長崎の被爆者の声(2) (5枚目のCDの20から30まで)
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長崎の被爆者の声(2) (5枚目のCD) (kousei, 2006/7/14 0:38)
- 長崎の被爆者の声(2) (5枚目のCDの1から10まで) (kousei, 2006/7/14 10:40)
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- 長崎の被爆者の声(2) (5枚目のCDの20から30まで) (kousei, 2006/7/14 10:47)
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kousei
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その20 音声を聞く
爆心地の南側。国鉄長崎駅とその周辺及び旧市内地区
その21 音声を聞く
急なことで、私は、急いで駅長室に行きましたところが、駅長室の2階が丁度日本食堂になっとったわけなんです。で、その日本食堂の処が2階が崩壊しまして、駅長室の半分はそれで埋まっておりました。
そいでひょっとするとこの中に怪我人が居りはしないかと云うような感じがしまして、丁度主席助役の処が真上でございましたから、私は「主席助役、主席助役!」と云う事を2、3度喚呼しましたけれども、何の応答はありませんから、あぁ、退避したんじゃなぁ、というようなところで自分の部屋に行きましたところが駅長室の方は熱いんです。
もう何だかその熱気が激しくして今にも自然発火しはせんかと、いうような状態でありました。
そいで初めて、あっ、これは広島に起きた爆弾と同じもんだな、というような感じがしまして一時、私としては恐怖を感じた次第でございます。
ところが、もうその時、駅の前の駐在所それからその観光案内所もありましたが、もうそういうところの家が火で燃えかかっておる。
ほいでその内にまあ駅も2階の上に見張り所を作っておりましたが、そういう見張り所に火が出まして、それから又、上屋の庇の処に燃えつくとか。
バケツ操作ではとても駅の高いところには水は届かず、とうとうまあ延焼してしまったわけなんです。そいから構内にある客貨車も自然に発火するんです。どうしようも手の付けようのない状態でなかったかと・・・。
その22 音声を聞く
停車場に行けば何とかなるだろうと思って、ほいで駅に行ったわけですよ、ねぇ。ほいだところがあんた駅には、あんた向こうからどんどん重傷者やなんかがいっぱい、あんた、来るでしょうが。駅も何にもその死んだ人や何かおってだんだんどっちゃばえしとるわけですたい。
五島町あたりからも煙が出とったし、県庁あたりからも煙が出とったし、それから興善町の向こうの方からももう煙が出とったでしょ。火が付いて。駅前の方ももう火が付いとったですもんね。もぅあの辺はもぅ無茶苦茶ですたい、道路も何も。瓦は飛んでるしねぇ。ゴミ箱から戸から戸障子からみんな道路やなんかにほり出したみたいに飛んじまってるんじゃもん。駅前なんかもぅ、大騒ぎさあんた。
ほいだところが、あんた、もう血だらけになっとっとやもん、みんなが、向こうから来る連中は。半死半生ですたぃ。ほいでから重傷なんは手を引いたり肩をかしてやったりして。こんだ重傷者の運びですたい私が、こんだ。そこへ行ったら。
その23 音声を聞く
すぐ屋上へあがってみたんです。
そしたら驚いたことにもう全然外の状況が変わっているわけですね。もう対岸の三菱の上の方、そういうところの屋根がですね、普通は真っ黒い瓦ですが、茶褐色の土がずうっと出て、瓦がずれている訳ですよね。それとですね、あっちこっちにこう煙がたっているわけなんです。
ひどいのが県庁なんですよ。あれは早よう消さんともう大事するぞと、だんだん、だんだん、それがひどくなって行くんですよ。
