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広島・長崎の被爆者の声(1) (7枚目のCD)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2006/7/14 0:40
kousei  管理人   投稿数: 4
 
このCDは9枚組の7枚目で、広島・長崎の被爆者の声(1)が記録されています。これには36の音声記録が収められていて、それらのテキスト化されたものがここにはアップされています(便宜上10記録毎に分割されてアップされています)。どのような内容の記録かを示すために途中に以下のような伊藤明彦氏の短いコメントが入っています。参考にされると便利です。各記録の音声は「音声を聞く」をクリックすれば聞けるようになっています。もしテキストに脱落や誤りを発見された場合は、「感想の部屋」からお知らせいただくと幸甚です。
  


8月15日、無条件降伏を知った、広島と長崎 (その1)

8月の16日から9月上旬までの3週間、被爆者の身の上に起こったこと、被爆者の身の周りであったこと 広島・長崎 (その16)



なお、テキスト化された記録を読むには、

1)CD1枚分の全てを一望するには、「フラット表示」で読むことをお奨めします。見ている画面の左上の「フラット表示」をクリックすると「スレッド表示」から「フラット表示」に変わります。

2)記録のスレッド(コメントツリー)は時間的に降順になっています(下から上です)。これを昇順(上から下)にして読みたい場合は、「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」のメインメニューの下部の「ソート順」で「降順」を「昇順」に変更して送信を押してください。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/7/14 11:19
kousei  管理人   投稿数: 4
 
その1 音声を聞く

8月15日無条件降伏を知った広島と長崎


その2 音声を聞く

 朝からおかしいんですよ、そこいらの様子がね。向うの方の山からね、背嚢背負った兵隊さんが、あ、5人10人と一列になってとことことことこ下りて来るんですよ。あっちからも下りて来る。長崎はこうね、四方山ですから、四方って、山ですから。そのうちにね、トラックに乗ったあのぉ憲兵さん、も、メガホンでね、わんわんわんわんなんか喚きながらね、通るんですよ、そいで、何て言ってるかはあの、聞き取れませんので、ただ声だけね、わんわんわんわん言って通るんですよ。

 そうすと、倅と「なんかおかしいねぇ」、「如何したんだろう」、「如何したんだろう」って言ってたんですよ。そしたら町から来た人が、あの、終戦って言うことを知らせてきたわけ、で、私達はもうラジオも持ちませんし、新聞は無論ね見られないし、町から来た人の話を聞くだけでしょう。「終戦ってよって、天皇様がラジオでね、みんなにあの話があった」っていうこと、ことがらだけ分かったわけですよね。

 そいで、主人にねそう言ったんですよ。「日本は負けたのよって、終戦になったのよ」って言ったら、「日本はやりそこなったなぁ」って言いました。それが最後。翌日死にました。


その3 音声を聞く

 「看護婦さんあんたぁ、あの、何処行かれたんですか?」言うんで、「私はね西町まで遺骨をひらいに行って、今から本部へ帰るところですが」、「はぁ、いまなんですのぉ、重大放送がありました、聴かれましたかぁ」。「いいえ私、聴かんかったですが、もうそんな時間でしょうよね、ある言うことでしたが」、「聴きましたがどうもあの雑音がはぁってよう分からんが何でしょうって、戦争もはぁこれまででしょう」って。「ほいじゃぁ勝ったんですか、負けたんですか」言うたら、「よう分かりませんわい」、ってからいうとったんですよね。勝ったのも半信、負けたのも半信。

 で、あたし本部に帰りまして、「今、ただいま帰りました」って言ったら、は、「あんた戻ったんかい、今重大放送があってのぉ、院長以下みんな泣いたとこよぅ」ってね言われたですわ。「あらそうですかぁ」。もう気が抜けたようになって何にもしたくないようになりましてね、「まあそうですかぁ」言うたぎり、もう言葉がなかったです。それが8月の15日の1時か2時頃だったでしょうかね。暑い盛りですよ、かっか、かっか、日が照ってねぇ。


その4 音声を聞く

 ぼろぼろの家の前で、も、聞いた時にはほーんと皆泣きましたね。あれは何と言う涙ですか、くやしいのと、まさか日本が負けわせんとおもっとったのが現実になったからですね、あ、やっぱり最後まで、一億玉砕と言うたでしょう。だからまさっかと思うとったのに悔しかったんですね。もうやっぱり泣きましたですよ、みんな男も女も。

 すと、その在郷軍人の人達は馬に乗って走って廻って、「嘘だ」って、「その知らせは嘘だ」って言うて廻った人もあったでしょう。だからどっちが本当かと言うようなことで迷った、迷ったと言うとおかしいけど、ほんと迷いましたですよ。これはうっかり信ぜられんぞてなことでね。
 いろんなことがこんがらがって、もう本当になんていうか今その当時のこと思っても、も、尋常な気持ちではなかった様に思いますね、当分の間は。


その5 音声を聞く

 直ぐわたしゃ家内のとこへとんでいって、「いよいよ日本も無条件ちゅう降伏することになった」いうて私が言うたら、家内が「もっとはようしてくれりゃ良かったんになぁ」、ひとくち言うたですよ。

 それからしばらくして、家内が私に「鏡を見してくれんかい」、言うたですね。わしは見せん方がええんじゃないかなぁ思うたんですが、たって本人が「見してくれ、見してくれ」言うもんじゃから鏡みしてやった。自分の顔が何とも言えん醜い顔になった。

