昭和10年生まれの自分史・3
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昭和10年生まれの自分史・1 (編集者, 2007/1/24 7:49)
- 昭和10年生まれの自分史・2 (編集者, 2007/1/25 18:07)
- 昭和10年生まれの自分史・3 (編集者, 2007/1/26 8:36)
- 昭和10年生まれの自分史・2 (編集者, 2007/1/27 20:06)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
【昭和20年】
【疎 開】
昭和19年の後半になると、私の家の近所でも強制疎開という名の下に、家屋の取り壊しが始まった《=空襲の時延焼を止めるため密集地帯の家屋を取り除いて空地にした》。それと共に学童の集団疎開《注1》も始まった。私は3年生だった。ある日、担任の田島先生が我が家を訪れた。私を一緒に集団疎開に連れていきたいとのことだった。私は訳もなく大声で泣き出したのを覚えている。親と離ればなれになるのが嫌、先生や友達と別れるのが嫌で、どうしていいか分からなかったのであろう。先生は諦《あきら》めて帰っていかれた。
昭和20年3月9日の夜、東京に大空襲があった。特別警防隊員として警報発令と共に家を出ていってしまう父は、その翌日、浅草へ救援活動で出動した。任務から帰ってきた父は、母に向かって「疎開しなければ俺《おれ》はもう知らないぞ」と言ったそうだ。空襲にあって焼けただれた遺体を隅田川から引き揚げると、また、下から遺体が浮き上がってきて、悲惨な光景だったようだ。
父の一言で、離散を嫌がっていた家族も父の故郷を頼って疎開することになった。雪の降る寒い3月のある日だった。品川駅だったろうか、私は電車の窓から押し込まれ、京浜東北線の大宮駅まで超満員の圧迫に耐えなければならなかった。終点の大宮駅より手前の与野駅で降りた。とりあえず祖母方の親戚《しんせき》を頼って一休みするためであった。ここで目的地までは電車が通じていないことがわかった。借りたリヤカー《=自転車に付けたり人が引いたりして物を運ぶ二輪車》を父が引き、子供達はそれに乗った。雪が降りしきり、何かを被っていたように思う。やっとの思いで東武線春日部駅から4キロ程の父の実家にたどり着いた。
注1 学童の集団疎開 空襲の被害を避けるため、縁故を頼る疎開がおこなわれたが、縁故の無い学童は集団 で農山村の寺社などに移動させた
【終 戦】
昭和20年4月、私は埼玉《さいたま》県北葛飾《かつしか》郡堤郷村の村立堤郷国民学校4年生に転入した。都会と農村の学力差によるものだろうか、東京では中の上程度の学力だった私は、男女40人ほどのクラスでトップの成績だった。担任の女の先生に可愛がられたせいか、クラスメートからは「ひいきの疎開っ子」といじめられた。それでも近所のわんぱく共とは、一緒になって野球の三角ベースなどを楽しんでいた。
ある日、わんぱく共と近くの川で遊んでいると、母親が私を呼びに来た。大事な放送があるから帰ってきなさいとのことだった。私は渋々6畳ほどの納屋を改造した家に戻った。すぐにラジオの前に正座させられた。間もなく聞き慣れない声が聞こえてきた。4年生の私には何を云っているのかも理解できなかった。突然、母が泣き出した。私には何が何だか皆目見当がつかなかった。あとで「日本は戦争に負けたんだよ」と母が説明してくれた。私には何の感情も起こらなかった。
暫くして、家の側を走る日光街道を、進駐軍《=占領軍》の車が通るようになった。初めて米軍が通るという噂《うわさ》を聞いたとき、悪童共と一緒に街道沿いの家の庭に入り、垣根越しに怖々覗《のぞ》きながら車が通るのを待っていた。ジープや幌《ほろ=おおい》をかけたトラックが何台も通り過ぎていった。何日かすると悪童達は怖さが薄れ、道路端に出て車の進行を眺めるようになった。私は怖くて垣根越しに覗いていた。
