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昭和10年生まれの自分史・1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/1/24 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 この自分史は、下記、秋空さんのウゥブサイト「秋空の世界」より、ご本人のご了解を得て掲載させていただいたものです。

 http://akizora.blue.coocan.jp

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【昭和10年~15年】

【誕生の頃】

 私は昭和10《1935》年10月10日、この世に生まれた。父は埼玉《さいたま》県の農家の次男坊で、若い頃に東京の浅草に出て、靴の製甲(靴の底より上の部分を加工する仕事)職人になった。母親は浅草生まれ。その父親(私の祖父)は大酒のみで、ために若くしてこの世を去ったので、母親は一人っ子である。
 私は、大正14《1925》年生まれの兄、昭和4《1929》年生まれの姉に続く3番目である。姉と私の誕生との間に6年あるが、これは男児が水子《みずご=流産した胎児》で亡くなっているためである。
 今こうして自分の生まれた頃を振り返ってみると、まさに戦争に向かって進む様相が強い。

【九死に一生のあかし】

 そんな中、私が2歳を過ぎた頃の冬、大火傷を負った。
 屋内の暖房といえば、七輪《しちりん=土製のこんろ》に豆炭《=石炭の粉などを卵形に固めた燃料》を入れて暖を取るのが精々のその頃。私は姉のお下がりのオーバーを着て室内を這《は》い回っていたらしい。七輪の上には、やかんにいっぱいのお湯が煮えたぎっていた。畳が焦げないように厚い板が敷いてあったらしいが、私はそれを蹴《け》飛ばしたのだ。
 やかんが転げ落ち、私はその煮え湯をかぶった。分厚く着込んだ衣類を脱がせるのに手こずった様である。その間に幼い肌は熱いお湯にやられた。
 透明人間のように顔中包帯だらけで、目と鼻と口だけを出していた。わずかながら開く口から、母や姉が交代でカステラを丸めて押し込んだそうだ。その後は人前に裸で出るのが嫌で、プールや海水浴、果ては銭湯《=ふろ屋》まで嫌がった。だから水泳は苦手である。今でも私の首から胸にかけてケロイド状に痕跡《こんせき》が残っている。しかし、これはいうなれば私にとっての「九死に一生のあかし」である。


【紀元は2600年】

 「紀元は2600年《注1》、ああ一億の胸は鳴る・・」、今でもこんな歌詞とメロディを思い出す。そして5歳になったばかりの昭和15《1940》年11月の夜、親子連れ立って五反田へ花電車を見に行った光景を思い出す。市電、今はそこにはないが現在の都電、路面電車である。花や紅白の提灯に飾られていた。人々はこぞって、「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」と酔ったように叫んでいた。それは自発的な愛国心の表現だったのだろうか、それとも強制された、あるいは作られた愛国心だったのだろうか。時代は戦争へと進んでいく。

注1 紀元2600年  日本では 西暦紀元前660年を「神武天皇即位の年」をと定めて皇紀元年とした。2600年になる昭和15年には各種の祝賀行事が行われた

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/25 18:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
【昭和16年~19年】

【国民学校1年生】

 昭和16《1941》年、小学校の名称が国民学校に変わった。お米からお菓子まで、何でも配給制になって次第に物資が欠乏していった。空き地には「ひまわり」が増えた。食用油をとるためだった。私は満6歳になったが、この年12月8日、日本軍による真珠湾《パールハーバー》奇襲攻撃が行われ、太平洋戦争《注1》に突入した。暮れの12月26日には妹が生まれ、兄・姉・私・弟・妹の5人兄弟になった。

 昭和17年4月、私は荏原《えばら》(現品川)区立宮前小学校に入学した。
目をつぶるといまだに当時の光景が浮かぶ。色白の顔に縁無しの眼鏡、黒い髪をひっつめて後ろで丸く結っている。私の担任の田島先生だ。先生の後ろに低鉄棒《=低学年用体操の器具》がある。それが私の目の位置だったから私は背の低い生徒だった。列の一番前か二番目だったろう。1年生は全部で5クラス、1組と2組は全部男、4組と5組は全部女の子ばかり。私は3組で、唯一の「男女組」であった。「みんなで体操うれしいな、国民学校1年生」というような唱歌を歌ったのを覚えている。田島先生は私と入れ替わりに卒業していった姉の担任でもあったためか、殊更に私を可愛いがってくれたようである。