 あれを見してから本人が非常に力を落としてですね、それから間もなしに死んだんですからね、ここに爆弾が落ちん前にこういうことをしてくれた方が良かったんじゃないかと、少し遅いよぅなぁと思いました。


その6 音声を聞く

 何でもう一週間戦争が早く済まなかったのだろう、そしたらせめて父だけでも生きてくれたのにと思ってね、悔しくて悔しくてね、もう本当にわんわん泣きました。

 だけど皆あの帰ってくるから、家の中はもうそれこそ喜びで一杯ですよね、で海軍の主計大尉なんていうのは、もうそれこそトラック一杯の物資を積んで帰ってきましてね。

 もう本当にこうなんと言っていいんだか、もう一週間早かったら、せめて父だけでも生きてくれたんじゃなかったかなぁと思うと、丁度八幡様の下だったんですけどね、その家から、もう足引きずり引きずり八幡様に登ってね、一人でわんわんわんわん泣きました。二時間位泣いたでしょうね。

 それでまあ、あによめが迎えに来てくれて、「みんなが心配してるから」っていわれてね、、、。


その7 音声を聞く

 「天皇陛下がお気の毒な」言う、言うてね、泣いた人もありますし、「あぁ負けたんかい」って、そしてその中学の先生はわんわん言うて泣かれまして、明けの日に死なれましたですがね。

 もうね、あ、どうでもえぇ言うような状態でしたね。主人はああようなですしね、夜は蚊、昼は蝿に攻められるのじゃからもう、戦争が負きょうが勝とうが、、、いう、まあ気持ちが大部分でした。


その8 音声を聞く

 宮城の前で泣かれたみんな、おんおん泣いちゃった人ばっかりのようですけど、私は全然負けたのがどうとも、そんなこと一つも悔しいとも悲しいとも、何とも思わなかったですね。もう打ちのめされたまんまですからねぇ、そこまで考えられなかったです、はぁ。

 夜寝てましてもねぇ、雨が降ってきたりしたらも、ずぶ濡れになりますからねぇ、あの、周りは何もないですから、ただこの座板と屋根があるだけです。雨がいっぱい漏ってきたり、あの、寝られないですよねぇ。

 まあ、うちの叔父も祖父もねぇ、あの、あれなんです、背中が痛むもんでね、うなるわけなんですよねぇ。まわりも皆そうなんですよ。こう聴こえますよね声、みなバラック建ててますから。

 で、朝鮮の人は「アイゴー、アイゴー」って毎晩泣かれるし、それからまたあの前の若い人なんか「日本刀で殺してくれ」いうて、あんまり痛いもんだから、で、うちのあの祖父もねぇ、「も、殺してくれ」いうんです。あのぉ、そら痛むらしいですよねぇ、あの、天ぷらの衣みたいなるんです。それでうじがたらたらたらたら流れるわけなんです。

 だから、そういう風な毎日ですから、ちょっと、敗戦言うてもぴんと来ないです。はい。


その9 音声を聞く

 そのぅ、敗戦じゃなかったけれど実にその姿がね、もう戦う者の姿じゃないですよね。そのぅ、薬はない、全身火傷で、ね、そして泣き叫ぶ子供、家は焼かれてね、もうすでに敗戦の極ですよ。だからまあ、君らはもう敗戦で悲しいけれど、これ以上苦しむこともないだろうと、ね、人間を苦痛にこれだけですねぇ、火傷をさせてね、これだけ死んでの戦争は勝つも負けるもないという感じはもうしてましたね。


その10 音声を聞く

 兵隊で五年も帰らずにいたもんだからね、このアメリカの、が結局上陸してきた場合に我々が捕虜になんじゃないかね、殺されんじゃないか、そういう、不安なことが、不安な気持ちが真っ先に自分達の頭ん中にありましたね。

 でも、よかったなぁと思ってね、内心はね、そんなこと言いませんよ。まだ、ねぇ、軍隊ん中にいるんだから、あぁよかったなぁなんて言ったらね、脅かされちゃうから、でも自分じゃあ内心ね、あぁこれでやっと生きられたのかなぁ、と思いましたよ、終戦の時。生きて帰れんかなぁと思ってね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/7/14 11:20
kousei  管理人   投稿数: 4
 
その11 音声を聞く

 司令部から通達が来ましてね、「将校全員集合せよ」と、しかもその服装がね、「下着から全部その替えてこい」ちゅうんですよ。兎に角、軍刀ですね。あの、念を押してあるわけですよ、「軍刀を持って来い、差して来い」と。

 それでねぇ、その我々も当時私なんかもまだ若いですからね、血気盛んな連中ですからね、そこで、「おまえどう思う?」ちゅうわけですね。「やあ、これはあのぉ、将校全員腹切るんだ」と。「そこでね、司令官が出てきて、お前らみんなその腹切れということなんだ」と。その兎に角下着から替えてこいなんちゅう事はね、滅多に無いことですからね。うん。

 それからあの、やぁ そりゃ、も、我々にまでは腹切れと言わんだろうけれども、兎に角、我々の前で司令官が腹を切るんだろうと、、、


その12 音声を聞く

 私とほかの若い看護婦さんと二人で宿直してましたら、後の看護婦がね、あのモヒ、これはあの麻薬ですけれども、それと注射器を持って集まってきたんです。それで、「もう日本が負けて捕虜になるのは恥ずかしいから、もう悔しいから、このまんま注射器を打ちあって、皆で死にたい」って言ってきたんですね。

