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原爆体験記(1) <英訳中>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2006/10/25 12:02
harto  新米   投稿数: 0
 
 これは被爆體驗記第22集「ピカに灼《や》かれて」に掲載したのを又ここにに上げますが、再び思い出すのも話すのも辛い其の日の事です。「九死に一生を得る」という言葉もありますが、私こそこの言葉通り数多くの死線を越えて生き残って來たと思います。その一つが原爆投下時の事です。

 私の生まれ故鄕は廣島縣甲奴郡田總村(現總領町)です。私の幼い時父が病氣で亡くなったのでお母さんは親戚《しんせき》が住んで居る広島市に出て世話になりましたけど、いつまでも親戚の世話になるわけには行かないので、私を連れて再婚して呉の広で住んでいました。私の伯父さんの子は四人皆娘だったので、男の私を養子にしようとして連れて行きました。当時私が六歳でした。私が来るすぐ前一人の娘が病氣で亡くなったので、家族は伯父さんと伯母さん、一人の從姉《=年上の女のいとこ》と私、また二人の從妹《=年下の女のいとこ》でしたが、私が來てから三年後男の子が生まれて皆で七人家族でした。住所は広島市南三篠《みささ》町(現放水路)。伯父さんは古着屋とか色んな商売をして比較的豊かな生活を営んでいました。

 原爆投下の当時、私は十二才、三篠《みささ》国民学校の六年生でした。運命の八月六日は、午前0時二十五分空襲警報《くうしゅうけいほう》發令。(同二時十分警報解除) 睡眠不足氣味で迎えた朝は、雲一つないよく晴れた暑い朝であった。だが、學校に出發する頃に又警戒警報のサイレンが町中に鳴り響いたので學校に行こうかどうしようかもじもじしている時隣の友人西江有基(裵在文)君が來たので一緖に學校へ行きましたが遲刻でした。

 朝禮をしていたので正門からはいらないで裏門から敎室に入って座っていました廊下には高等科の上級生が週番の腕章をつけて歩いているのを見て、見つからないように背を低くして、机にすわって居ました。背が高い西江君の席は後ろの方に、私の席は一寸前の窓側でした。その時、突然「ピカッ」と目もくらむような閃光《せんこう=瞬間的に発する光》が走り、続いて「ドン」とものすごい地面に突き刺すような不氣味な音が足元を搖《ゆ》すりました。

 瞬間、「アッ、爆彈じゃないか!」と直感、平常防空訓練する時のように両手で目と耳を押え、口を開けて机の下にうつ伏せになりました。時間がどのくらい過ぎたのか、自分では二分位の短い時間と思いましたが、いつまでもそのままではいけないと思って頭を上げて見ました。するとまわりは真暗になっていて、早くも学校の前側の家には火がついて居ました。夜中の火事のように赤々と燃えていました。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/10/25 12:08
harto  新米   投稿数: 0
 当時、教室が一階の運動場側の方(二宮金次郎の銅像の近く)でした。「西江、逃げよう!」と声を掛け、二人で窓から飛び出ました。火事のように燃えているその明かりで集まっていた児童達が泣き声であちらこちら散り散りに乱れ行った姿を忘れないで今も覚えています。西の裏門の方に行って見ました。空襲の時、南三篠《みなみみささ》町の方に行く人達が集まる場所でしたが、誰も見えなかったので、すぐ外に出て家の方に向かって駈《か》けました。市外電車路(芸備《げいび》)線の踏み切りを越え、三滝陸軍病院の前で左の竹やぶの小道を通って鉄橋の下を過ぎ、安芸《あき》女学校まで來た頃、夜明けのように薄暗くあたりの物や人影がぼんやり見え始めました。安芸女学校の校舎が道路の方に落ち倒れて通れないので、畑の方を遠回りして行きました。今、考えると暗い道をどんなにして其処《そこ》まで駈けて來たのか判りません。

 後ろについて來た西江君が自分の「顔を見てくれ!]と言うので振り向いて見ると, ひたいにガラスの破片が刺さり込んで顔が血で塗られていました。その時私も何処か怪我《けが》をしたんじやないかと思いましたが、私はどんな外傷もなかったのです。ただ右側の肩が何か棒のような物で殴られたような痛みを感じるぐらいだったのです。

 家に近付いた所で西江君の叔父さんが私に「お前の家族は川側の土手の方に行った」と声を掛けてくれました。土手の方には伯父さんが小さい小屋を作って家族がバラバラになっても其処《そこ》に集まるように言われていましたので、必死にそちらに駆けました。決められているように其処で家族と出会いましたが、その中に入ってからすぐ意識を失ってしまいました。時間がどのぐらい経ったのか判りません。意識が戻った時は夕立のような雨が降っていました。ふとそばに誰かが横になっているのを見ました。私が人事不省《じんじふせい=意識不明》になっていた間に伯父さんがそこに戻ってきたのです。衣服は身体の皮膚と一緖にボロボロの裸そのものでした。髪も焼けて無いし胸と両腕はずるむけ、顔は真黒でした。その日伯父さんは新天地の方へ用事があって行く途中で被爆《ひばく=放射線にさらされること》したのです。

