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広島・長崎の被爆者の声(2) (8枚目のCDの1から10まで)

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kousei

通常 広島・長崎の被爆者の声(2) (8枚目のCDの1から10まで)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/7/14 11:27
kousei  管理人   投稿数: 2
 
その1 音声を聞く

 私のいとこの子がね、純心の二年生でしたかね、そこに挺身隊でいっていたんです。
 その子はね、髪がね、きれいにとれてしまうのね。そしてね、自分の死を予言しましたよ。
 私にね「おねえちゃん、私の髪をね、きれいに三つ組みしてくれ」っていうの。 できないですよね。ただ少し残ったのがチロチロってしているだけ、丸坊主ですものね。

 「どうして」っていったらね。「わたし、(わたしたちカトリックでしょ)、わたしね、マリアさまのところへ行くの、あした・・いや、あさって」って云いましたね。

 「だからね、マリア様のところに行くから髪をきれいにさばいてね、三つ組みにして行きたい」っていうんですよ。「だって、あんたの髪はないよ」って言えませんしね。「そうね、きれいにしてあげよう」っていって、まあ櫛でね。櫛でこうすると少し残っていたのも抜けてしまうんですよ。もう本当に髪をこうするでしょう。しただけ、ぽそっと抜けてくるんだから。

 そして、やっぱり自分が言ったとおり、あさっての日がきたら亡くなりました。マリア様の歌を歌って。そして静かに息を引き取ったんですよ。だからあの子は本当にそのまま天国のね、マリア様のこところに行っていると思います。
 「あらぁ、この子は自分が天国に帰る日を予言したね」って私たちは・・・・。


その2  音声を聞く

 今になって思いますと、まあ浦上地区の方が大半だったせいなのか知りませんけれども、騒いだり、暴れたり、というような患者の方は、ほとんどおられなかったですね。
 やはり、朝夕、必ず食事の前には敬虔な祈りを捧げるとか。原爆の洗礼を受けたこと自身を、やはり自分に対する試練という風にお考えになっていて、もう非常に敬虔な静かな闘病生活といいますか、そういうことをやっている方のほうが多かったんじゃないかと。

 それで夜回りに回りましても何か気味が悪いくらい静かな病室でしたねぇ。もちろん、あのうめき声といいますか、苦しさのために泣くとか、呻くという声はありますけども。
 それもその、耐えて、耐えて、耐えているんだけれども、どうしても声が出るという風な感じの声ですね。

 従順で医者の言うこと、看護婦のいうこと、非常に忠実に、非常に大人しく、言われたとおり聞いてくださった患者の方が大半だったようですねぇ。


その3 音声を聞く

 私の隣には、田川福松さんのお嬢さんのメリコさんというのが寝ていたんですね。ところがメリちゃんがですね、もう夜通しお祈りです。あの人うちの生徒で一年生だったんですね。小さなまだ13でございますよ。

 そのお嬢さんがですね。もうマリア様への「めでたし聖寵満ち満ちているマリア 罪人なる我等の為に、今も臨終の時も祈り給え」って、もうそればかり夜通しです。
 そして、あのこの血を吐くんでございますね。その血がまるっきり黒い綿です、血綿なんでございますね。それをギョッ、ギョッ、ギッヨッと吐いては「めでたし聖寵満ち満ちているマリア」って夜通し祈りです。

 それで電灯はございませんしね。それから光が一つもない真っ暗な中なんです。真っ暗ななかで祈りしてそして、あの死んでいかれましたけどね。
 苦しみを訴える人じゃなくて、みんな祈りの声なんですね。38名みんなそこで亡くなりましたけどね、その人達の最後のきれいなこと、まるっきり聖歌を歌いながら子供たちは死んでいくんですね。

 それをおとうさんやおかあさんが見るんでございますね。それで「ああ、娘は非常にきれいな最後を致しましてありがとうございます」という言葉を聞くんでございますね。

 私はもうとにかく長崎の信者のすばらしさには本当にあの、これはあの私の10年間の教育方針が間違っていなかった、これならばこそ、余計私たちは、それこそ、光を輝かしてあの・・・・