 それで私はあの、「皆も死ぬことはそんなに早まってはいけない」って、で、「いま広島では戦争が終わったんじゃなくて、ほんとに原爆で戦争が始まったと同じ事で、あの、こんなに患者さんが沢山いて、みんなが、の手が一人でも欲しい時にそんなことをしたら、誰だって喜ぶわけでないから、も、死ぬことは何時でも死なれるんだから、兎に角、いま目の前の患者さんのこと看護するのが一番のみんなの務めなんだ」っと言うことで、あの、励ましましてね、思い、思いとどまらせたんですけれども。

 あの、その当時て言うのは、あの兎に角あの、私は今でも戦陣訓のその一条と言うのはすらすらと言われるんですけどもね、「生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ」って言うのは、もう捕虜になることは絶対その、いけない事で、敵に捕虜になったら、返されても、自決すれって言うの、これはもう軍隊の常識だったわけですね。

 もうほんっとに私共は小さい時から、あのぉ死っと言うものを美しいものとして、天皇陛下のために死ぬことが最高の名誉で美しいことだっていう風に思い込まされてきてましたからね。


その13 音声を聞く

 所謂、玉音放送というのを聴いた時にはね、やっぱり、もうガックリときましたけれどもね、日本は負けた,負けたらどうなると言うようなそう言う考えの前にね、はぁー、こいでもうほんっとにあの空襲警報から解放されるかぁーなんて言うようなことでね、人には言われないようなね、そういう感じを受けましたですね。ほんっとに、もうなんかホッとしましたねぇ。

 あんまりもう、そのなんか原爆の印象が強くてですね、右を向いても左を向いてもね、寝ても覚めてもね、そういうものの中に浸ってるわけでしょう、ね、ですからね、もう息苦しくて息苦しくてたまらない訳ですよねぇ、だからねぇ、もうその、あのもう防空頭巾をほんとに空に投げ上げましたもの。私、嬉しくて。


その14 音声を聞く

 「まぁーうち良かったー」、私が言うたら、その近所のおじさんがね、「あんたええことあるもんの」、「どうしてぇ、おじさん」言うたら、「今度終わったらみんなその殺されるんよ」いうちゃったけん、「殺されるん?」私が言ったら、「そらそうやの、あんたこんだ敵、敵じゃったけ殺されるようの、中国でも一杯殺しとるんじゃけん」言うてね。

 「まぁ怖いね」って私がいうたんですよ、で、「どうして殺すん」言うたら、田舎のおじさんがね、「おじいさんがね、近所の人がその皆を並べてね、日本刀で首を切る」言うて。「ほいじゃったらあんた日本の人口の人あれだけの人口をね、並べたらすごくあんた短刀いや日本刀もいるしね、手でねその人を打ち殺すいうことは出来んじゃないね刀で」って、私が言うたら、「いや、そら、あらゆることをして殺すよ」言うてじゃって、「まぁほんと」っていうたことがあるですけどね、

 で、私は終わって嬉しかった。で、学校へ行けるいうはええがね。私はほんとに嬉しかったですよ。ほいじゃもう夜も空襲はないし、家もあかるう電気つけられるんじゃね言うたら、そうじゃいうことでね、非国民じゃったんでしょうよ、じゃけん、その当時で言うたら。嬉しかったんです。


その15 音声を聞く

 そいで父が怪我してまして、なんともなかったんですけども口から血を吐いて15日に亡くなったんですけどね、で、近所の学校みたいな所に連れて行ったんですが、ま、そこはもう長崎医大のね、あの、人達が来てたんですが、もう先生も患者もないんです。みんなもう、裸やら怪我やら、も、もう臭気がねぇひどくて。

そいで「亡くなったから」って言ったら、「そこに置いて行ってくれ」っていうんです。だから「もっとどうにかした所に」って姉が頼んだんですが、あの「もう一人、一人か二人ね、死ぬ人がいるから、勿体無いから、木が、それまで待たなきゃ焼けない」ってことで、それで野ざらしだったんです。毎日そこへあの、治療に行くたんびに、父を見るのが辛かったですね。

 
その16 音声を聞く

八月十六日から九月上旬までの三週間、被爆者の身の上に起こったこと、被爆者の身の回りであったこと、広島、長崎。


その17 音声を聞く

 丁度、終戦の翌日やったんね、それがね。手をちょっと頭にやるとぱらぱらっと髪が抜けるんですよ。ほで、ちょっと風が吹いたかなんでもぱらっと髪が抜けるん。

 ほいでまぁ兎に角、不安なから廿日市の方の病院にね行って見たん、行ったらあの、先生がいろんな本を見たりなんかしてもね、よう診てからこう診ても、「おかしーい」言うてから、「まあ兎に角、家であの安静にしとりなさい」、いうてから言われて帰ったの。

 そんであの、家でじっとしとったらね、あの、身体をこう見回したら赤い斑点がこう沢山出てるんです、ずぅっと全身に出てるんです。ほで、そ、こう、押えて、手で押えてから擦りゃ白うなるん、で、ちょっと離したらまた赤く出る。

