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ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/3 19:18
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 これは哈爾浜学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された露崎 亮治氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。



 お互、学徒動員《注1》で繰上げ卒業となって慌ただしく南満各地に入営した。私は遼陽の三一八(さんいっぱ)部隊へ。内地教育のあと、昭和十九年九月、甲種幹部候補生《注2》 の軍曹でマニラに上陸して二十年十一月の投降までフィリピン・ルソン島での戦闘に明け暮れた。

編集者から、年も明けてから「ルソン島彷徨記でも書かないか」との強い要請があって、その気になった。福岡健一のように、とくに記録にまとめることもなかったのだが、ペンを取ると、九死に一生の、私の人生最大の過酷な体験ということからか、記憶をつぎつぎにたどって淀みがなかったのは、われながら不思議でさえあった。

逮陽の三一八(歩兵連隊)に入る

 昭和十八年十二月一日、私は、一部の同期生や下級生とともに遼陽《りょうよう=中国東北部遼寧省の都市》の第三一八部隊(第二十九師団の歩兵連隊)に入隊し、第三機関銃(重機関銃)中隊に配属された。
入営に先立ちこの日の早朝奉天《ほうてん=中国東北部現在の瀋陽》で山崎操と同君の実兄の家に立ち寄って別れを惜しんだことを覚えている。この中隊の同じ班には22期の中野茂夫、23期の山口高良両君がいた。
他は建国大学、新京法政大学、旧制旅順高校の繰り上げ卒業者だった。教官は幹部候補生出身の少尉で二、三歳年上だった。

 連隊長は緒方敬志大佐、師団長は高品彪中将と教わったが、顔は見たことがなかった。復員後に戦記物などで知ったところでは、お二人とも昭和十九年八月、グアム島で玉砕した由である。 この三一八は名古屋や岐阜県出身の現役兵が多く、精鋭を自負していた。特に目にとまったのは、中隊の入口に、連隊長の標語として「血を流すよりも汗を流せ」と大きく墨書した張紙だった。そのとおり日常の演習訓練は厳しかった。
 
 毎日の主な訓練は、重機関銃の分解、組み立て、分解した機関銃を搬送すること(駆け足、匍匐《ほふく=腹這い》前進)、機関銃を馬の鞍に乗せること、そのほかに、馬の世話と馬屋当番があった。私は、学院でラクビー部にいたので、駆け足は大して苦痛ではなかったが、生来、不器用で機械を扱うのが苦手なので、機関銃の組み立て、分解が一番遅く、自分ながら、こんなことでは幹部候補生に合格できないと思っていた。

 ところが、昭和十九年二月に受かったのである。理由は恐らく、採用規準が大幅に緩和されていたことと、下級指揮官を消耗要員として多数必要としていたためのようである。その後戦場に行って、下級指揮官もその判断力、決意と度胸が、部下をまとめ、部下の運命を大きく左右することを知った。

 昭和十九年二月、三一八に動員令《出動命令》が下り、幹部候補生を除く連隊長以下、われわれの教官、助教官を含め、はとんど全員が南方戦線に派遣された。兵士たちの間では、ビルマ戦線に行くようだと語られたが、行く先はグアム島で、全員が玉砕した。

 「人間万事塞翁が馬」のとおり、その頃戦況が悪ければこそ当然、われわれがその活路を開く任につくべきであると考える者が多かった。全力を尽くして万事、運命に任せるしかないという心境であったが、生きて帰れるとはつゆ思わなかった。

 昭和十九年五月、私は京都府福知山市にあった甲種幹部候補生を教育する中部軍教育隊に入り、重機関銃中隊に配属された。候補生は、関西の大学(京大、同志社大、関西大等)の出身者が多く、訓練は関東軍ほど厳しくはなかった。重機関銃の取扱いは皆上手になっていた。

 この教育隊の速射砲中隊には、同期の工藤精一郎、23期の久津見功君、小銃中隊には22期の合志洋、原口譲二、胡井久夫、平松(旧姓、中里)清治君がいた。ただし、教育訓練は中隊単位で行われたことと、追いまくられて、互いに懇談したり、交流することはほとんどなかった。

 そして七月頃に全員が軍曹に進級し、八月四日に仮卒業し、一部の者は国内や満洲《注3》に転属を命じられたが、私や合志、原口、胡井、平松の諸君はフィリピンの第四航空軍に転属となり、とにかく本部のあるマニラに行けと命じられた。