それで見てる間にもう今度は火が出だしたんでね、見てる間にもうどんどん火がそれから豊後町方面ですね、ああいう方面にもずっとあの、あちこちに火が出て、で県庁の火が元になって県庁のあの高台が全部やられて、中町、東中町,内中町とありますね、あの辺までずっと焼けて、その後はもうずっと飛行機が飛んでくるんですよね。
しかし私達はもうこうなったらもうやられる以外ないやないかと言う様なことで、逃げもしないで。
その24 音声を聞く
これが焼けてね、その皮膚がね、ちょうど女の人がここい前掛けしたごと、その皮膚がべらあーと下がって、目ん玉ちゅうのは大きいもんですな、こげなって目ん玉が飛び出とる。
方角が分からん、どっちい行っていいやら。
それからわしはその娘の子をじわじわ手を引いて壕に入れて、なーもあんた、どんどんどんどんどんどんどんどん、もう逃げ込んでくるとですたいね。
何万ちゅう人間がその壕に、ほして中へ入る押し込むけれども中は熱うして居られん。
そうしたらね海軍のね工作隊ちゅうのが裸で仕事しよったですな。6,7人一人抱えて入ってきたです。
痛いちゅうことが、こーしても痛いちて、かーも、がくがもう こうして見よるとね、可哀そうにね腹やられたとでしょうな。皮膚はどうもなっとらん。
ほーいたら、その、その当時はね、上等兵曹ちゅうとった。
「何を言うか貴様、帝国海軍ど、こんくらいのことでへこたれてたまるかー」ちて、おごらるるもんじゃから、痛いということは言わないで、くーって苦しむ苦しむ。
10分位したらおとなしゅうなって死んでしもうて、ほー恐ろしいもんじゃなあと思うて、あれからもう、浦上の私が居ったところはカッカッカッカと燃え出した、ほうしてこうして見ら、県庁の窓か、窓からボンボンボンと火の吹きよる、あー県庁もいかれたばいねーと思うて。
その25 音声を聞く
怪我した人がボツボツボツボツ帰ってくるわけですよ。みうらさーんち言うて入って見えるけどね、もう、兎に角ね、全部もう帰って見える人ごとにですね、丸裸ですよ。足首をくびってる紐だけが残っているわけですね。
それからあの手首をくびってる紐が手首に残って、あとは全部むけて丸裸ですよ。
それからもうね、この髪の毛の色みたいに真っ黒の肌色ですよ。目だけはぎょろぎょろ光ってですね、男の人がですね、女の身体みたいにですね、乳房のようにぶらぶらもう火ぶくれが下がってるんですよね。もう度肝を抜かれるわけですよ。
ほしてね、私がね、あの、「あなたはみうらさん?」と、うちの名前をゆうて入ってこられたけどね、あの「あなたの名前は言わんと私は分からん」と。
「そげん変わっとるですかっ」て、兎に角ね、もう分からんて、目だけぎょろぎょろして分からんて、「誰れですか?」て。「もりたです」
「名前をいわんと分からんですよ」ゆうて、「僕、ふくまつです」「ああそうですか、ああふくちゃんの父ちゃんね」ってゆうてですね、「もう敷きまっせ」てゆうてですね。
また一時すると、「みうらさーん」「あんた誰ですか?」 「私はやまもとです」て、「ああそうですか」て。
「やまもとも名前を言わんと分からんです」て。
「おとまつです」て。
「ああそうですか。どうぞあの私が連れて行くけん」て、家まで連れて行くけん、きつかでしょ、「水ば飲ましてくれろ」て、「ああ水なら安かこと、ああ飲みまっせ飲みまっせ」ていうて、水が毒になるとは知らずですね、ほんとに。
その26 音声を聞く
午後から夕刻へかけて、旧市内地区から爆心地へ向かう動き
その27 音声を聞く
特別救護隊員に集合命令が掛かったので、私達は「救護隊員」と書いた赤たすきを掛けた、あ、掛けて巡査部長10数名集まったわけです。
私と同僚の巡査部長1名は、「君達ふたりは今からすぐ長崎駅前から道ノ尾付近まで列車と車両が通行できるかどうか直ぐ報告してくれ」と言うような命令を受けました。
その頃まだロッキードなど長崎上空を飛び飛び回っており、私はこれは決死の仕事だと思ったとたん、一瞬身震いがしたわけです。
当時私たちは地下足袋に黒いゲートル、黒く染めた夏の制服を着て短剣を下げた姿でしたが、まだ燃え続けて燻ぶっている市街地を出発したわけです。