 そうしよるうちに母なんかが心配して近所の人やなんかに聞いたりなんかしたりすると、まぁ、五日市とか草津とかね言うような所で、あの髪が抜けてから赤い斑点がよう出てね、ほで,それが元でから死ぬる人が多い、ほで、あれがぁあの、鼻血が出たらもう終わりじゃ言うて、言うのを聞いたもんですからね、ほんで、聞いて不安な気持ちでおったらね。

 次の日に一晩寝てから、次の日になってからね、朝見るとあの、ちょっと起きゅ~うか思うて見ると、あの鼻血がたらたらっと出るんです。ほで、鼻血が出る、これはもういよいよ来たかのうと思うてからね、、。


その18 音声を聞く

 十六日に子供が亡くなりまして、防空壕の中でね、主人がそれこそみかん箱ひらって来ましてね、そしてそこに寝かせて、ていってそして二人で一生懸命お経をあげて、そして主人がそれをこう抱えて出ましてね。

 もう「いまからあの火葬して来る」って言うて出かけて行きますのが、私が、まだ死んだばかりでしょう、なんかこう「ちょっと待って下さい」、ていうても、「火葬ばするってちょっと待ってください」というような気がして、箱にちょっとついて行きたくて立ち上がったんです。
 そうしたら、自分が歩けたわけですね。歩けないとばっかり思っておりましたの、やっぱり、こう、あっ、自分は歩けるんだって思って。

 そしてその時に、出てしばらくして主人がこうしてまだ熱い遺骨をそれこそ手のひらに持ってきましてね、で、「****を焼いてきたぞぅ」いうてから、「あぁそうですか」いうてぇ、「これだけになったんですかぁ」というようなことで、、、。


その19 音声を聞く

 遺骨が17日に市役所へ回ってまいりました、とずいて《届いて》おりました。

 それでもうこれは、私がボヤッとしますと、子供は沢山いるし食べ物は不自由だし、主人は亡くなるし、本当に途方にくれたようになにしておりましたら、私の郷(さと)の兄達が「あんたしっかりせんにゃ、つまらんよ。あんたがしっかりしてこれだけの子供の面倒を見てやらんなきゃ、あんたならんのじゃから、しっかりせんにゃいけん」言うて私を叱りつけましてね。

 ほてハッと私も全くそうじゃね、私がしっかりして、いなければ、これだけの子供の面倒みることができない言うて私自身がその時気を取り戻しましてね。

 そうしてそれから私の性質がちょっと、女でなくて、男のような性質に。なにさま子供が多いんですから。父親と母親の二役をしなければこれだけの子供は育てる事は出来ない思いましたから。そういう気持にこう変わっていったんです。だから、少しきつかったです、私は。

 だから子供が言うんですよね。「お母さんは、もし、お母さんが気の小さいお母さんであったら、自殺しているかもわからないね、子供が多いかったから。でも、お母さんは気が強かったねえ」


その20 音声を聞く

 私の娘も時間経つにつれて、顔半分が、粟粒ほどのできもんが出て、妻の母も同じく黄色い粟粒が出て、以後、食事、茶水、受けつけぬ状態となり、17、8月17日と18日に死亡しました。長崎の警察官が出張して来て、検診証明を発行して下さいました。

 死体は爆風で皺くちゃになったトタンを、皺を叩き伸ばして、その上に家族3人を並べて布団を着せて疎開用材木を積み上げて合掌して長時間で焼き、友人宅の箪笥の引き出しの板を外して、骨入れに、の箱を作り、3人分一緒に入れて田舎の兄弟の墓地を借りて葬り・・・。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/7/14 11:22
kousei  管理人   投稿数: 4
その21 音声を聞く

 ねぇ、こうタオルであのう暑いもんですからタオルでこうして頭、汗をこう拭いたんですよ。そうしたらそのう、こう髪の毛がこういっぱいついとうでしょう、ほんなん吃驚してですね、こう摘まんでこうして抜いたら痛いことも無い、ズブズブこう抜くる訳ですねぇ。ほれからもう吃驚してですねぇ、家に帰ったんですよ。

 それから、もう日増しにこう髪の毛がドンドン抜けていくですもんね。そして、もう身体がだるくなるわけですねぇ。そして顔色をこう鏡で見るともうどす黒くなってさ、もうなんかこう生気の無いとですね、もう。でえ、こういうところですな、ちょっとこう擦って、擦ってもですねぇ赤い斑点がポツポツ、こう出る訳ですよ。

 白血球が1100って言われたもんですね。それから10日間くらいずーと熱に浮かされてですね、肺炎とか何とかの熱やったら40度越したらもう、うわごと言うですけどね、熱があっても意識がはっきりしとる訳ですねぇ。

 歯茎から血がドンドンドンドンこんだあ出だしたですねぇ。拭いても拭いてもその、こう出るわけですよ。こんだあ、歯茎がもう化膿しだしてですねぇ、上顎なんかですね、親指のとくっと入るぐらい肉が腐れてこう取れるわけですねぇ。で、もう歯ももうグラグラになっしまうでしょう。ほんでもう、拭いても拭いても血はドンドン出るし、熱はもう40度6分はずっと続いてですなあもう・・・。