                      つづく

注1 
1943年(昭和18年)大学高等専門学校の文科系学生に対し3ケ月の繰上げ卒業を行い軍隊に徴兵した 又の名を学徒出陣ともいう

注2 
陸軍では初級士官を補う為、予備役将校の養成に甲種(将校)乙種(下士官)の2制度があり、甲種は予備士官学校での教育後初級士官に採用した

注3 
1032~1945年 中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/3 19:22
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
十九年九月門司を出て命からがらマニラ上陸

 当時すでに方々の戦場で、日本軍部隊の玉砕《大義に殉じて潔く戦死する》が報じられていたが、教育隊機関銃中隊の中隊長は「絶対に玉砕するな。知恵をしぼって戦え」と強調した。多くの候補生の南方要員は門司港に向かった。

 門司ではその頃、輸送船団約二十隻が編成され、これに駆潜艇《注1》約十隻が護衛として付けられたが、駆逐艦《注2》などは一隻もいなかった。九月二日の明け方、船団は門司を出た。私や合志、原口、胡井、平松を含め約五百人の候補生は帝楓丸という約八千トンの船に乗った。

 この船は船体が赤錆びており、貨物の積み具合が適当でなかったのか、最初から右側に傾いていて、何か不吉な予感を抱いた。船団は朝、昼食が配られた頃に米潜水艦の雷撃《魚雷攻撃》を受け、一隻が沈んだ。船団はかなり危険を感じて敵状を探るため、いったん済州島の近くに退避して停泊した。

 翌日、出航して昼頃、船団の前方に浮遊機雷《海底に固定しない波間に漂う機雷》原があることが船舶兵たちによって発見され、機関銃で次々に爆破された。船内には、前途の極めて危険なことを思う悲壮感がただよった。しかし、台風で波が荒れ、潜水艦の襲撃はなくなった。
 
 帝楓丸はエンジン故障で遅れたので、船団を離れて単独航行し、十二日高雄《台湾最南端の都市》に入港した。ここも埠頭に空襲の跡があった。次の船団と合流した約二十隻の船団は〝魔のバシー海峡″を無事突破して十四日夜、フィリピン北端のアパリに着き、船舶兵の候補生たちを上陸させた。

 停泊中の夜半に、米潜の雷撃を受けたが、輸送船は左右にかわして事なきを得た。翌朝さらに船団がリンガエン湾《ヒリピンのルソン島中西部の湾》の数百メートル沖を通ると米潜の猛烈な雷撃で輸送船四隻が沈んだ。他の輸送船が多くの魚雷をどうにか回避すると、白い航跡を引いた魚雷は海岸に激突して爆発した。

 こうした状況の中で、候補生の一人は、極度の恐怖心からノイローゼになってやせ衰え、食事もとらなくなり、バシー海峡を通過中に病死して水葬にされた。誰も恐怖心の点では、それほど差はなく、ただ肉体的、精神的な感受性と忍耐力の差があるだけのようであった。

 十五日、船団がようやくマニラ港に到着したとき、誰もが九死に一生を得た思いだった。帝楓丸に乗船していた候補生全員は上陸して、マニラ市内の第四航空軍司令部に引率されて行った。市内とマニラ湾では、数日前にグラマン《米軍戦闘機》の大空襲があったとかで、多くの家が焼かれ、椰子の木々が黒焦げになっていた。

 同司令部で私たち五人の候補生は、レイテ島《ヒリピンのルソン島とミンダナオ島の中間に位置する島》のタクロバン飛行場に転属を命じられ、しばらく船便を待つことになった。合志、原口、胡井、平松君らは、セレベス島《インドネシア第4位の大きさの島で現在はスラウエシ島という》マカッサルの第七飛行師団に転属となって再び、帝楓丸にのるということで、互いに幸運を祈って別れた。

 (後に合志君によれば、同君らは十月十七日、帝楓丸に乗船し、グラマンの空襲を受けたが無事にボルネオに着き、十二月末に、シンガポールに到着、第三航空軍に転属した。帝楓丸はその後、米潜に撃沈されたという)。

