広島・長崎の被爆者の声(2) (8枚目のCDの21から30まで)
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広島・長崎の被爆者の声(2) (8枚目のCD) (kousei, 2006/7/14 0:40)
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kousei
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その21 音声を聞く
母が気い利かしてですね、ベットの傍に全然鏡を置いて無かったんですね。自分でその姿を見たらつまらんと思ったんでしょう、気遣ってですね。
そいで、雨の降る時なんかは、雨戸を閉めるようになっていたんですね。で雨の日でしたけど、起きて、座って何となくこう横向いたんですね。そしたらそのガラス戸で映ったんです、自分の姿がですね。でも、その時のほんとにショックですね。
私はあのう、カトリックですから信仰の精神て言うんですか、もう与えられた使命だと思ってですね。どうせこれがあのう、私に与えられたね、神様の十字架だから忍んで行かんばつまらんなあ、と思ってですね。
その22 音声を聞く
鏡をですね、あのう、拾って見た瞬間が絶望的なんですね、もう目が両方こう下の方に下がっているんですよ、瞼が。
まあね狐みたいな顔になってしまいましてね、それでですね、見た瞬間私、鏡の、あのう切りっぱなしをポーンと捨てたんですよ。
まあ誰もそうだったでしょうけどねぇ。自分がこれだけ傷を負ってこの顔の傷をねぇ、世の中にこれから先ほんと晒して行かんばならんって、絶望感ですね。
24歳で原爆受けた当時はまあ花の盛りだったもんですからねぇ。まあ人並みの、人並みであったかはまあ分りませんけど、自分ではまあ人並みにあったろうって、まあ誇りを持って居ったんですよ。
それがもう一瞬にしてそんなしてもう、まあ不具者になった訳でねぇもう、うすい信仰でありながらもですね、ああほんとねぇ、もうこれを捧げなければね、な~んかのやっぱし自分にも償いがあったのじゃないかね、これを耐えて行かねばならん自分の、まあ神の摂理やら思し召しだったということもありましてですね。まあ、捧げるもののですねやっぱり人間の弱さ、やっぱし、夜になればしくしく泣くことも何回かありました。
その23 音声を聞く
その頃からボツボツあのう外へ出て、散歩しだしたんです。もう空襲も無いって安心感もあったでしょう。
で少しずつ目をね、こう押し開けながら、外の空気をつけて歩く習慣もつけなければ、あのういつまで経ってもね、元気出さなければいけないって言う事もあったんです。で散歩してました。
そのある日ねぇ、殆どねえ元気が出て歩いても目もフラフラするん言うことも幾らか少なくなってねぇ、やや元気が出た訳なんです。
そいでね、井戸端をね一生懸命こう井戸の水を覗き込んでたら、今日はもう物凄くねぇ、はっきり見えるんです、顔が。そいでねぇその顔がね、あのう顔かたちが綺麗に見えるんですねぇ、お化けになったような顔が。
ほんでその時のねぇ、あのもうほんとにその時こそね、もう絶対にこれからね毎日毎日良くなるんだって自信を取り戻しましたね。
もうほんとに絶対に死なないっていうような気がしましてね、その時に何だか自分でねぇ嬉しかったですねぇ。
その24 音声を聞く
医務室から帰って来る時に初めて、薄目を開けたら目が見えるんですねぇ、私の目が。
そいでなんのことはない、その学校の廊下をずうと歩いたところが、学校の廊下に鏡が有った訳ですよ。それ鏡ということが気が付かないでですね、随分向こうからですねひどい人が来るなーと私も見たわけなんです。
したらその向こうから来るんじゃなくて自分なんですね、それが。それでね吃驚してですねぇ、これが自分かと。
いやもう眉毛は無くなっちゃってるし、それから耳からですねぇ、この耳の柔らかいところから全部もう、真ん丸なっちゃってるんですから、パンパンなってるんです。それでそれにかさぶたを取って、それに油を塗ってるもんですから。その赤膚の出たですね、いやもうほんとにねぇ、見られない状態でしたね。
それで、その時にまあ私達よりも傷の軽い人達がですねぇ起きて、まああのその食事の世話だとか、その辺掃いたり片付けたりしてくれたまあ、戦友が何人か居るわけですよ。
そうしますとねぇ、そういう世話をしてくれた人がですねぇ、その翌日になると、その毛布が起きないんです。もう、この世の人じゃないんですよ。その傷の軽い人ほどそういう、結局見るに見かねて自分達でそのそういう世話をして呉れたんですけども。
それが、結果的にはその翌日は亡くなっとる、と。それが一人だけなら、あの人はっていう風に言いましたけれども。それがもう日を追ってですね、今日もだ、今日もだと言って。それでもう、私も・・・。
その25 音声を聞く
どっこも怪我しとらん、ほいから焼けてもおらんが、髪やぁこう抜けたわうちんとこ来たら「母ちゃん髪こうやっとると引き抜けるんじゃろうか?」言うて。
「こうやったら坊主になる」言うて。ほいで、あんた可笑しいなぁ、あんたはどっこも焼けとらんのにこうやったら髪が抜けるんが不思議ななぁ。
それよりもまあ血をえっと吐いたわ。3合ぐらい吐いたろうよ。綺麗な血よ、その血が。始め、鼻血が出るようけど、ほいでこう紙をこう栓をしちみち、栓をしたら今度ぁ口い出るけん、どうしようかいうけん、あ、とうとうしようが無いけんの、ここ金だらい置いてあげるけんの、金だらいこうやっとりんさい。