 注1 太平洋戦争  第2次世界大戦のうち、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと続く日本と連合国軍との戦           争の第3段階。1931年~1945年 日本の敗戦による終結まで15年間の戦争の一部。


【空襲体験記】

 空襲警報のサイレンが鳴ると押入《=ふとん等をいれる和室の物入れ》の襖《ふすま》を開け、床板を上げて床下の防空壕《ぼうくうごう》に潜り込む。土を掘って周囲に板張りをしただけの防空壕である。今考えれば何の役にも立たない防空壕であった。私の友達に「マコチャン」という女の子がいた。サイレント共に一人で防空壕に入った。近くに爆弾が落ち、防空壕の土が崩れてマコチャンは生き埋めになって死んでしまった。

 空襲も度重なるとあきらめに近い心境になるのであろうか。夜間に空襲のあったある日、警報が出ているのにもかかわらず、外にいる母親が私を呼んだ。「綺麗《きれい》だよ、見てご覧」と言われて夜空を見上げると敵機のB-29《アメリカ、ボーイング社製の大型長距離爆撃機》が日本軍の照らす探照灯を受けて飛んでいた。十字にクロスした光はB-29の飛行に合わせて動いていた。下から打ち上げる高射砲は高度を飛ぶB-29には届かず、爆発音と煙が夜空に漂っていた。

 ある日、私は空襲警報のサイレンが鳴っても一人で外で遊んでいた。突然、足下にバシバシバシッという音と共に地面に穴が空いた。機銃掃射である。あと1メートル私の方へ寄っていたらひとたまりもなかった。不思議と怖いと思わなかった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/26 8:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
【昭和20年】

【疎  開】

 昭和19年の後半になると、私の家の近所でも強制疎開という名の下に、家屋の取り壊しが始まった《=空襲の時延焼を止めるため密集地帯の家屋を取り除いて空地にした》。それと共に学童の集団疎開《注1》も始まった。私は3年生だった。ある日、担任の田島先生が我が家を訪れた。私を一緒に集団疎開に連れていきたいとのことだった。私は訳もなく大声で泣き出したのを覚えている。親と離ればなれになるのが嫌、先生や友達と別れるのが嫌で、どうしていいか分からなかったのであろう。先生は諦《あきら》めて帰っていかれた。

 昭和20年3月9日の夜、東京に大空襲があった。特別警防隊員として警報発令と共に家を出ていってしまう父は、その翌日、浅草へ救援活動で出動した。任務から帰ってきた父は、母に向かって「疎開しなければ俺《おれ》はもう知らないぞ」と言ったそうだ。空襲にあって焼けただれた遺体を隅田川から引き揚げると、また、下から遺体が浮き上がってきて、悲惨な光景だったようだ。

 父の一言で、離散を嫌がっていた家族も父の故郷を頼って疎開することになった。雪の降る寒い3月のある日だった。品川駅だったろうか、私は電車の窓から押し込まれ、京浜東北線の大宮駅まで超満員の圧迫に耐えなければならなかった。終点の大宮駅より手前の与野駅で降りた。とりあえず祖母方の親戚《しんせき》を頼って一休みするためであった。ここで目的地までは電車が通じていないことがわかった。借りたリヤカー《=自転車に付けたり人が引いたりして物を運ぶ二輪車》を父が引き、子供達はそれに乗った。雪が降りしきり、何かを被っていたように思う。やっとの思いで東武線春日部駅から4キロ程の父の実家にたどり着いた。

 注1 学童の集団疎開  空襲の被害を避けるため、縁故を頼る疎開がおこなわれたが、縁故の無い学童は集団    で農山村の寺社などに移動させた


【終  戦】

 昭和20年4月、私は埼玉《さいたま》県北葛飾《かつしか》郡堤郷村の村立堤郷国民学校4年生に転入した。都会と農村の学力差によるものだろうか、東京では中の上程度の学力だった私は、男女40人ほどのクラスでトップの成績だった。担任の女の先生に可愛がられたせいか、クラスメートからは「ひいきの疎開っ子」といじめられた。それでも近所のわんぱく共とは、一緒になって野球の三角ベースなどを楽しんでいた。

