私 チャンとつけていたと思うんですが、、、)
4年後 昭和30年7月、(入社のっけから結核で採用留保) 幸運にも一流企業に就職しての最初の給料は月俸6.000円 諸手当を加えて支給額11.450円(明細表有り)ですから、如何《いか》に稼《かせ》げて母・姉・私・弟 4人の生計の足しになっていたかがわかって頂けると思います。
勿論《もちろん》私ひとりで出来ることではなく、他家族3人の助けがあってこそやれたことですが、私は旧中《旧制中学》、高校を通して欠席 早退 遅刻がこの養鶏の為に極めて多く、担任始め多くの先生方の理解がなければ出席単位不足で卒業できなかったでしょう。
殆ど《ほとんど》養鶏に費やしたのは 26年4月まで、先にも記したように 養鶏は儲かるので 参入業者が増え、直需要家への販売は大変なので 市場経由卸《おろし》売りに切り替えたため、採算が悪化したこともあり徐々にやめました。
昭和26年からの4年間の大学生としての私は、月月火水木金金《=休日の無いこと》でアルバイトに明け暮れました。
最初の2年は、線路工夫補助・ポスター貼《は》り・ 競輪場の自転車預かり・海水浴場の休憩店の風呂《ふろ》炊き・道路測量・留守番・文具店パートetc etc、、
後半2年は、家庭教師(兄弟2人の4家庭 週2回)の効率の良いアルバイトと、講義録をガリバン《謄写版》で刷って売るのとで 安定しました。
入学前“入学金を免除して” と大学事務局に申し込み 事務局員に笑われ、延納で1800円を払いましたが、4年間の授業料は全額免除して貰《もら》い、奨学金を貰って 国立は有り難かったです。
かくて 私の福岡での『16歳6ヶ月から22歳6ヶ月』の生徒、学生としての苦闘の青春時代 でも厳しい暮らしの中でロマンもあった輝かしく懐かしい思い出を偲《しの》び記させていただきました。
後記
開戦、疎開《そかい=戦火を避けて都会から田舎に居を移す》、終戦、22年9月父親を亡くし(銃後《じゅうご=戦地でない内地など》で勤務地大阪での過労か)福岡の伯父に引き取られ同居、折り合い悪く母子で 引揚者住宅をやっと算段《さんだん=やりくり》して買って、生活難が始まった次第です。
この間 旧制中学転校6回(5校)、新制高校3年生の時の大学進学のための全国統一アチーブメントテストで 全校1位(県で5位?)、大学は法学部総代で卒業証書受領と 「やってやれない 事は無い」の 大天狗《だいてんぐ》が この後 病気、病気で無力さの限りを感じた波乱万丈?の人生行路が続くのであります。
オアシス
私の飼っていた鶏の種類は、 白色レグホン プリマスロック 名古屋コーチンの順で、羽数もその順でした。当時から色のついた卵が高かったので、、でも一羽が年間に産む卵の数も上記の順でした。
収入をあげるには小売です。
実需家(病院・料理教室・高級住宅地の家)に直に訪問販売です。5歳年下の弟に手伝わせましたが、自転車で持って廻るのに卵が割れないようにの苦労と 気を使って売るのに辛いと泣いていました。
綺麗《きれい》な粒の大きな卵は20円以上、白いそこそこの大きさのは17~8円で売れました。
夏と冬は産む数が違います。年平均で100羽の生鶏で60パーセントの産卵です。
平均単価@20円×60個×30日×12ヶ月=432.000円が年間総収入。
餌代、春秋に種鶏場から購入の初生雛代、他諸経費を差し引いて120.000円
即ち月1万円程儲《もう》かっていたように思います。乾燥鶏糞《かんそうけいふん》と駄鶏売却代もあります。
残念ながら、出納帳など収支記録が残ってないんです。(記録魔の私 チャンとつけていたと思うんですが、、、)
4年後 昭和30年7月、(入社のっけから結核で採用留保) 幸運にも一流企業に就職しての最初の給料は月俸6.000円 諸手当を加えて支給額11.450円(明細表有り)ですから、如何《いか》に稼《かせ》げて母・姉・私・弟 4人の生計の足しになっていたかがわかって頂けると思います。
勿論《もちろん》私ひとりで出来ることではなく、他家族3人の助けがあってこそやれたことですが、私は旧中《旧制中学》、高校を通して欠席 早退 遅刻がこの養鶏の為に極めて多く、担任始め多くの先生方の理解がなければ出席単位不足で卒業できなかったでしょう。
殆ど《ほとんど》養鶏に費やしたのは 26年4月まで、先にも記したように 養鶏は儲かるので 参入業者が増え、直需要家への販売は大変なので 市場経由卸《おろし》売りに切り替えたため、採算が悪化したこともあり徐々にやめました。
昭和26年からの4年間の大学生としての私は、月月火水木金金《=休日の無いこと》でアルバイトに明け暮れました。
最初の2年は、線路工夫補助・ポスター貼《は》り・ 競輪場の自転車預かり・海水浴場の休憩店の風呂《ふろ》炊き・道路測量・留守番・文具店パートetc etc、、
後半2年は、家庭教師(兄弟2人の4家庭 週2回)の効率の良いアルバイトと、講義録をガリバン《謄写版》で刷って売るのとで 安定しました。
入学前“入学金を免除して” と大学事務局に申し込み 事務局員に笑われ、延納で1800円を払いましたが、4年間の授業料は全額免除して貰《もら》い、奨学金を貰って 国立は有り難かったです。