その22 音声を聞く

 8月の19日になって、すごい熱が出たんですねぇ、そいで喉痛くってですねぇ、あのう水も喉を通らなくなった。熱は40度を越したんですねぇ。

 ある病院に着きましたところがね、「長崎は何処におりましたか?」ってんで、銭座町におりました。「光はどうでしたか?」。玄関で。「あれば受けた人は大抵死ぬとさねぇ」、「はぁ?」って。私の髪の毛を引っ張るんですよ。「あれっ、おかしかねぇ、40度の熱があって銭座町で受けたとならあ、こらまあ死ぬ筈ばってねぇ」っていうんです。死ぬ筈無いじゃろうがもう、患者の前で死ぬ筈とはねぇ。そいで「2、3日のところが勝負でしょう。ひょっとしたら、2、3日の間にね、死ぬかもしれん」って言われましてね。


その23 音声を聞く

 これはおかしいな、と分ってきたのは、例えばね注射するとドンドンそこが腐っていっちゃうというようなこと、白血病をおこしちゃいますとねぇ、その注射したとこが腐ってきちゃうんですよ。

 それから、女子挺身隊の娘さん達なんかやっぱりいくら、酷い怪我してても髪の毛なんか気にする訳だからねぇ。こう、くしけずるでしょ、そうすとバラバラバラっとおっこっちゃうわけね、根元から。これは変だぞって言う事だから、だんだんこのう原爆症らしい症状ってのが分ってきたんですね。若い娘さん達が看護婦さんから「櫛貸して頂戴!」ちゅうて借りてね。髪くしけずった途端にバラバラッ、と毛が落ちた時の気持なんてのはこりゃあ、もう説明の要は無いと思いますがねぇ。

 中には、自分はあんまりその怪我もなんにもしてないからっつって、応援に駆けつけてくれたそういう女子学生なんかもいるわけですよ。ところがその当人が、ひょっとある朝顔を洗って、毛に触った途端にバラッとおっこっちゃう。そういうような事がまあ至る所で起きててねぇ。


その24 音声を聞く

 身体に全然あのう火傷(かしょう)も無い、ところが開けてみると脾臓はほんとにクニャーとなっとる。まあ要するに萎縮しておりますねぇ、肝臓でも萎縮しとる。

 それから骨髄でも、ドロッとした泥のような泥状のねぇ。えー当時始めは黄色髄の泥、黄色髄と言うよりもドロドロですよね。
そういう風な造血臓器に非常な変化がきとると。まあそういうことから考えるとねぇ、放射能に依るもんにもう間違いないと。

 顕微鏡的にはねぇ、えー毛は有るんですよ、まあ肉眼でも毛が有るんですよ。ところがねぇ毛根がやられとんです、もうすでに。毛根がやられておる事と汗腺、汗の出るね、あれもうみんなやられておるんですよ。表面から見たらわからないですよ、火傷(やけど)が無くっても。

 それから、まああのう睾丸の、ですねぇ睾丸の、あのう、ほんとならこう引っ張れば糸のようにひく、ですがねぇ、粘着性があって、そういうものも無い。要するに萎縮してしもうとんですよねぇ。

 したがってあの当時熱が出て、そして下痢をするというのがその後すぐおこりましたがね。汗が出ない、普通熱が高く出ると汗をかいて熱がちいとでも下がると。汗を出そうにも汗腺がやられとるですよね。

 それが、中間期になってくる、それから、だんだん脾臓がむしろ逆に大きくなってくると。赤くねぇ、それから骨髄でもドロドロのようなんがむしろ、あのう大人になると普通黄色髄になるんですが。黄色髄がドロドロのようになっとる。

 それが、中間期以降になると今度赤色髄と。要するにそこまで生きた人はなんとか、あのう造血機能発揮しようとする。それより逆に今度は白血病的に白血球がどんどん増えるというような、まあ時期に依ってうーんと・・・。


その25 音声を聞く

 今までなんとも無かった人が、髪の毛が抜けてくると。それから、皮膚に出血斑ですねぇ、あのう、紫色のはっきりした斑点が出てきますね。

 ま、そういう状態が始まってくるとねぇ、口の中に潰瘍が出来たり、歯茎なんかから血が出たり、という、いわゆる出血性素因て言いますけども。

 まあそういった状態であって、だんだんとこう熱が高くなってくると。平時の状態で言えば、顆粒細胞減少症という病気が有るんですけども、骨髄がやられて、血液が極度に冒されるっていう形の、病気ですねぇ。それで高熱が出て、まあ数日経てば亡くなると。ま、そういうような状態の患者さんが非常に多かったですね。

 ですから外傷と、いわゆる原子爆弾症ですか?原子病ですね。両方、雑居してた格好ですけども。やっぱり、原子病の方が圧倒的に多かったですねぇ。傍らから亡くなっていくんで本当にもう、憂鬱でしたねぇ。

 全くそのう原爆でのその治療の壁の難(かた)さって言いますかねぇ。痛感しましたねぇ。


その26 音声を聞く

 救護活動と、治療をしようというのも、にもう治療材料が無いもんだから。とにかく収容して、新興善小学校の1階、2階に、患者さんを寝せとっただけですね。なーんの治療材料も何も無い訳なんですから。

 で、完全に服を着てる人なんか殆ど無い。さあとにかく、覆ってるガーゼとかシャツとかそんなものを取るともう皮が、それに付いてベロッと剥げてくるようなもんですからねぇ。で、顔に布(きれ)を当てておるでしょう、その布をこう剥ぐと鼻がピィッと取れてくるし、耳がポロッと取れてくるんですからね。目を押さえておるガーゼを取ると目が出てくるんですからね、目の玉が。で、しばらくすると全部死亡ですね。

