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昭和10年生まれの自分史・2

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通常 昭和10年生まれの自分史・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/27 20:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
【昭和21~25年】

【疎開先から帰京、そして食糧難】

 昭和21年6月、1年3ヶ月の疎開生活を終え、帰京した。屋根が杉の皮のトントン葺き《トントンぶき=板や木の皮だけを打ちつけた屋根》、周囲は古トタンや鉄板張りで小豆色、室内はむき出しの土壁、天井板はなし、6畳・4畳半・3畳と台所、それでも6畳一間の納屋に住み慣れた私には、新居は眩《まぶ》しく輝いて見えた。
 東京は僅《わず》かながらも食料の配給制度があるとはいえ、遅配・欠配続きであった。魚の配給の知らせがあると、バケツを持って行列に並ぶのは私の仕事であった。目の真っ赤になった鰯《いわし》をバケツに入れて貰《もら》った。子供ながらに腐りかけているのが分かった。

 水っぽい、腐った臭いのするサツマイモも平気で食べた。駄菓子屋で売っていた干した柿の皮の、渋みを帯びた甘みを今でも思い出す。

 何よりも飢えた胃袋を満たすのが大変であった。間もなく疎開先から持ち帰った食料も底をついてきた。

 そんなある日、疎開先で貰ってきた小豆を煮て、その中に小麦粉を団子に固めて入れ、腹を満たしていた。何しろ台所と云《い》ったって外から丸見えである。間もなく風評がたった。「あそこのうちは汁粉を食べている。贅沢《ぜいたく》だ」。私の食べた「汁粉」の味はしょっぱかった。砂糖がないので塩で味付けをしていた。それでも外見は「汁粉」であったのは間違いない。

 

【人生の岐路】

 過ぎし日を振り返ると幾つかの「人生の岐路」に思い当たる。昭和23《1948》年春、私は私立中学の入学試験を受験し、失敗した。その結果区立中学へ進学した。もし、私立中学へ進学していたら、その後の私の進んだ道や交友関係が別のものになっていたであろう。

 中学を卒業して、間もなく半世紀の時が流れようとしているが、当時の親友(男女各3人)との付き合いはまだ続いている。私にとっては大事な友人である。私立中学へ行っていたら、男ばかりだったから、半世紀近くもお付き合いできた女性の友人など出来なかったであろう。

 これは単なる一例ではあるが、自分の過去を振り返ってみると「あの時こうだったら」と思える「人生の岐路」が幾つかあるのに気付く。最大の岐路は「敗戦」だと思う。

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