そしたら口からでも鼻からでも出るけん、出るときゃ出たら止まるけ。「ほいじゃがのう、うちは血が出るんじゃけん、どしても死ぬるかも分らんしなぁ」「死にゃせんやぁまぁ、血を出るだけ出しんさい!」言うて。出すんと死ぬるんと同じ…。6時なんぼかに死んだ。
その26 音声を聞く
いわおは火傷しとったけどですね、あきらの方はまあ傷は脇の下にちょっとこの辺、傷があって。
耳のところのちょっと切れとっただけだったですもんね。死ぬちょっと前にどんどん下痢してですね、あのう頭の毛も抜けてしまってですねぇ、弟の方はもう元気もんだったですからね。
痛かては言わなかったですよ。でもひどう堪えてですねぇ、22日の日にですね、亡くなったんです。それから一週間後の27日にあきらが亡くなったですもんね。
して、あきらはあのう言ってたですよ「具合の悪か時にはもうきちがいになるごとある」て。そしてひどうもう苦しがってですね「な~んて言われんとよ、もう僕はもう苦しか時はもう神経になるごとある」って言うてひどう苦しがりよったです。して歯茎なんかからも血が出てですねぇ。でこういう風な皮膚なんかもこう膨れてですねぇ、こう大きく膨れるんですよ、そこから血がこうもうね、噴き出すんですよねぇ。
その27 音声を聞く
そういう風でそのう血がそうして出ますでしょう、二人とも。だからあのう上の子供はお尻からも出てましたですもんね。
「むくむ」いうことは無かったんですけどね。なんしろ、この肌の色がもう、なんだか変な色になりましてね。そして食べ物も思うように食べられないんですよ、そういう風ですから。ほんだから痩せ細ってしまいました。
そして私がそんなのを、洗いに下が川だったもんですから。川にその27日の日ですけどね、それを下に川に洗いに行って、あがって来たら、上の子が亡くなっていたんです。
27日の午後1時頃でした。そしたら翌日にその弟の方がまたすぐ亡くなりました。妹も28日に亡くなったんですけども。そしたら長男が亡くなって、小さい子だけ助かった。
その28 音声を聞く
「お母さん、鏡見せてちょうだいや!」言うて。ほんで「鏡はね、何処いったかわからんのですよ」言うて見せたら自分で恐れるからねぇ、ほいで見せんように「鏡が無いんですよ、原爆で何処へ飛んだんかわからんのですよ」「ほうねぇ」言うてからね。
ほいでまあ、そのなりーその次のじゃから29日の朝ね、あのう「お母さんね、あのう今日だけじゃけんね今日限りじゃからねぇ、私しゃ先にね、参らしてもらいますから。お父さんもお母さんもね、後から参ってちょうだいよ」言うて。言葉はものすごうはっきりしとんです、ええ。
そいでねあのう、ほいであのう今日限りじゃ、今日限りじゃ言うてからあのう、さあ、自分に分るんか知りませんがね。
で、そういう風にこう言うた思いましたらね「お母さ~ん、嬉しいね~~~」言うてね。あのう「仏様が迎えに来てくれちゃったよ」言うて「嬉しいね~~~さよなら!」して言うてから死んでいきました。
その29 音声を聞く
5人の子供でもふたりは行方不明になったし、2人の子供死んでも遺骨を1人も拾わんし、七つなるの女の子が最後まで患うとったんですけども。
あれが8月末なったか9月初めなったか知りません、はっきり。死んで箱が無いで裏の方の家、潰れた所を箪笥の引き出し、拾ってその中で入れて学校の運動場のへりで焼いたけども。
やっぱりね、木が足らないし雨は降ったし半焼けしたのの骨、やあ、これどがんしようか私が朝早う行って、歩かれんのぶんのちんば足して歩いてみたら、骨が半焼けで子供が棒でこう突付きまわりようてから、この、そしたころが、今に考えると胸がちぎれるようにね、何処の国に行ったら我が子を会おうかなと思って。
いつまでも忘れよう思っても忘れられんし。行方不明のなって帰らんこともやっぱり死骸見んからあきらめることが出来ない訳ですよ。兵隊も何年経っても帰ってきたのこと聞くと。私の子供でも何処迷って居るんじゃないか、と。
その30 音声を聞く
8月の31日の夜ねぇ、もうこんだ、凄う嘔吐しだしたんですよ、兄貴のほうが。
ほいでもう、苦しい苦しいっていって七転八倒ですよね。そうこうするうちに、もうなんかひきつけみたいになっちゃって、朝方。それでもう死んじゃったんですよ。
ほで その死ぬるちょっと前に姉のほうもね、「傷が痛いよ、傷が痛いよ」言ってて、姉がちょうど1時間ぐらい前に死んで、そいで兄貴は、原爆症ですか、そいでもってあの、死んだんですよね。その死んだ時に、ま、黒いあれがいっぱい、こう体じゅうにあったんですよ。
ほいでこんだ親父も結局寝込んじゃったんですよ、体がだるいからちゅぅて。トイレ行きたいからちゅんで。ほぃでやっと歩いて、そこまで行ってトイレ・・するかしないかのうちに倒れて、親父が二日の日に死んじゃったんですよ。
こりゃ大変だ、もうみんな、ほら三人も死んで行くし、僕一人になっちゃうから、お袋だけでも生きて貰わなきゃ困るからと思ってね。まぁ、その頃になったらね、だいぶそうゆうあの黒い斑点が出たら死ぬるってゆうのが分かってきたわけですよ。
で、あの黒い斑点が出てるんじゃないのちゅて、こう見たらね、もうこのへんにこ(ぅ)黒い斑点、こうあるんですよね。
ま、僕も気が気じゃないわけですよ。そぇで、結局、まぁ六日の日に亡くなったんですよね、六日の夕方。で、そん時もやっぱりこういう黒い斑点がいっぱい出てて