 で、一番もう私が残念に思ったのはもう鼻血を止めきらないわけなんですね。出血が止まらないわけなんです。というのは、もうそん時には未だ分らなかったんですけど。骨髄の破壊に依っての、止血機能そのものがもう壊れてしまっておるわけですから止まる筈が無いんですよ。だから、もうそれまでに軍医学校で、止血にはどうしたらいいこうしたらいいということを、習ってきとったけど、それをしとっても、もう殆ど役に立たないわけなんですね。

 どうしても鼻血が出だしたらもう、その翌々日ぐらいには必ず死亡してましたですね。もう情けないな、と思いました。そのう、今まで習ってきた医学が、これには全然、太刀打ちが出来なくなっている事をつくづく思いましたですね。

 受け付けた時に住所とか、名前とかそんなもん全然分らないし、遺族の方々が受け取りに来るという可能性も無いもんですから。うー、新興善小学校の運動場の隅に、井桁に死体を重ねてですねぇ、そしてガソリンをぶっ掛けて焼いたわけなんです。

 ほんとに申し訳ないと、思うんですけどねぇ、どうにもこうにもその時点において仕方が無かったわけなんですねぇ。新興善小学校の中に、そのまま遺体を置いておいても、こんだあ後から後から入ってくる人が、あー、収容がされない。

 
その27 音声を聞く
 
 あのう、講堂みたいな広い所にねぇ、居るわけなんですよ。もう、筵(ムシロ)ひいて夏の暑い事ですから、もうなんにも着ちゃあおりませんね、裸のまんま寝せられて。あっちもこっちも焼けたり怪我したりしてますもんですから。もう治療するのに大変ですよねぇ。

 ほいでなかなか火傷でも治りませんからね、とにかく、蝿はいますし不潔ですし、夏ですからね。そりゃねぇもうその広い患者の居る部屋にも蝿がブンブンたかりますんで、この痛い痛い言って寝てる患者さんのこの方からどんどんどんどん蛆がねぇ、もう湧いて出ますんですよ。そいで中へ入り込んどると物凄くあのう、うずくって痛いんですね。だから「痛い!痛い!」言われるからピンセットでもう、出せばもう出るわ出るわね切りが無いね、蛆虫が出ましたりしました。

 それからまあ火傷がこの、なんかお薬でも当てますのに、こう黄色な膿、爛れたこの汁みたいな一緒になりましてね、何とも言えない臭いがねぇ物凄かったですねぇ。

 そして不潔なそういう風な状態ですのであのう破傷風とか言うて、最も恐ろしいあのう病気がありますんですよ。そういう風な患者さんもいましてからね。

 まあ、とにかく、ほんと何ていうて言いから分りませんようでしたですねぇ。


その28 音声を聞く

 そこで40日おります、その40日間の辛いこと、もうどんどんどんどんもう何百人いう人が死んでいくんです。

 もうそれあのう付いとる人無かったんです、無かったもんですからね、火傷へみなもうね蛆がねぇ、もう、これぐらいぐらいの蛆が。まあ、見よう言うても見られやしません、あんな大きい。いっぱい湧くんです、それが。除(の)けても除けても。

 それをね、あのう、みんなであのう、落とすんです、あのう塵取りと箒で。で、イガッてんです、痛いから、火傷へ。もうここからここから、もう、みんな、もう、この方から、蛆がダラダラしとるんですもの、もう。ほんっと、もう。

 ほいで、それ、箒で、あのう、それを運動場へ持って出ましてその蛆を焼くんです。そうしてやれやれ蛆をみな落とした思うてもまたその夕方にまた湧いとるんです、次が湧いとるんです、また。

 そして、お産の人が2、3人ねぇ、こんな赤ちゃんが、生まれました、こんなんが。六月(むつき)とかいうんでしたがねぇ。このぐらいぐらいの赤ちゃんが出てきたんです、あたしゃ吃驚しましてねぇ。

 そして、それはねえ息の、「あら、まだねぇ、置いといてあげてください、未だ息があるんじゃから」言うてもねぇ、息があるのみな、はあ、連れて出るんです、焼き場へ連れて行くんです。ほいでそのまあ、赤ん坊は勿論、まあ死にます、そりゃあねぇ。酷(むご)いことです、ほーんとに。


その29 音声を聞く

 同じ病舎の中に、入れておきながら親娘が入っていると言うことは、どっちも知らない。で、私達も知らなかった。それで、それが偶然、えー同じ私共の8病棟におるということが分りまして。それじゃあ、これは親娘じゃないかと言うことでまあ2人とも非常に重症でしたが、もんですからねぇ、直ぐにあのう、ベッドを入れ換えさせましてねぇ、隣同士に、えー、ベッドを換えてあげたんですよ。

 ところが、ベッドが隣同士に来ましてもねぇ、もうとにかくそりゃあ酷(ひど)い状態で、えーもう手はもう殆ど火傷(やけど)でねぇ。その、娘さんと隣同士に寝て休んでおっても手も握れない。娘さんが、先に亡くなったと、私は記憶しとるんですが。

 えー、「お母さん!」「ひでこー」って両方から、それこそ微かな声で、呼び合いながら亡くなっていくんですよ。あーもうー...、あの姿を思い出すとねぇ。今でももう、胸いっぱいになってくる、ような感じですねぇ。

