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広島・長崎の被爆者の声(1) (7枚目のCDの11から20まで)

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kousei

通常 広島・長崎の被爆者の声(1) (7枚目のCDの11から20まで)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/7/14 11:20
kousei  管理人   投稿数: 4
 
その11 音声を聞く

 司令部から通達が来ましてね、「将校全員集合せよ」と、しかもその服装がね、「下着から全部その替えてこい」ちゅうんですよ。兎に角、軍刀ですね。あの、念を押してあるわけですよ、「軍刀を持って来い、差して来い」と。

 それでねぇ、その我々も当時私なんかもまだ若いですからね、血気盛んな連中ですからね、そこで、「おまえどう思う?」ちゅうわけですね。「やあ、これはあのぉ、将校全員腹切るんだ」と。「そこでね、司令官が出てきて、お前らみんなその腹切れということなんだ」と。その兎に角下着から替えてこいなんちゅう事はね、滅多に無いことですからね。うん。

 それからあの、やぁ そりゃ、も、我々にまでは腹切れと言わんだろうけれども、兎に角、我々の前で司令官が腹を切るんだろうと、、、


その12 音声を聞く

 私とほかの若い看護婦さんと二人で宿直してましたら、後の看護婦がね、あのモヒ、これはあの麻薬ですけれども、それと注射器を持って集まってきたんです。それで、「もう日本が負けて捕虜になるのは恥ずかしいから、もう悔しいから、このまんま注射器を打ちあって、皆で死にたい」って言ってきたんですね。

 それで私はあの、「皆も死ぬことはそんなに早まってはいけない」って、で、「いま広島では戦争が終わったんじゃなくて、ほんとに原爆で戦争が始まったと同じ事で、あの、こんなに患者さんが沢山いて、みんなが、の手が一人でも欲しい時にそんなことをしたら、誰だって喜ぶわけでないから、も、死ぬことは何時でも死なれるんだから、兎に角、いま目の前の患者さんのこと看護するのが一番のみんなの務めなんだ」っと言うことで、あの、励ましましてね、思い、思いとどまらせたんですけれども。

 あの、その当時て言うのは、あの兎に角あの、私は今でも戦陣訓のその一条と言うのはすらすらと言われるんですけどもね、「生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ」って言うのは、もう捕虜になることは絶対その、いけない事で、敵に捕虜になったら、返されても、自決すれって言うの、これはもう軍隊の常識だったわけですね。

 もうほんっとに私共は小さい時から、あのぉ死っと言うものを美しいものとして、天皇陛下のために死ぬことが最高の名誉で美しいことだっていう風に思い込まされてきてましたからね。


その13 音声を聞く

 所謂、玉音放送というのを聴いた時にはね、やっぱり、もうガックリときましたけれどもね、日本は負けた,負けたらどうなると言うようなそう言う考えの前にね、はぁー、こいでもうほんっとにあの空襲警報から解放されるかぁーなんて言うようなことでね、人には言われないようなね、そういう感じを受けましたですね。ほんっとに、もうなんかホッとしましたねぇ。

 あんまりもう、そのなんか原爆の印象が強くてですね、右を向いても左を向いてもね、寝ても覚めてもね、そういうものの中に浸ってるわけでしょう、ね、ですからね、もう息苦しくて息苦しくてたまらない訳ですよねぇ、だからねぇ、もうその、あのもう防空頭巾をほんとに空に投げ上げましたもの。私、嬉しくて。


その14 音声を聞く

 「まぁーうち良かったー」、私が言うたら、その近所のおじさんがね、「あんたええことあるもんの」、「どうしてぇ、おじさん」言うたら、「今度終わったらみんなその殺されるんよ」いうちゃったけん、「殺されるん?」私が言ったら、「そらそうやの、あんたこんだ敵、敵じゃったけ殺されるようの、中国でも一杯殺しとるんじゃけん」言うてね。

 「まぁ怖いね」って私がいうたんですよ、で、「どうして殺すん」言うたら、田舎のおじさんがね、「おじいさんがね、近所の人がその皆を並べてね、日本刀で首を切る」言うて。「ほいじゃったらあんた日本の人口の人あれだけの人口をね、並べたらすごくあんた短刀いや日本刀もいるしね、手でねその人を打ち殺すいうことは出来んじゃないね刀で」って、私が言うたら、「いや、そら、あらゆることをして殺すよ」言うてじゃって、「まぁほんと」っていうたことがあるですけどね、

 で、私は終わって嬉しかった。で、学校へ行けるいうはええがね。私はほんとに嬉しかったですよ。ほいじゃもう夜も空襲はないし、家もあかるう電気つけられるんじゃね言うたら、そうじゃいうことでね、非国民じゃったんでしょうよ、じゃけん、その当時で言うたら。嬉しかったんです。


その15 音声を聞く

 そいで父が怪我してまして、なんともなかったんですけども口から血を吐いて15日に亡くなったんですけどね、で、近所の学校みたいな所に連れて行ったんですが、ま、そこはもう長崎医大のね、あの、人達が来てたんですが、もう先生も患者もないんです。みんなもう、裸やら怪我やら、も、もう臭気がねぇひどくて。