井樋の口(現在の銭座町)を少し出たら、市街地は完全に燃えつくして、本原町の丘まで一望に眺めることが出来ました。負傷者は周辺に何千人とうごめきあって、焼け残った電車の中には、腰掛けたまま焼け死んだ人がそのままの姿勢で並んでいるのが、異様で爆発のすごさがはっきりみとめられました。
この様な電車はその付近に6台か7台あったと記憶しております。
それからそのままずうと通っていったわけですが、その途中には負傷者があちらこちらに負傷にあえいでおって、「警察の人、助けてください、治ったら国のためにまた働きます、助けてください」、と両手を合わせて何回も拝まれたわけです。
私達二人は薬品を持っているわけじゃなし、拝まれてもどうすることも出来なくて。
その28 音声を聞く
全然、家が一軒もないのです。長崎駅から向うには。そいでその、てんてんてんてんとして、その、かがり火みたいなごとで、ずうっと燃えてるんですね。
で、その中をまあ這うようにして目的地に向かって進んだわけで。今度は向うの大橋の方面からですね、怪我をしてほいて長崎駅の方へ向かって避難する人、下の川の橋の下からですね、若い人の声で、今も耳に残っとるんですが、「助けてくれ、助けてくれ」って言う声がするわけですね。
しかし、これもどうもいかんともせぬもう施しようもない。そいでこんど今の市民運動場ですか、あそこの所に行ってみたところが、もう兎に角、山里方面、城山方面からの避難者で、が あそこに集まりましてね。子が親を呼び、親が子を呼ぶ。
も兎に角、阿鼻叫喚。たまたま親が子を発見すると、無事を喜んでそして抱き合ってそこで泣き叫ぶんですね。
そすと今度はそうするうちに、死体を見出したお母さんなんかというのは、その死体に取りすがって泣くと言うような状態。
そうすっと今度は重傷を負った人が歩けないのでもう兎に角、芋虫みたいように這うてですね。そして生きのびんとする姿ですね。
実にこれは何と言いますかな、その、話と言っても話せない、ほんとに、もうこの上もない、行ったことはないんだけど地獄と言うものがあれば、ま、こんなものじゃなかろうかと思うですね。兎に角その惨状というものがですね。
その29 音声を聞く
大橋に近づいた頃、私達は異様な声が集まるのを耳にして、川の中には水があるところと言わずない所と言わず、幼児、男、女、老人の区別無く、その数は恐らく何千人と言う人たちだったと思います。
その人たちは付近一帯が一瞬にして焼けたので、逃げ場がないのでこの川に走りこんだものであると、すぐ直感されたわけです。
私は12年から15年まで北支事変に現役兵として参加して、友軍が何百人と死傷したことがあり、この悲惨な光景に何度か遭遇したが、軍人は若者の集まりばかりで、まして自分自身も何時死ぬか分からんと覚悟していたので、つぎは自分の番かと思うくらいであったが、この状況はどうだろう、重傷の何千人という老幼男女のうめき声はなんと表現していいか、表現はとても出来ません。
私は地獄と言う言葉を子供の頃から聴いていたわけですが、しかし戦地に居る時は地獄とまでは感じませんでしたけど、この光景を見て、その時これが本当のこの世の地獄と思って。
その30 音声を聞く
井樋の口ね、あの付近からね、もーう焼け爛れた人がまあーあっちこっちに見えるし、電車は転覆してるわー馬車馬はもう死んだまま寝てるわ、人間はごろごろですよ。
電車ひっくり返ってるでしょうー、みんな電車の中でみんなまる焦げであなた、死んでるでしょうー。行く途中浦上川を渡ったところが川に一杯人がおるなー。
それから、もっとね可哀そうだと思ったのはね、家がつぶれているでしょうー。そいでそこから這い出したんでしょうね、その這い出した人がこんな格好だ。
両手を道路の方にやってね、首はとゆうと、それがもう焼け爛れてしもうてこんななってんだなあーもまことに可哀そうだし、川ではそのさかんに「助けてくれ」、「助けてくれ」泣き喚くし。
それからもうその段じゃないもんだから、急いでその兵隊を二人うちにいった、うちいったら、あんたもううちはぺしゃんこだよー。
半分焼けてるもん、どうにもならないですよ、近所全部そうですからね。