 そしてその夜だったでしょうかね、あのうお母さんも亡くなりましたけども。えー、間もなくその後を追うようにしてお母さんも亡くなるんですよ、ええ。


その30 音声を聞く

 「お水ちょうだーい、助けてちょうだーい、お水ちょうだーい、痛いようー、痛いようー」言うってねぇ。毎日毎晩、その呻き声ばっかりなんですわ。

 でも、酷(ひど)い人なんかどうしようもない、お医者さんも手のくだしようが無いような人も沢山ありましたねぇ。で、ボツボツボツボツ亡くなっていきました。

 その時には「お母さーん!、お母さーん!」いってね、言う人もあるし。みんなが「先生、先生」いうとったもんですから「先生、ありがとう、先生ありがとう、先生ありがとう」いってね、亡くなっていった子もおります。

 それからあのう、「お水が欲しいのよー、お水が欲しいのー、死んでもいいからお水くれー」いう人ね。その人なんかも間無しに死ぬる人なんです。考えてみれば死にましたけどね。そういう人にあのう、綿に付けてちょっと含ましてあげたりね。

 それからね、きまってあのう、誰か亡くなるとね、「アッ!アレがもう死んじゃったあ」言うってね、その周りの人が言うんですわ、そうすときまって、あのうまた近いうち亡くなるの。
 人が死んでいくと、周りの人、ものすごく寂しいんだろうなあーー言うような感じ抱いたですねぇ。

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kousei  管理人   投稿数: 4
その31 音声を聞く

 そしてね、「起してくれー、寝かしてくれ!」って言うの、とても大変なの、辛かったんでしょう。「寝てるのが辛いから起してくれ」って。でも、この辺みな、あのう、火傷されてますので持つところが無いわけ、で、頭の先をちょっとこう持ってね。あのう、起こしてあげるの。背中は全部焼けてらっしゃるの、グシャグシャだから。それで、あのう、起してあげましたらねぇ、ものの1分も経たない内に「寝かしてくれー」って。ほいで起してあげたり、寝かしてあげたりね。

 そんな、あのう、重傷者が亡くなられるっていうのは、まあ、私も、あれでしたけどねぇ。そこに3人兄弟の坊やがね、昼は、あのう、あのう、撃剣ごっこをやって遊んでどんどんしてたのがね、夕方パタッとおとなしくなっちゃったんですよねぇ。して見たら、それがね、あのう、死んでいるって。あら、どうしたの今坊やは大騒動をしてたのにねって。

 なんかこん度の爆弾に遭った人はね、こういう状態でみな死ぬみたいですよって言ってまして。で、みんながみな怖がりますしねぇ、いつ自分の番になるかと・・・。


その32 音声を聞く

 「痛いよ、痛いよ、痛いよ、痛いよ」言うて、暑いとか痛いとか言われてみなさん寝ていらしたんですけど、介抱の方もですね、色青ざめて、患者さんも亡くなられ、今度また付き添いをしていらっしゃる方も倒れられる。

 「おかしいね、この、お母さん、病気がおかしいね、付き添いした方がねぇ、患者さんより早く亡くなったらね、患者さんはどんななるんのやろうね、お母さん!」って言うてたら、お隣のお爺ちゃんがですねぇ、目からと耳からと鼻からと、あのう蛆が出てくるんですよね。あんまり可哀想だからピンセットでこうしてあたし取ってあげてたんですよね、「痛い!」って言うてあったから。

 ほたらもう、お母さんが「隣の人もいいけどねぇ、おまえ、お母さんにも蛆がね、えー、付いてるよ」って言いますもんですから、私、ひょっと腕を見ましたら、やはり火傷、ケロイドですかぁ。ああいう風な火傷、こうしてるのにですねぇ、やはり蝿を生んでるんですよね。その蝿をピンセットでもう、こんなして1つ1つ取ってあげてですねぇ、腕を扇いでやったりですねぇ。

 もう、そうこうしてる内に私も、自分の、身がですねぇ、もたなくなりまして具合が悪くなりましたけどねぇ。みなさん、やはり全部、全員て言う程、亡くなられましたんですよね、300人が。

 そのうちに、母と私だけが生き残ったんですよ。で、あ、もう、二人だけ生き残ったけどぅ、もう明日死ぬんじゃなかろうか、明後日死ぬんじゃなかろうか言うて。


その33 音声を聞く

 バケツでね、消毒液を浸してね、ガーゼを貼っていくんですよ。もうそれこそ廊下もトイレも全部患者が寝とるんですよ。でけ、それ全部、あのうリバガーゼを作ってね、貼って行くんですよ。それで一日掛るわけ。明くる日はそれを取っていくわけ、取っていった端からまた貼り替えるわけ。

 それから蛆が湧いて、傷から黴菌が入るでしょう。切断ですよ、こんだあ、手や足を。もうほんとに重症はね、もうほったらかしやったですよ。もう、蝿がいっぱいもぶれてねぇ、私ら通ったらパアー蝿がパアーと立ってね。ほいで、もう、通り過ぎたら蝿がまたシャーと寄って来る、蝿むぐれ。だから蛆がなんぼでも湧くんですよ。