そいで「亡くなったから」って言ったら、「そこに置いて行ってくれ」っていうんです。だから「もっとどうにかした所に」って姉が頼んだんですが、あの「もう一人、一人か二人ね、死ぬ人がいるから、勿体無いから、木が、それまで待たなきゃ焼けない」ってことで、それで野ざらしだったんです。毎日そこへあの、治療に行くたんびに、父を見るのが辛かったですね。

 
その16 音声を聞く

八月十六日から九月上旬までの三週間、被爆者の身の上に起こったこと、被爆者の身の回りであったこと、広島、長崎。


その17 音声を聞く

 丁度、終戦の翌日やったんね、それがね。手をちょっと頭にやるとぱらぱらっと髪が抜けるんですよ。ほで、ちょっと風が吹いたかなんでもぱらっと髪が抜けるん。

 ほいでまぁ兎に角、不安なから廿日市の方の病院にね行って見たん、行ったらあの、先生がいろんな本を見たりなんかしてもね、よう診てからこう診ても、「おかしーい」言うてから、「まあ兎に角、家であの安静にしとりなさい」、いうてから言われて帰ったの。

 そんであの、家でじっとしとったらね、あの、身体をこう見回したら赤い斑点がこう沢山出てるんです、ずぅっと全身に出てるんです。ほで、そ、こう、押えて、手で押えてから擦りゃ白うなるん、で、ちょっと離したらまた赤く出る。

 そうしよるうちに母なんかが心配して近所の人やなんかに聞いたりなんかしたりすると、まぁ、五日市とか草津とかね言うような所で、あの髪が抜けてから赤い斑点がよう出てね、ほで,それが元でから死ぬる人が多い、ほで、あれがぁあの、鼻血が出たらもう終わりじゃ言うて、言うのを聞いたもんですからね、ほんで、聞いて不安な気持ちでおったらね。

 次の日に一晩寝てから、次の日になってからね、朝見るとあの、ちょっと起きゅ~うか思うて見ると、あの鼻血がたらたらっと出るんです。ほで、鼻血が出る、これはもういよいよ来たかのうと思うてからね、、。


その18 音声を聞く

 十六日に子供が亡くなりまして、防空壕の中でね、主人がそれこそみかん箱ひらって来ましてね、そしてそこに寝かせて、ていってそして二人で一生懸命お経をあげて、そして主人がそれをこう抱えて出ましてね。

 もう「いまからあの火葬して来る」って言うて出かけて行きますのが、私が、まだ死んだばかりでしょう、なんかこう「ちょっと待って下さい」、ていうても、「火葬ばするってちょっと待ってください」というような気がして、箱にちょっとついて行きたくて立ち上がったんです。
 そうしたら、自分が歩けたわけですね。歩けないとばっかり思っておりましたの、やっぱり、こう、あっ、自分は歩けるんだって思って。

 そしてその時に、出てしばらくして主人がこうしてまだ熱い遺骨をそれこそ手のひらに持ってきましてね、で、「****を焼いてきたぞぅ」いうてから、「あぁそうですか」いうてぇ、「これだけになったんですかぁ」というようなことで、、、。


その19 音声を聞く

 遺骨が17日に市役所へ回ってまいりました、とずいて《届いて》おりました。

 それでもうこれは、私がボヤッとしますと、子供は沢山いるし食べ物は不自由だし、主人は亡くなるし、本当に途方にくれたようになにしておりましたら、私の郷(さと)の兄達が「あんたしっかりせんにゃ、つまらんよ。あんたがしっかりしてこれだけの子供の面倒を見てやらんなきゃ、あんたならんのじゃから、しっかりせんにゃいけん」言うて私を叱りつけましてね。

 ほてハッと私も全くそうじゃね、私がしっかりして、いなければ、これだけの子供の面倒みることができない言うて私自身がその時気を取り戻しましてね。

 そうしてそれから私の性質がちょっと、女でなくて、男のような性質に。なにさま子供が多いんですから。父親と母親の二役をしなければこれだけの子供は育てる事は出来ない思いましたから。そういう気持にこう変わっていったんです。だから、少しきつかったです、私は。

 だから子供が言うんですよね。「お母さんは、もし、お母さんが気の小さいお母さんであったら、自殺しているかもわからないね、子供が多いかったから。でも、お母さんは気が強かったねえ」


その20 音声を聞く

 私の娘も時間経つにつれて、顔半分が、粟粒ほどのできもんが出て、妻の母も同じく黄色い粟粒が出て、以後、食事、茶水、受けつけぬ状態となり、17、8月17日と18日に死亡しました。長崎の警察官が出張して来て、検診証明を発行して下さいました。

 死体は爆風で皺くちゃになったトタンを、皺を叩き伸ばして、その上に家族3人を並べて布団を着せて疎開用材木を積み上げて合掌して長時間で焼き、友人宅の箪笥の引き出しの板を外して、骨入れに、の箱を作り、3人分一緒に入れて田舎の兄弟の墓地を借りて葬り・・・。

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