 九月二十一日~二十五日には、マニラ湾の日本海軍艦艇や輸送船、陸上の軍事施設に対して、グラマンの大編隊による空襲があった。

 そうすると、われわれの輸送船団は、この間隙を縫ってマニラに入出港した訳で、幸運というよりほかはなかった。海軍艦艇にはかなりの被害があったようだった。私は、たまたま、マニラ湾埠頭の近くで、このグラマン大編隊の急降下爆撃を目撃していたが、いずれも極めて大胆で勇敢だった。

 十九年十月頃、マニラでは「南十字星」というダブロイド版の軍の週刊紙が、恐らく従軍報道記者によって発行され兵士たちに配られていた。この新聞に、山下奉文大将(十月六日、ルソン島に着任)が「敵はわが腹中にあり」と述べたと報道されたが、同将軍の言葉を鵜呑みにする者はなく、誰も不安を隠せなかった。当時、この新聞に次のような某氏の排句が掲載されていたことを覚えている。まさに、嵐の前の静けさであった。

  満月へ転進の艇ひたと進む
  砲爆撃密林遂に裸身となり
 (密林とは、もちろん、日本軍のひそむ場所である)。

 やがて十月二十一日、レイテ島に米軍が上陸したというニュースが入った。われわれ侯補生五人は、第四航空軍司令部の係将校から、レイテ島のタクロバン飛行場は米軍に占領されたから、派遣はとりやめ、ルソン島南部のナガ地区《ルソン島マニラから南西の町》の一四七飛行場大隊に転属されるとつげられた。

 この転属の準備をしていると、マニラの飛行場から、レイテ島周辺の米軍艦隊に対して、神風特別攻撃隊《注3》の出撃が始まったと伝えられた。ナガ地区の飛行場は、特攻隊の不時着飛行場といわれていた。当時、われわれの誰も、レイテ戦は日米戦争の「関ケ原」と考えており、ここで日本の連合艦隊がレイテ湾周辺の米艦隊を撃破すれば、日本は少なくとも互角で和睦に持ち込めると期待していた。

 そこで、五名の候補生はまだまだ意気盛んで、早く赴任したいと、十月末の夜、マニラから明治時代のようなのろい汽車に乗り(燃料は椰子の実を乾燥したコプラ)、ナガ地区に向かった。(日中は毎日、グラマンの空襲があり、隠れている以外に手がなかった)。

 途中、フィリピン・ゲリラ《注4》兵の襲撃を警戒しながら、翌朝、ナガ地区の一四七飛行場大隊の警備中隊に到着した。ナガ地区は風光明媚で、ルソン島南端に近く、最南端のレガスピーはレイテ島に近く、マヨン山という美しい火山が煙をたな引かせており、駐屯地から約八キロメートルのところには、高さ約一五〇〇メートルのイサログ山というジャングルに覆われた裾野の広い山がそびえ立っていた。

 私は、先任の見習士官とともに、飛行場の対空射撃小隊の小隊長を命じられ、毎日空襲にやってくるグラマンを射つことになった。十二月になると、レイテ戦のもようは全く伝えられなくなり、恐らく全滅したと考えられていた。当然ながらフィリピン人のゲリラ活動が活発になり、この地区のゲリラ隊長はバドア少佐とのことだった。

注1
潜水艦の駆逐を主任務とし 局地での警備 艦船の護衛に当る小型艦艇

注2 
軍艦艦種の一つで 比較的小型の高速艦であり 魚雷 爆雷等を積載 護衛 警戒 対潜水艦攻撃み当る

注3 
1944年10月 ヒリピンルソン島で 時の第一航空艦隊大西司令長官が一機一艦必殺のゼロ戦での体当たり攻撃を命じ実行したのが 特攻の始まりで 敷島 大和 朝日 山桜隊と命名す

注4 
予め攻撃する敵を定めず 戦線外において 小規模な部隊を運用し 臨機に奇襲 待ち伏せ 後方支援破壊等の攪乱や攻撃を行なう 

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/3 19:25
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
二十年四月からジャングルに立てこもって持久戦

 二十年元旦、われわれ候補生五人は見習士官《帝国陸軍の官名の一つで一定期間の見習士官を経て少尉に任官する》 に進級し、同日付で士官勤務を命じられた。私が他の四人の候補生を代表して、大隊長に対し中隊長、三人の先任少尉、中隊の人事係曹長の同席の下に、進級のあいさつを行い「昭和二十年一月一日をもって、将校勤務《注1》を命じられました」と申告した。

