ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―
投稿ツリー
-
ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:18)
-
Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:22)
-
Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:25)
- Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:28)
-
Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:25)
-
Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:22)
- depth:
- 0
前の投稿
-
次の投稿
|
親投稿
-
|
投稿日時 2008/2/3 19:18
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
これは哈爾浜学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された露崎 亮治氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。
お互、学徒動員《注1》で繰上げ卒業となって慌ただしく南満各地に入営した。私は遼陽の三一八(さんいっぱ)部隊へ。内地教育のあと、昭和十九年九月、甲種幹部候補生《注2》 の軍曹でマニラに上陸して二十年十一月の投降までフィリピン・ルソン島での戦闘に明け暮れた。
編集者から、年も明けてから「ルソン島彷徨記でも書かないか」との強い要請があって、その気になった。福岡健一のように、とくに記録にまとめることもなかったのだが、ペンを取ると、九死に一生の、私の人生最大の過酷な体験ということからか、記憶をつぎつぎにたどって淀みがなかったのは、われながら不思議でさえあった。
逮陽の三一八(歩兵連隊)に入る
昭和十八年十二月一日、私は、一部の同期生や下級生とともに遼陽《りょうよう=中国東北部遼寧省の都市》の第三一八部隊(第二十九師団の歩兵連隊)に入隊し、第三機関銃(重機関銃)中隊に配属された。
入営に先立ちこの日の早朝奉天《ほうてん=中国東北部現在の瀋陽》で山崎操と同君の実兄の家に立ち寄って別れを惜しんだことを覚えている。この中隊の同じ班には22期の中野茂夫、23期の山口高良両君がいた。
他は建国大学、新京法政大学、旧制旅順高校の繰り上げ卒業者だった。教官は幹部候補生出身の少尉で二、三歳年上だった。
連隊長は緒方敬志大佐、師団長は高品彪中将と教わったが、顔は見たことがなかった。復員後に戦記物などで知ったところでは、お二人とも昭和十九年八月、グアム島で玉砕した由である。 この三一八は名古屋や岐阜県出身の現役兵が多く、精鋭を自負していた。特に目にとまったのは、中隊の入口に、連隊長の標語として「血を流すよりも汗を流せ」と大きく墨書した張紙だった。そのとおり日常の演習訓練は厳しかった。
毎日の主な訓練は、重機関銃の分解、組み立て、分解した機関銃を搬送すること(駆け足、匍匐《ほふく=腹這い》前進)、機関銃を馬の鞍に乗せること、そのほかに、馬の世話と馬屋当番があった。私は、学院でラクビー部にいたので、駆け足は大して苦痛ではなかったが、生来、不器用で機械を扱うのが苦手なので、機関銃の組み立て、分解が一番遅く、自分ながら、こんなことでは幹部候補生に合格できないと思っていた。
ところが、昭和十九年二月に受かったのである。理由は恐らく、採用規準が大幅に緩和されていたことと、下級指揮官を消耗要員として多数必要としていたためのようである。その後戦場に行って、下級指揮官もその判断力、決意と度胸が、部下をまとめ、部下の運命を大きく左右することを知った。
昭和十九年二月、三一八に動員令《出動命令》が下り、幹部候補生を除く連隊長以下、われわれの教官、助教官を含め、はとんど全員が南方戦線に派遣された。兵士たちの間では、ビルマ戦線に行くようだと語られたが、行く先はグアム島で、全員が玉砕した。
「人間万事塞翁が馬」のとおり、その頃戦況が悪ければこそ当然、われわれがその活路を開く任につくべきであると考える者が多かった。全力を尽くして万事、運命に任せるしかないという心境であったが、生きて帰れるとはつゆ思わなかった。
昭和十九年五月、私は京都府福知山市にあった甲種幹部候補生を教育する中部軍教育隊に入り、重機関銃中隊に配属された。候補生は、関西の大学(京大、同志社大、関西大等)の出身者が多く、訓練は関東軍ほど厳しくはなかった。重機関銃の取扱いは皆上手になっていた。
この教育隊の速射砲中隊には、同期の工藤精一郎、23期の久津見功君、小銃中隊には22期の合志洋、原口譲二、胡井久夫、平松(旧姓、中里)清治君がいた。ただし、教育訓練は中隊単位で行われたことと、追いまくられて、互いに懇談したり、交流することはほとんどなかった。