その4 音声を聞く

 トラックで顕微鏡積みましてね、それで衛生兵や看護婦さん連れて行って。そしてあっちこっちの防空壕の中にまだたくさん患者さん残っているわけですね。
 そういう人集まってきますから白血球数えてあげて、それで重そうな人は連れて行くと。まあ、そういうことをやっていましたけれどね。

 私が一番こう印象に残っていますのはね、あの浦上の天主堂ですね、あそこへ行きまして、20代前半くらいの女性だろうと思うんですけども、家族は全部死んだような話でしたけどねぇ。
 その人自身もう出血斑もう顔に出ているしね、もうそうは持つまいと思われるような人でしたけども、入院勧めたんですけどもねぇ、家族が死んだここで自分も死ぬんだと、どうしても離れないんですね。

 まあ、一般にあの辺の丘は、まあキリスト教信者の方が多くて、まあ丘に居る限りはイエス様が守ってくれるけども、出ちまうとだめだと、まあそういうような考え方が相当根強くあったように思いますけれども。
 その人は、まあいわゆる迷信とかねぇ、そういう風な感じじゃなくてですねぇ、父も母もここで死んだんだと、私も死ぬならここにいますと、ご好意ありがたいけども結構ですからと、実にはっきりしていましたね。それで泣いたりわめいたりするような人は一人もいませんしね、見事なもんでしたね。

 やっぱり宗教というものは強いものだなと痛感しましたね。あの当時の入院患者、外来すべての人がですね、死に際きれいだったということですね。嘆き悲しむっていうような光景は全然なかったですね。不平をいう人もいなかったなぁ。見ててね、非常に崇高っていう感じでしたね、みんな。

 これはもう長崎市の人がね、後々に至るまでね、誇っていい事実だと思いますね、私は。


その5 音声を聞く

 どんどんどんどん傷口が膿んでくるわけですね。で、あの表面だけでなくて、あの中身までこう膿んできて血膿がどくどくどくどく出るわけです。
 で、あのう首がもう動かせない、手も動かせない。で、足もちょっとやけどしています。で、仰向けに寝たままですね、手を胸の上にこう当てて、首も寝返りも打てない、足をちょっとこうひざを曲げて寝たっきりですね。

 で、夏ですし膿んでこうドロドロドロドロ流れ出す、だから包帯を日にして三度も四度も換えなければいけない。それが非常にまあ、父と妹が換えてくれたわけですが、あの非常に臭いんだそうですね。
 それから、あのう、換えるのに包帯をはがすのが、もう痛くてですね、しばらく、もう痛むわけです。で、夜も痛んで呻いて寝なかった。父が「男だろう、我慢すれ」ってもう叱り飛ばしながら包帯換えたりしてくれていましたがね。

 で、毎日その川原で死体を焼くんですよね。その煙が上がっているいう話が聞こえてくるわけです。で、自分もいつそういうことになるかなあーー思って心細い思いでしたがね。で、その心細いと同時に、それよりも、まずあの傷が痛む、走る、それがもう一番の苦痛でしたね。


その6 音声を聞く

 もう、そのときの治療は、今でも忘れません。
あの、このケロイドの上に薄皮が張るんですね。その薄皮が張ったら大体痛みが、まあ痛いことは痛いけど、その薄皮が張っているものだから黙って。痛いっていえば痛くないわけですよ。
 ところがその薄皮を病院にいったら「バッ」と剥ぐんですね。薄皮を剥がれるときがね、も、本当、この世の地獄でしたね、生き地獄。

 ああもう戸板にかつがれるときはいいけども、降ろされたまではいいけども、お医者さんがあの、ピンセットっていいますの、あれ見たら、いきなりまあ、ああ、何んと言うていいかね、もう本当、この世の地獄だねって。
 これを何時までこの痛みはあるんだろうかって、泣かないけどね、悲鳴を上げていましたよ。「ぎゃあ」とね。痛いんですよ。「バァ」と剥ぐんだから。みんな。先生が鬼みたい。