 ある日、わんぱく共と近くの川で遊んでいると、母親が私を呼びに来た。大事な放送があるから帰ってきなさいとのことだった。私は渋々6畳ほどの納屋を改造した家に戻った。すぐにラジオの前に正座させられた。間もなく聞き慣れない声が聞こえてきた。4年生の私には何を云っているのかも理解できなかった。突然、母が泣き出した。私には何が何だか皆目見当がつかなかった。あとで「日本は戦争に負けたんだよ」と母が説明してくれた。私には何の感情も起こらなかった。

 暫くして、家の側を走る日光街道を、進駐軍《=占領軍》の車が通るようになった。初めて米軍が通るという噂《うわさ》を聞いたとき、悪童共と一緒に街道沿いの家の庭に入り、垣根越しに怖々覗《のぞ》きながら車が通るのを待っていた。ジープや幌《ほろ=おおい》をかけたトラックが何台も通り過ぎていった。何日かすると悪童達は怖さが薄れ、道路端に出て車の進行を眺めるようになった。私は怖くて垣根越しに覗いていた。

 そんなある日、突然ジープが悪童達の前で止まった。私の心臓は早鐘を打つようだった。兵隊がジープから降りてきた。悪童の一人に何かをくれた。すると他の仲間が一斉に手を出した。それぞれに何かを貰《もら》っている。私は垣根越しに見える光景に憎悪を感じた。ジープが走り去ると悪童達は一斉に貰ったものを食べ始めた。チョコレートやチューインガムだった。それから後、悪童達はどこで覚えたか、ジープが通る度に「ギブミーチョコレート」と大声を上げてジープを追った。私にはとても出来なかった。だから、ひとかけらのチョコレートにも預からなかった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/27 20:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
【昭和21~25年】

【疎開先から帰京、そして食糧難】

 昭和21年6月、1年3ヶ月の疎開生活を終え、帰京した。屋根が杉の皮のトントン葺き《トントンぶき=板や木の皮だけを打ちつけた屋根》、周囲は古トタンや鉄板張りで小豆色、室内はむき出しの土壁、天井板はなし、6畳・4畳半・3畳と台所、それでも6畳一間の納屋に住み慣れた私には、新居は眩《まぶ》しく輝いて見えた。
 東京は僅《わず》かながらも食料の配給制度があるとはいえ、遅配・欠配続きであった。魚の配給の知らせがあると、バケツを持って行列に並ぶのは私の仕事であった。目の真っ赤になった鰯《いわし》をバケツに入れて貰《もら》った。子供ながらに腐りかけているのが分かった。

 水っぽい、腐った臭いのするサツマイモも平気で食べた。駄菓子屋で売っていた干した柿の皮の、渋みを帯びた甘みを今でも思い出す。

 何よりも飢えた胃袋を満たすのが大変であった。間もなく疎開先から持ち帰った食料も底をついてきた。

 そんなある日、疎開先で貰ってきた小豆を煮て、その中に小麦粉を団子に固めて入れ、腹を満たしていた。何しろ台所と云《い》ったって外から丸見えである。間もなく風評がたった。「あそこのうちは汁粉を食べている。贅沢《ぜいたく》だ」。私の食べた「汁粉」の味はしょっぱかった。砂糖がないので塩で味付けをしていた。それでも外見は「汁粉」であったのは間違いない。

 

【人生の岐路】

 過ぎし日を振り返ると幾つかの「人生の岐路」に思い当たる。昭和23《1948》年春、私は私立中学の入学試験を受験し、失敗した。その結果区立中学へ進学した。もし、私立中学へ進学していたら、その後の私の進んだ道や交友関係が別のものになっていたであろう。

 中学を卒業して、間もなく半世紀の時が流れようとしているが、当時の親友(男女各3人)との付き合いはまだ続いている。私にとっては大事な友人である。私立中学へ行っていたら、男ばかりだったから、半世紀近くもお付き合いできた女性の友人など出来なかったであろう。

 これは単なる一例ではあるが、自分の過去を振り返ってみると「あの時こうだったら」と思える「人生の岐路」が幾つかあるのに気付く。最大の岐路は「敗戦」だと思う。
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