そして七月頃に全員が軍曹に進級し、八月四日に仮卒業し、一部の者は国内や満洲《注3》に転属を命じられたが、私や合志、原口、胡井、平松の諸君はフィリピンの第四航空軍に転属となり、とにかく本部のあるマニラに行けと命じられた。
つづく
注1
1943年(昭和18年)大学高等専門学校の文科系学生に対し3ケ月の繰上げ卒業を行い軍隊に徴兵した 又の名を学徒出陣ともいう
注2
陸軍では初級士官を補う為、予備役将校の養成に甲種(将校)乙種(下士官)の2制度があり、甲種は予備士官学校での教育後初級士官に採用した
注3
1032~1945年 中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
お互、学徒動員《注1》で繰上げ卒業となって慌ただしく南満各地に入営した。私は遼陽の三一八(さんいっぱ)部隊へ。内地教育のあと、昭和十九年九月、甲種幹部候補生《注2》 の軍曹でマニラに上陸して二十年十一月の投降までフィリピン・ルソン島での戦闘に明け暮れた。
編集者から、年も明けてから「ルソン島彷徨記でも書かないか」との強い要請があって、その気になった。福岡健一のように、とくに記録にまとめることもなかったのだが、ペンを取ると、九死に一生の、私の人生最大の過酷な体験ということからか、記憶をつぎつぎにたどって淀みがなかったのは、われながら不思議でさえあった。
逮陽の三一八(歩兵連隊)に入る
昭和十八年十二月一日、私は、一部の同期生や下級生とともに遼陽《りょうよう=中国東北部遼寧省の都市》の第三一八部隊(第二十九師団の歩兵連隊)に入隊し、第三機関銃(重機関銃)中隊に配属された。
入営に先立ちこの日の早朝奉天《ほうてん=中国東北部現在の瀋陽》で山崎操と同君の実兄の家に立ち寄って別れを惜しんだことを覚えている。この中隊の同じ班には22期の中野茂夫、23期の山口高良両君がいた。
他は建国大学、新京法政大学、旧制旅順高校の繰り上げ卒業者だった。教官は幹部候補生出身の少尉で二、三歳年上だった。
連隊長は緒方敬志大佐、師団長は高品彪中将と教わったが、顔は見たことがなかった。復員後に戦記物などで知ったところでは、お二人とも昭和十九年八月、グアム島で玉砕した由である。 この三一八は名古屋や岐阜県出身の現役兵が多く、精鋭を自負していた。特に目にとまったのは、中隊の入口に、連隊長の標語として「血を流すよりも汗を流せ」と大きく墨書した張紙だった。そのとおり日常の演習訓練は厳しかった。
毎日の主な訓練は、重機関銃の分解、組み立て、分解した機関銃を搬送すること(駆け足、匍匐《ほふく=腹這い》前進)、機関銃を馬の鞍に乗せること、そのほかに、馬の世話と馬屋当番があった。私は、学院でラクビー部にいたので、駆け足は大して苦痛ではなかったが、生来、不器用で機械を扱うのが苦手なので、機関銃の組み立て、分解が一番遅く、自分ながら、こんなことでは幹部候補生に合格できないと思っていた。
ところが、昭和十九年二月に受かったのである。理由は恐らく、採用規準が大幅に緩和されていたことと、下級指揮官を消耗要員として多数必要としていたためのようである。その後戦場に行って、下級指揮官もその判断力、決意と度胸が、部下をまとめ、部下の運命を大きく左右することを知った。
昭和十九年二月、三一八に動員令《出動命令》が下り、幹部候補生を除く連隊長以下、われわれの教官、助教官を含め、はとんど全員が南方戦線に派遣された。兵士たちの間では、ビルマ戦線に行くようだと語られたが、行く先はグアム島で、全員が玉砕した。
「人間万事塞翁が馬」のとおり、その頃戦況が悪ければこそ当然、われわれがその活路を開く任につくべきであると考える者が多かった。全力を尽くして万事、運命に任せるしかないという心境であったが、生きて帰れるとはつゆ思わなかった。
昭和十九年五月、私は京都府福知山市にあった甲種幹部候補生を教育する中部軍教育隊に入り、重機関銃中隊に配属された。候補生は、関西の大学(京大、同志社大、関西大等)の出身者が多く、訓練は関東軍ほど厳しくはなかった。重機関銃の取扱いは皆上手になっていた。
この教育隊の速射砲中隊には、同期の工藤精一郎、23期の久津見功君、小銃中隊には22期の合志洋、原口譲二、胡井久夫、平松(旧姓、中里)清治君がいた。ただし、教育訓練は中隊単位で行われたことと、追いまくられて、互いに懇談したり、交流することはほとんどなかった。
そして七月頃に全員が軍曹に進級し、八月四日に仮卒業し、一部の者は国内や満洲《注3》に転属を命じられたが、私や合志、原口、胡井、平松の諸君はフィリピンの第四航空軍に転属となり、とにかく本部のあるマニラに行けと命じられた。
つづく
注1
1943年(昭和18年)大学高等専門学校の文科系学生に対し3ケ月の繰上げ卒業を行い軍隊に徴兵した 又の名を学徒出陣ともいう
注2
陸軍では初級士官を補う為、予備役将校の養成に甲種(将校)乙種(下士官)の2制度があり、甲種は予備士官学校での教育後初級士官に採用した
注3
1032~1945年 中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
--
あんみつ姫