その7 音声を聞く

 座敷に蚊帳を釣って、寝せてもらったまんまでした。もう、足は腐るし、蛆はわくしですねぇ。
 私のすぐの妹になるのが5才か6才だったですけど「アンチは臭か、アンチは臭か」といって座敷にもぜんぜん来なかったんですよね。自分ではあまり臭いはせんとですけどね。

 それで私がやっぱり治ったのは、はじめまだ馬の油がよかとかいうんて、馬の油をつけてくれたりなんかしてたんですけど、そんなのも、もう範囲が広いもんだからですねぇ、間に合わんし。それからビワの腐れがいいだろう、茂木ビワ 俗にいう、あれの腐ったのがいいことも聞いてそれもしましたねぇ。
 柿の葉っぱとスルメと煎じて飲んだり、柚子とスルメと煎じて飲んだり、いろいろしました。

 しかし、一番飲みにくかったのは山桃の皮が一番飲みにくかったですよ。私は飲みきれなかったですなぁ。もう苦かうえに、イリイリイリイリ、口がいらつくわけですよね。
 これだけは私は飲みきらず吐き出したですけどね。
それから「酢」。酢も、もう、でもそのおばさんが荒療治ばかりしてくれてからもう、そうガーゼを、こうしてですね。薬をつけて。
 そうするとそのバリッと剥ぐんですよね。「あ、痛っ」で泣くでしょう。「なんが痛かっ」ってなんて怒られて、みてみるともう真っ黒に膿のようになるのがこってり出たですねぇ。


その8 音声を聞く

 麻酔もありませんで。そして「やめてぇ」「やめてぇ」「もう痛いからやめてぇ」っていって。
 もう軍医さんは「やめたらお前は死ぬぞっ」って。「もう、死んでもいいからやめてっ」。
 それほど辛い痛い思いをして。もうガーゼも不足していた時代でしたんで。使ったガーゼを洗濯して、土鍋で煮沸さして、それを私の傷口に、もう薬がないもんだから、食用油に浸して、割り箸で父が、その傷口に詰め込みました。
 
 それで昨日入れたガーゼを抜き出すときの爛れた肉がついてきて、もう皮をむしられる思いで、朝の来るのが辛かった、そういう思い、今も身震いします。


その9 音声を聞く

 「こんな苦しければ殺してくれ」っていうようなことをですね、いっておったです。
 全然その動けることできなかったわけですから。咳が出ていても、それを喉に痰が詰まって、それを自分の力で吐き出すことは出来ないっていうようなことで。
 2回ほど息が止まってですね。なんですか、もうあの世まで行ったっていうようなこともあるわけですね。

 その当時おられた、その病院の先生とか看護婦さんですね。また身内のものまでもいっていたけど、私が助かるというようことは誰一人としていっていなかったし、私自身ももう苦しくてですね、もう「殺してくれ」って言うようなことも盛んにわめいておったわけですから。
 ま、その間の苦しみっていうのは、本当に実際にそれにですね。あったことがない人は本当に知らないと思うんですね。
 その私の傷っていうのも、後ろから行って背中の方が全部、腰がバンドしていただけ残っただけで焼けているしですね、うつぶせに寝たっきりだったから胸のほうが全部床ずれでですね、傷だらけになっているし・・・・・


その10 音声を聞く

 早く言えば倉庫みたいなところでしょ。ただ、だから屋根があって柱がたっとるいうだけのとこですよね。
 それで私のおばあさんがねぇ、なにいうことなしに蚊帳もってでとったんですよ。蚊帳をおね。そしてその蚊帳が結局家でしてね。そして、あの薮蚊にも刺されませんしね。それで私も怪我しとりましても、蛆もわかんと済んだんじゃろう思うんですよね。

着るものいってもないですね。
 まあ背中が焼けとりますからね、着られもしませんしね。で、鍋釜ないですからね。で、何処からか缶拾ってきて、それで芋の茎やらね、なんかこう焚きましてね、昔のその、それこそ原始時代の生活ですよね。

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