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昭和10年生まれの自分史・2

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通常 昭和10年生まれの自分史・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/25 18:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
【昭和16年~19年】

【国民学校1年生】

 昭和16《1941》年、小学校の名称が国民学校に変わった。お米からお菓子まで、何でも配給制になって次第に物資が欠乏していった。空き地には「ひまわり」が増えた。食用油をとるためだった。私は満6歳になったが、この年12月8日、日本軍による真珠湾《パールハーバー》奇襲攻撃が行われ、太平洋戦争《注1》に突入した。暮れの12月26日には妹が生まれ、兄・姉・私・弟・妹の5人兄弟になった。

 昭和17年4月、私は荏原《えばら》(現品川)区立宮前小学校に入学した。
目をつぶるといまだに当時の光景が浮かぶ。色白の顔に縁無しの眼鏡、黒い髪をひっつめて後ろで丸く結っている。私の担任の田島先生だ。先生の後ろに低鉄棒《=低学年用体操の器具》がある。それが私の目の位置だったから私は背の低い生徒だった。列の一番前か二番目だったろう。1年生は全部で5クラス、1組と2組は全部男、4組と5組は全部女の子ばかり。私は3組で、唯一の「男女組」であった。「みんなで体操うれしいな、国民学校1年生」というような唱歌を歌ったのを覚えている。田島先生は私と入れ替わりに卒業していった姉の担任でもあったためか、殊更に私を可愛いがってくれたようである。

 注1 太平洋戦争  第2次世界大戦のうち、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと続く日本と連合国軍との戦           争の第3段階。1931年~1945年 日本の敗戦による終結まで15年間の戦争の一部。


【空襲体験記】

 空襲警報のサイレンが鳴ると押入《=ふとん等をいれる和室の物入れ》の襖《ふすま》を開け、床板を上げて床下の防空壕《ぼうくうごう》に潜り込む。土を掘って周囲に板張りをしただけの防空壕である。今考えれば何の役にも立たない防空壕であった。私の友達に「マコチャン」という女の子がいた。サイレント共に一人で防空壕に入った。近くに爆弾が落ち、防空壕の土が崩れてマコチャンは生き埋めになって死んでしまった。

 空襲も度重なるとあきらめに近い心境になるのであろうか。夜間に空襲のあったある日、警報が出ているのにもかかわらず、外にいる母親が私を呼んだ。「綺麗《きれい》だよ、見てご覧」と言われて夜空を見上げると敵機のB-29《アメリカ、ボーイング社製の大型長距離爆撃機》が日本軍の照らす探照灯を受けて飛んでいた。十字にクロスした光はB-29の飛行に合わせて動いていた。下から打ち上げる高射砲は高度を飛ぶB-29には届かず、爆発音と煙が夜空に漂っていた。

 ある日、私は空襲警報のサイレンが鳴っても一人で外で遊んでいた。突然、足下にバシバシバシッという音と共に地面に穴が空いた。機銃掃射である。あと1メートル私の方へ寄っていたらひとたまりもなかった。不思議と怖いと思わなかった。

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