そんなある日、突然ジープが悪童達の前で止まった。私の心臓は早鐘を打つようだった。兵隊がジープから降りてきた。悪童の一人に何かをくれた。すると他の仲間が一斉に手を出した。それぞれに何かを貰《もら》っている。私は垣根越しに見える光景に憎悪を感じた。ジープが走り去ると悪童達は一斉に貰ったものを食べ始めた。チョコレートやチューインガムだった。それから後、悪童達はどこで覚えたか、ジープが通る度に「ギブミーチョコレート」と大声を上げてジープを追った。私にはとても出来なかった。だから、ひとかけらのチョコレートにも預からなかった。
【疎 開】
昭和19年の後半になると、私の家の近所でも強制疎開という名の下に、家屋の取り壊しが始まった《=空襲の時延焼を止めるため密集地帯の家屋を取り除いて空地にした》。それと共に学童の集団疎開《注1》も始まった。私は3年生だった。ある日、担任の田島先生が我が家を訪れた。私を一緒に集団疎開に連れていきたいとのことだった。私は訳もなく大声で泣き出したのを覚えている。親と離ればなれになるのが嫌、先生や友達と別れるのが嫌で、どうしていいか分からなかったのであろう。先生は諦《あきら》めて帰っていかれた。
昭和20年3月9日の夜、東京に大空襲があった。特別警防隊員として警報発令と共に家を出ていってしまう父は、その翌日、浅草へ救援活動で出動した。任務から帰ってきた父は、母に向かって「疎開しなければ俺《おれ》はもう知らないぞ」と言ったそうだ。空襲にあって焼けただれた遺体を隅田川から引き揚げると、また、下から遺体が浮き上がってきて、悲惨な光景だったようだ。
父の一言で、離散を嫌がっていた家族も父の故郷を頼って疎開することになった。雪の降る寒い3月のある日だった。品川駅だったろうか、私は電車の窓から押し込まれ、京浜東北線の大宮駅まで超満員の圧迫に耐えなければならなかった。終点の大宮駅より手前の与野駅で降りた。とりあえず祖母方の親戚《しんせき》を頼って一休みするためであった。ここで目的地までは電車が通じていないことがわかった。借りたリヤカー《=自転車に付けたり人が引いたりして物を運ぶ二輪車》を父が引き、子供達はそれに乗った。雪が降りしきり、何かを被っていたように思う。やっとの思いで東武線春日部駅から4キロ程の父の実家にたどり着いた。
注1 学童の集団疎開 空襲の被害を避けるため、縁故を頼る疎開がおこなわれたが、縁故の無い学童は集団 で農山村の寺社などに移動させた
【終 戦】
昭和20年4月、私は埼玉《さいたま》県北葛飾《かつしか》郡堤郷村の村立堤郷国民学校4年生に転入した。都会と農村の学力差によるものだろうか、東京では中の上程度の学力だった私は、男女40人ほどのクラスでトップの成績だった。担任の女の先生に可愛がられたせいか、クラスメートからは「ひいきの疎開っ子」といじめられた。それでも近所のわんぱく共とは、一緒になって野球の三角ベースなどを楽しんでいた。
ある日、わんぱく共と近くの川で遊んでいると、母親が私を呼びに来た。大事な放送があるから帰ってきなさいとのことだった。私は渋々6畳ほどの納屋を改造した家に戻った。すぐにラジオの前に正座させられた。間もなく聞き慣れない声が聞こえてきた。4年生の私には何を云っているのかも理解できなかった。突然、母が泣き出した。私には何が何だか皆目見当がつかなかった。あとで「日本は戦争に負けたんだよ」と母が説明してくれた。私には何の感情も起こらなかった。
暫くして、家の側を走る日光街道を、進駐軍《=占領軍》の車が通るようになった。初めて米軍が通るという噂《うわさ》を聞いたとき、悪童共と一緒に街道沿いの家の庭に入り、垣根越しに怖々覗《のぞ》きながら車が通るのを待っていた。ジープや幌《ほろ=おおい》をかけたトラックが何台も通り過ぎていった。何日かすると悪童達は怖さが薄れ、道路端に出て車の進行を眺めるようになった。私は怖くて垣根越しに覗いていた。
そんなある日、突然ジープが悪童達の前で止まった。私の心臓は早鐘を打つようだった。兵隊がジープから降りてきた。悪童の一人に何かをくれた。すると他の仲間が一斉に手を出した。それぞれに何かを貰《もら》っている。私は垣根越しに見える光景に憎悪を感じた。ジープが走り去ると悪童達は一斉に貰ったものを食べ始めた。チョコレートやチューインガムだった。それから後、悪童達はどこで覚えたか、ジープが通る度に「ギブミーチョコレート」と大声を上げてジープを追った。私にはとても出来なかった。だから、ひとかけらのチョコレートにも預からなかった。