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被爆體驗記 (3)

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harto

通常 被爆體驗記 (3)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/10/28 20:56
harto  新米   投稿数: 0
 伯母さんはB29を手をかざして見ながら「何かがキラキラ落ちている」と言う瞬間被爆したのです。右手で日をかざす為にチョゴリが上がった右の横腹が長く火傷《やけど》しました。長い間よく治まらなかったのです。韓国に来てすぐ男の子を産み(胎内被害者)ましたが、韓国に戻って九年間胸の痛みと呼吸の困難で苦労しましたが結局死亡しました。広島で生まれた従弟も幼い時被爆して、成長しながら両方の膝の関節が痛いし、胸の痛みと血痰《けったん》を吐き十九才の時亡くなりました。

 原爆投下の後、家族の死体を探してあちらこちらの空地で穴を掘って火焼していました。己斐《こい》橋のそばではむしろでかぶされた死体が並べられて蠅《はえ》がたかっているのを見ました。始めしばらくの間は死体を見るのも、死体を焼くその煙と臭いをかぐのが辛かったんですが、後はだんだん平気になりました。

 福島町の道路側の家で雑炊《ぞうすい》を配給していたので、もらって食べた事も覚えています。日時はよく覚えていませんが、被爆の後十日ぐらいすぎてかも知りませんが、三篠国民学校へ行って見ました。正門は閉じられて入る事は出来ず、ただ外から中をみると、基礎の石だけ残って校舎は無くなって荒涼《こうりょう=荒れ果てた》となった広場そのままでした。三十七年ぶりに広島へ行った時、母校三篠小学校に立ち寄り創立100しゅぅ年紀を戴きました。それに依れば爆風で校舎が倒れながら火がついて焼けたと言います。ですから私は校舎が倒れる前に窓から飛び出たので、爆心地より1.7kmの地點《ちてん》で被爆、木造校舍の下敷になる直ぐ前、奇蹟的に命をとりとめたのです。そして横川町の方まで行って市内を見ると、ビルのコンクリートだけところどころに残っているだけで家らしいものは見えませんでした。

 九月初,親方の同郷人と知り合いの人が話し合って帰国を急ぎましたけど、二百十日の時期を考えなかったのです。闇《やみ=正規のルートではない》の船で広島の呉から出航して北きゅうしゅうの或る港で一晩泊って翌日そこを立ち去って行きました。けれども、とても荒しい爆風雨の為に途中大島に着きました。ですが波止場に碇泊《ていはく=いかりをおろす》していた船と船が互いにぶつかって私が乗っていた船が壊れてしまいましたので大島で約一っか月ぐらいとどまりました。外の船で対馬《つしま》島にいって、対馬島から釡山《ぷさん=朝鮮半島の南東端に位置する港湾都市》に向かってきましたが,途中機関のこしようで三日三夜あんしようにぶつかりながら馬山《マサン=韓国の港湾都市》よりもずっと遠くに流れて、ある島に着きました。


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