 同夜、われわれが内務班《注2》でくつろいでいると、隣室で、中隊の人事係曹長が数人の下士官との雑談の中で「今日、露崎が将校勤務を命じられましたと申告したのは、〝士官勤務″と申告しなければならなかったのだ。とにかく、こんどの見習士官は、促成栽培で訓練が不充分だ」と悪口を言っているのが聞こえてきた。
 
 その後、この曹長とつき合っているうちに、仲よくなった。一月の末頃の夕方、米軍戦闘機の空襲が終わった直後、この曹長は、部下数人を引率して、隣の町まで武器、弾薬と食料を受領にトラックで出かけた。それから二時間後に、兵隊たちが帰って来て「曹長はゲリラの襲撃を受けて戦死した」と曹長の遺体をトラックからおろした。われわれは同夜、曹長のお通夜をし翌日夜、遺体を焼いた。

 そろそろゲリラの襲撃が激しくなり、誰が、いつ戦死してもおかしくなくなっていた。十九年十二月上旬頃から米軍がマニラ北方に上陸するという見方が広がり、ナガ地区に駐屯していた陸軍部隊は次々にマニラ方面に移動を始め、この地区には、われわれの飛行場大隊だけが残ることになった。

 これではゲリラになめられるし、米軍がここに上陸したら、数時間で全滅するであろうと皆心細く思った。一月上旬、遂に米陸軍の大軍がリンガエン湾から上陸したというニュースがあった。

 昼間は、毎日空襲に来るグラマンを射撃する任務を遂行していたが、ときどき交替で三時半頃に起きて、駐屯地から八キロメートルほど離れたイサログ山のジャングル内の陣地に、武器弾薬と食糧を水牛にのせて運搬しはじめた。米軍上陸の場合の持久戦に備えてであった。

 その頃、中北部ルソン島の激戦がラジオニュースで報じられていた。われわれは、イサログ山まで歩いて行く途中、夜明けの空に輝く南十字星を仰いで美しいナと思ったことを今でも覚えている。

 四月初め、遂にイサログ山のジャングルの中のわれわれの陣地に対する米陸軍の攻撃が始まった。われわれの武器は小銃だけであるが、米軍は多数の野砲と迫撃砲を持ち、複葉の観測機を絶えず頭上に飛ばしていた。それもわれわれの使用していた飛行場から離着陸していた。

 そのうち、ジャングルに対して米軍機の焼夷弾《しょういだん=爆弾の一種で攻撃対象を焼き払う目的で使用される》が雨のようにばらまかれ、ジャングルの大木を焼き払い始めた。居たたまれず、ジャングルをとび出すと、観測機に発見される。観測機は超低空で一日中、ゆっくりと地上を観測する。小銃でも十分射ち落とせる気がするが、一発でも撃とうものなら、潜伏場所を知らせるようなもので、あとが恐ろしいから、誰も射撃せず、身動きもできない。

 観測機が空中に煙幕の輪を画くと、迫撃砲《はくげきほう=注3》の一斉射撃が始まる。しかし落下した砲弾の中には、不発弾も多く、周辺に多数落ちて、これで命も終わりと思うと、不発弾であり、胸なでおろしたこともたびたびだった。

 フィリピンでは四月から雨期になるが、折りからの雷鳴と迫撃砲の音が入りまじって一体、どちらの音か区別がつかないことがよくあった。米軍は約一週間くらい砲撃を続け、われわれはイサログ山の頂上まで逃げた。山頂は、毎日の大雨で一日中、たき火をたかないと寒くて、凍え死にそうである。それに食糧は何もない。三日間ぐらい毎日、雑草を煮て食っていたが、もう腹がへって居たたまれず、餓死するよりもと、命がけで山を下って山裾の芋畑を掘った。

 最初のうちは斬り込み隊を称していたが、危険なことは間違いなかった。五月中旬になると、米軍は全滅させたと思ったのか、引き揚げてしまい、あとはフィリピンのゲリラが回ってくるだけになったが、米軍の連発式ライフル銃で武装しているので油断は禁物。

