原爆体験記(2)
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- 原爆体験記(1) <英訳中> (harto, 2006/10/25 12:02)
harto
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当時、教室が一階の運動場側の方(二宮金次郎の銅像の近く)でした。「西江、逃げよう!」と声を掛け、二人で窓から飛び出ました。火事のように燃えているその明かりで集まっていた児童達が泣き声であちらこちら散り散りに乱れ行った姿を忘れないで今も覚えています。西の裏門の方に行って見ました。空襲の時、南三篠《みなみみささ》町の方に行く人達が集まる場所でしたが、誰も見えなかったので、すぐ外に出て家の方に向かって駈《か》けました。市外電車路(芸備《げいび》)線の踏み切りを越え、三滝陸軍病院の前で左の竹やぶの小道を通って鉄橋の下を過ぎ、安芸《あき》女学校まで來た頃、夜明けのように薄暗くあたりの物や人影がぼんやり見え始めました。安芸女学校の校舎が道路の方に落ち倒れて通れないので、畑の方を遠回りして行きました。今、考えると暗い道をどんなにして其処《そこ》まで駈けて來たのか判りません。
後ろについて來た西江君が自分の「顔を見てくれ!]と言うので振り向いて見ると, ひたいにガラスの破片が刺さり込んで顔が血で塗られていました。その時私も何処か怪我《けが》をしたんじやないかと思いましたが、私はどんな外傷もなかったのです。ただ右側の肩が何か棒のような物で殴られたような痛みを感じるぐらいだったのです。
家に近付いた所で西江君の叔父さんが私に「お前の家族は川側の土手の方に行った」と声を掛けてくれました。土手の方には伯父さんが小さい小屋を作って家族がバラバラになっても其処《そこ》に集まるように言われていましたので、必死にそちらに駆けました。決められているように其処で家族と出会いましたが、その中に入ってからすぐ意識を失ってしまいました。時間がどのぐらい経ったのか判りません。意識が戻った時は夕立のような雨が降っていました。ふとそばに誰かが横になっているのを見ました。私が人事不省《じんじふせい=意識不明》になっていた間に伯父さんがそこに戻ってきたのです。衣服は身体の皮膚と一緖にボロボロの裸そのものでした。髪も焼けて無いし胸と両腕はずるむけ、顔は真黒でした。その日伯父さんは新天地の方へ用事があって行く途中で被爆《ひばく=放射線にさらされること》したのです。
午後四時頃、己斐《こい》国民学校で臨時応急診療をしていると言うのを知る人が聞いて來て、担架《たんか》に乗せて行きましたけど、大勢の患者が集まって来たので、患者を置く所が無いので二階に上がる階段でその夜を過ごし、翌日の朝三時頃に伯父さんは死亡しました。八月七日の午後、己斐国民学校の校庭で火葬《かそう》して遺骨を持って家族一緖に小屋に戻りました。
後ろについて來た西江君が自分の「顔を見てくれ!]と言うので振り向いて見ると, ひたいにガラスの破片が刺さり込んで顔が血で塗られていました。その時私も何処か怪我《けが》をしたんじやないかと思いましたが、私はどんな外傷もなかったのです。ただ右側の肩が何か棒のような物で殴られたような痛みを感じるぐらいだったのです。
家に近付いた所で西江君の叔父さんが私に「お前の家族は川側の土手の方に行った」と声を掛けてくれました。土手の方には伯父さんが小さい小屋を作って家族がバラバラになっても其処《そこ》に集まるように言われていましたので、必死にそちらに駆けました。決められているように其処で家族と出会いましたが、その中に入ってからすぐ意識を失ってしまいました。時間がどのぐらい経ったのか判りません。意識が戻った時は夕立のような雨が降っていました。ふとそばに誰かが横になっているのを見ました。私が人事不省《じんじふせい=意識不明》になっていた間に伯父さんがそこに戻ってきたのです。衣服は身体の皮膚と一緖にボロボロの裸そのものでした。髪も焼けて無いし胸と両腕はずるむけ、顔は真黒でした。その日伯父さんは新天地の方へ用事があって行く途中で被爆《ひばく=放射線にさらされること》したのです。
午後四時頃、己斐《こい》国民学校で臨時応急診療をしていると言うのを知る人が聞いて來て、担架《たんか》に乗せて行きましたけど、大勢の患者が集まって来たので、患者を置く所が無いので二階に上がる階段でその夜を過ごし、翌日の朝三時頃に伯父さんは死亡しました。八月七日の午後、己斐国民学校の校庭で火葬《かそう》して遺骨を持って家族一緖に小屋に戻りました。