かくて 私の福岡での『16歳6ヶ月から22歳6ヶ月』の生徒、学生としての苦闘の青春時代 でも厳しい暮らしの中でロマンもあった輝かしく懐かしい思い出を偲《しの》び記させていただきました。
後記
開戦、疎開《そかい=戦火を避けて都会から田舎に居を移す》、終戦、22年9月父親を亡くし(銃後《じゅうご=戦地でない内地など》で勤務地大阪での過労か)福岡の伯父に引き取られ同居、折り合い悪く母子で 引揚者住宅をやっと算段《さんだん=やりくり》して買って、生活難が始まった次第です。
この間 旧制中学転校6回(5校)、新制高校3年生の時の大学進学のための全国統一アチーブメントテストで 全校1位(県で5位?)、大学は法学部総代で卒業証書受領と 「やってやれない 事は無い」の 大天狗《だいてんぐ》が この後 病気、病気で無力さの限りを感じた波乱万丈?の人生行路が続くのであります。
オアシス
しんちゃん
居住地: 河内長野市
投稿数: 20
オアシスさん、お久しぶりです。
オアシスさんの16歳から22歳までの猛烈な奮闘記は何回読ませていただいても、胸にジ~ンと来る涙ぐましいものですね。
戦後の混沌《こんとん=なりゆきがはっきりしない》たる時代に母上様と姉弟を併せての4人を養っていくために、ご自分の身を犠牲にしての養鶏の事業は大変だったと思います。
鶏の世話は早朝からされた居られたことと思います。原価計算までされて採算を取られての事業には感心致しました。実需家への自転車での訪問販売は、夏は厳暑に耐え、冬は身を切るような寒さの中でのご様子が目に浮かびます。
私など貧乏とはいえ、両親に養われていた状態と比較すれば、いかにのんびり過ごしていたか恥ずかしい限りです。
このような状態の中でも、学業がダントツであったとの、いかに「頑張りやさん」で素晴らしく光輝いておられたかと、この記述こそメロウ伝承館で後世に伝えていくに相応《ふさわ》しい伝記ではないでしょうか。自分のことはさておいて、今の若年層にはこのような気概は余り目にいたしません。
オアシスさんは、当時のご無理があったためか、その後お体に少し影響が出てきておられるご様子ですが、これからはごゆっくりなさってください。
それにしても、当時の卵一個が20円とは、60年経っても同じ価格ですね。
私たち戦前の小学生時代の食生活に、弁当のおかずで「卵焼き」は大ご馳走《ちそう》だったことが思い出されます。
貴重な体験記録有難うございました。
しんちゃん
--
しんちゃん
オアシス
居住地: 東京都世田谷区
投稿数: 26
しんちゃん、レス有難うございました。
また つまらぬ私の奮闘記に対して過分の賞賛と感激されたとの言葉を賜り、恥じ入っております。
兎に角《とにかく》無我夢中でしたね。
当時は苦学生が沢山いました。またさほどに苦学をしていない友人達や先生方も理解がありました。
そして みんなが貧しかったのに心、気持ちが温かく優しかったですね。
裸足《はだし》で通学の小学生も居なくはなかった時代です。
家庭でも僅《わず》かな食料やたまに手に入るお菓子や果物も一つを分け合って食べてましたね。
大学の1年の時先輩達と道路測量を請け負ってのアルバイトをしました。
県の役人の手伝いで、もてなしておけば 予算が取れ道路が良くなると村の人達から誤解されました。
強く否定して関係ないと申し立てたんですが、そう思ってしまったんでしょうね。
各戸に分けて泊めてもらい、風呂やご馳走のもてなしもあって良い思いもしました。
背中とお腹がひっつきそうな空腹の時、炊き立てのご飯に醤油《しょうゆ》をぶっ掛けて腹いっぱいの丼《どんぶり》飯の上手《うま》さはいまだに忘れない時代にです。
学校の成績は、多少記憶力が良かったのと 試験の勘所を押さえる要領があったに過ぎません。
コツコツと勉強した友達が結局は良い仕事を成し遂げてますね。
今となっては思い返せば、総てが充実して楽しかった得がたい青春時代でした
また つまらぬ私の奮闘記に対して過分の賞賛と感激されたとの言葉を賜り、恥じ入っております。
兎に角《とにかく》無我夢中でしたね。
当時は苦学生が沢山いました。またさほどに苦学をしていない友人達や先生方も理解がありました。
そして みんなが貧しかったのに心、気持ちが温かく優しかったですね。
裸足《はだし》で通学の小学生も居なくはなかった時代です。
家庭でも僅《わず》かな食料やたまに手に入るお菓子や果物も一つを分け合って食べてましたね。
大学の1年の時先輩達と道路測量を請け負ってのアルバイトをしました。
県の役人の手伝いで、もてなしておけば 予算が取れ道路が良くなると村の人達から誤解されました。
強く否定して関係ないと申し立てたんですが、そう思ってしまったんでしょうね。
各戸に分けて泊めてもらい、風呂やご馳走のもてなしもあって良い思いもしました。
背中とお腹がひっつきそうな空腹の時、炊き立てのご飯に醤油《しょうゆ》をぶっ掛けて腹いっぱいの丼《どんぶり》飯の上手《うま》さはいまだに忘れない時代にです。
学校の成績は、多少記憶力が良かったのと 試験の勘所を押さえる要領があったに過ぎません。
コツコツと勉強した友達が結局は良い仕事を成し遂げてますね。
今となっては思い返せば、総てが充実して楽しかった得がたい青春時代でした