 午後四時頃、己斐《こい》国民学校で臨時応急診療をしていると言うのを知る人が聞いて來て、担架《たんか》に乗せて行きましたけど、大勢の患者が集まって来たので、患者を置く所が無いので二階に上がる階段でその夜を過ごし、翌日の朝三時頃に伯父さんは死亡しました。八月七日の午後、己斐国民学校の校庭で火葬《かそう》して遺骨を持って家族一緖に小屋に戻りました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/10/28 20:56
harto  新米   投稿数: 0
 伯母さんはB29を手をかざして見ながら「何かがキラキラ落ちている」と言う瞬間被爆したのです。右手で日をかざす為にチョゴリが上がった右の横腹が長く火傷《やけど》しました。長い間よく治まらなかったのです。韓国に来てすぐ男の子を産み(胎内被害者)ましたが、韓国に戻って九年間胸の痛みと呼吸の困難で苦労しましたが結局死亡しました。広島で生まれた従弟も幼い時被爆して、成長しながら両方の膝の関節が痛いし、胸の痛みと血痰《けったん》を吐き十九才の時亡くなりました。

 原爆投下の後、家族の死体を探してあちらこちらの空地で穴を掘って火焼していました。己斐《こい》橋のそばではむしろでかぶされた死体が並べられて蠅《はえ》がたかっているのを見ました。始めしばらくの間は死体を見るのも、死体を焼くその煙と臭いをかぐのが辛かったんですが、後はだんだん平気になりました。

 福島町の道路側の家で雑炊《ぞうすい》を配給していたので、もらって食べた事も覚えています。日時はよく覚えていませんが、被爆の後十日ぐらいすぎてかも知りませんが、三篠国民学校へ行って見ました。正門は閉じられて入る事は出来ず、ただ外から中をみると、基礎の石だけ残って校舎は無くなって荒涼《こうりょう=荒れ果てた》となった広場そのままでした。三十七年ぶりに広島へ行った時、母校三篠小学校に立ち寄り創立100しゅぅ年紀を戴きました。それに依れば爆風で校舎が倒れながら火がついて焼けたと言います。ですから私は校舎が倒れる前に窓から飛び出たので、爆心地より1.7kmの地點《ちてん》で被爆、木造校舍の下敷になる直ぐ前、奇蹟的に命をとりとめたのです。そして横川町の方まで行って市内を見ると、ビルのコンクリートだけところどころに残っているだけで家らしいものは見えませんでした。

 九月初,親方の同郷人と知り合いの人が話し合って帰国を急ぎましたけど、二百十日の時期を考えなかったのです。闇《やみ=正規のルートではない》の船で広島の呉から出航して北きゅうしゅうの或る港で一晩泊って翌日そこを立ち去って行きました。けれども、とても荒しい爆風雨の為に途中大島に着きました。ですが波止場に碇泊《ていはく=いかりをおろす》していた船と船が互いにぶつかって私が乗っていた船が壊れてしまいましたので大島で約一っか月ぐらいとどまりました。外の船で対馬《つしま》島にいって、対馬島から釡山《ぷさん=朝鮮半島の南東端に位置する港湾都市》に向かってきましたが,途中機関のこしようで三日三夜あんしようにぶつかりながら馬山《マサン=韓国の港湾都市》よりもずっと遠くに流れて、ある島に着きました。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/10/29 17:10
harto  新米   投稿数: 0
 兎に角有り難く感じるのは生きていると言うことなのです。もはや死んで世の中に存在しないはずですが、今まで生き残っているのは奇跡と思います。様々な人生の悩みの後,イエスキリスト様を個人の救世主と信じ心の安定を持ち、今はその教えに依って第二の人生と言ってもよいこの命果てるまで、望ましい事をする様に願っています。

 何故,原爆被害を話すとか、またそれを聞かなければならないのでしようか。その訳を話して私の被爆《ひばく=放射能の被害をうける》体験談をまとめようと思います。

 広島は世界で最初の被爆地です。被爆と言う悲劇の歴史は広島で十分です。二度と第二の広島が世界の中、何処にも有ってはいけませんね!「全世界非核化《ひかくか=核兵器の存在を許さない》]とか、「核兵器の無い二十一世紀」と言ったスローガンが掲げられていますが、世界の平和は、即ち,自分の平和なのです。そのために先ず核兵器の恐ろしさと被爆の悲惨な事を世界の人々に話し伝えなければなりません。被爆の体験者は勿論,広島に住んで居る人は、それを果たすアドバンテージがあります。

 だから広島と原爆,また広島の人と被爆の歴史とは切り離す事が出来ないように結ばれて居て、世界の何処に行っても広島の人と分かるとすぐその人から被爆の事を聞きたがるのです。ですから世界の平和の為に私達は「私は被爆の体験者じゃないので話せません」と言わないで、被爆の悲惨なことをよく知って話すようにしていただきたいのです。

 私は一九九八年の八月から二千二年十月まで,ブルガリアの首都ソフィアにあるブルガリア改革派神学院で基督教教理と古代ギリシャ語を教えていました。ブルガリアはユーゴと隣接した国です。車で四十分走ると其の国境に着き、また一時間半ぐらいなら充分にコソボへ到着します。一九九九年の三月からだんだんユーゴの情勢が悪くなる度に、ブルガリアの人達も緊張して二、三人集まっても戦争の事を話して居ました。そして学生達は私が原爆投下の当時,広島に居た事を知って,被爆の体験談を聞きたいと言うのでした。二千四年五月からは南アフリカのバドプラスにあるイムマヌエル バイブル カレヂで同じように基督教教理を教えていますが、やはり学生達は被爆の体験談を聞きたいと言うので,原爆被害のいろんな事実と戦争の恐ろしさを話しました。

 いま北朝鮮で核実験《かくじっけん=核兵器の開発や性能確認のための実験》をして問題になっていますが本当に残念なのです。

                      ー終-
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