 原爆症、が出るとね、あのう、下痢するでしょ。ほで、あのう、出血するんですよ。ほいで、もう赤痢じゃないか思うてね、隔離したんですよ。私らも赤痢なっても困るしねぇ、手、みなさんの手、あのう、世話が出来ないから。ほいけ、隔離してもそのままなるでしょう、気の毒でしたよねぇ、そんなのはねえ。原爆症でそうなっとんのにね、分らんからね、まだそういう時は。


その34 音声を聞く

 ううん、そらぁ、その日から治療ばっかりですよ、治療言いましてもあなた、衛生材料が、そう、充分に有りませんからねぇ。赤チン塗ったり、食用油を塗ったりする程度ですよねぇ。

 来て直ぐ亡くなる方もありますしねぇ、ほしてもう、どう言うてええか、狂騒状ですか?、あのう、おらんで、おらんだり叫んだりする人も有るし、ほいから、ただ黙って寝よっていつ死んだか分らんよな人も有りますしねぇ。もう全身火傷で手の付けようの無い人も有りますしねぇ。

 むしろ、中支の生活言うたらひどう、まあ、作戦が有れば、患者もドンドン帰って来よりましたけど。後先はひどう、そう、原爆みたいなこと無かったですから。内地の方が酷くて、あのう、野戦病院とか兵站病院の方が、そりゃあ、よっぽど、あのう、平穏でした。もう、そりゃあ、お話になりませんよね。ええ、地獄の絵巻ですよね。


その35 音声を聞く

 コロコロコロコロ死んでいくんですねぇ、みんなねぇ、黒板にね毎日、死亡者の数を書き入れるのにね、もう5人、6人て書き込むんですよね。ほいで、もう、一教室に3列か4列ぐらいにずーと布団並べて寝てますけどね、看護婦さんを呼びに行くんですよ、したら看護婦さんはね、ガーゼを1枚握って駆けて来るんですよ。そしてもうね「良い所行きなさいね!」ってぽっと掛けてやって、そいでお仕舞ですよね。

そうしている時に、妹も、とうとうそこで死にました。取りに来るのがねあのう、塵取車なんですね。一間丁度畳1枚ぐらいの、大きな、あのう、箱がこう上に付いた車なんですよね。して、あのう、おじさんこう引っ張ってね、そして、そういう塵取車が死体を運んでたんですね。空箱に妹がコトンと落とされた音をねぇ、あのう今でもほんと悲しいです。

 したら、もう、1回に十何人ぐらい、死体が有るんですよね、だからそれをポンポンポンポン積んで行って。したら最後にね、あのう、2才ぐらいかな、赤ちゃんがね、死んだんですね、そいで、その赤ちゃんが、一番上にもう山盛りなんですよ、だからもう積まなくていいなぁと思うのに、上にチョンと載せたんですよ。そしたら、綱も何も掛けないで行くもんだからね、動きだしたら落ちるんですね、赤ちゃんが。そしたらね、ほんと、あのう、今、お人形の頭を掴んで上げるような格好でポイとこう上げるんですね。あぁ、あの赤ちゃん、ほんとねぇ、着くまで何回落ちるかしらと思ってね、悲しかったですね。


その36 音声を聞く

 傷口、がまぁ、あのう、塞がらないお方がですねぇ、その「痛い!痛い!」と言うことを盛んにそのう、訴えられる、ね。おかしいなあ、おかしいなあと言うことでそのう、よく、まあ、みんなと見ましたところがですね、何か動いている物があるわけなんですね、それがあのう、やっと蛆だと言う事が分りましてですねぇ。

 まあ、最初のうちはあのう、お箸でピンセットを作って、1匹1匹出していたわけなんですけども。とてもそのう、お箸でそのう、取ってる間が、もう無くなって手に負えなくなったんですねぇ。そこでそのう、患者をそのう、抱きましてですねぇ、水道の蛇口の所まで連れて行って、そしてあのう、傷口にですねぇ、ホースの水をピューっと飛ばすわけです。そしてそのう蛆虫をですねぇ、吹っ飛ばす。

 まあ蛆虫はですね、単に傷口だけでなしにですね、瞼の裏に入ってしまうんですねぇ。こういう時はまああのう、瞼を裏返しにしまして、ホースを絞って、蛆虫を飛ばす、ということもあのう、もう何回となく有りましたですね。

 金沢のあのう、ですね、第四高等学校の数学の教授をしとられた、みやこしなんとか先生て言う方がですねぇ、あのう、当時一等兵星二つでですね、お入りになっとられたんですよ。で、私共は星三つでですねぇ、そのう、幹部候補生であのう、おりまして、私共のそのう、雑用をその、みやこし先生がやって下さったわけですねぇ。まあ、ところが私共はそのみやこし先生にですね、夜ですね、数学をあのう、好きな者が集まってですねぇ、教えて頂いたわけなんですよ。

 そのみやこし先生が、まあ、あのう、被爆されて、私達のそのう、中にお出でなったわけなんですけども。同僚がですね、夜中に回って居りました時に、みやこし先生がそのう、「候補生殿、候補生殿、水をください!」て言ってそのう、手を合わされたそうです。であのう、看病に当った候補生がですねぇ、先生に水を差し上げたんです。そすと「候補生殿、ありがとうございました!」と、いうことを言われたそうです。そしてまあ、あのう翌朝はですねぇ、あのう鬼籍に入って居られた、と。まあ言うこと・・・


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