 われわれはイサログ山の斜面のジャングルに、竹の柱とバナナの葉で屋根をふいた掘立て小屋を立てて雨露をしのぎ、山嶽民族であるイゴロット族が山の斜面に作った、さつま芋畑やタロ芋畑に恐る恐る忍びこんで、芋を掘るか、見つからない時には、さつま芋の葉を食うだけだった。

 これもないと、バナナ畑の中の大型のカタツムリを拾ってきて、煮て食った。平地には絶対に降りて行かない。この仕事も命がけである。フィリピンのゲリラは、われわれが芋畑に現れるのを待ち伏せしている。芋畑で芋を掘っている間にゲリラに襲撃されて死んだ兵隊がかなりいた。

 この段階では、もう部隊としての軍律が弛緩《しかん=ゆるむ》してしまって、歩哨《ほしょう=警戒 監視の任務につく兵》の責任を果たす者もなく、競って、より多くの芋を掘ろうとして、夢中になっている間に、ゲリラに撃たれて死んでしまうという例が多かった。そのうち、栄養失調のため、ほとんどの人が手足に熱帯潰瘍ができるようになった。

 六月初め、イサグロ山の中腹から海の方を見ると、米海軍の大艦艇と大輸送船団がゆっくりとマニラ方向に進んでいるのが見えた。沖縄かも知れなかった。

 真夏の六月の頃だった。私が小隊の兵六人(軍曹一人、古参上等兵三人、若い一等兵二人)を率いて、イサグロ山の中腹の芋畑に行き、芋を掘り終わって数百メートルほど上り、竹薮の脇で休息したことがあった。さっきの芋畑を見渡すと、フィリッピン人ゲリラ兵らしい者が歩いている。古参兵たちに「ゲリラ兵が来るぞ!」と注意すると、古参兵たちはゲリラはこちらには来ないでしょうと、たかをくくって動こうとしない。

 そのうち、十分くらいすると、若い一等兵が「ゲリラだ」とどなった。見ると、背後に十数人のゲリラが、われわれに銃の照準を合わせている。大慌てで、後ろの薮の中に逃げこんだ。するとゲリラ兵たちはライフルで一斉射撃を始めた。幸いに、ゲリラは追って来なかった。われわれに負傷者はでなかった。

 私は、最初に畑のゲリラを発見した時に、断固として部下に命令すべきであった。われわれは軍規の乱れた敗残兵になってしまったのだと恥ずかしく思ったことだった。

注1 
少尉以上の階級総称として「陸軍」では将校「海軍」では士  官と慣用的には読んでいたが 将校は部隊指揮官としての任務  に当る者を称し 部隊内の隊長以上の役職者を将校として任命  し士官と将校とは混同されやすいが 一般には将校たる士官とその他の士官とは 待遇序列も異なっていた

注2 
古兵(2年以上)と初年兵とで構成する生活単位

注3 
歩兵が携帯できる 支援兵器で曲射砲の一種 大型のものは  自走車式のものもある

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
対ゲリラ戦に大わらわ、十一月に武器を捨てる

 一方、近くに駐屯していた海軍陸戦隊の一小隊は現役兵だった。さすがに軍紀も厳正で、フィリピンのゲリラ部隊が襲撃して来ても、常に堂々と応戦して撃退しており、したがって被害もすくなかった。軍紀を守り、勇敢な人々と、そうでなかった人々との間に大差があったのである。

 われわれは、昭和二十年十一月の初め、大隊長に引率され、白旗を掲げて、ナガ地区の米軍に降伏した。それまで、捕虜になることを日本軍の軍紀が許さないので、逃げ回っていただけである。

 ナガ地区の平地の米軍陣地まで米兵に引率されて行くと、ナガ地区で、ゲリラ隊長として有名で、会ったこともなかったフィリピン人のバドア少佐がわれわれを見てニッコリと笑った。彼はゲリラを指揮して、多くの日本軍兵士を殺害した隊長である。さぞかし凄い顔をしているものと思っていたが、案に相違して、四十歳ほどの、恰幅のよい、やさしい顔のふつうの男だった。

 こうして大隊の生き残り全員が降伏して、米軍からカリフォルニア米の温かいご飯を支給されて一生で初めて、米飯がこれほどおいしいものと知ったように感じた。

 引率の米軍軍曹が「ラスコー」と盛んに怒鳴るようにあったが、何のことはない「レッツ ゴー」と分かった。マニラ郊外のカロンバン収容所に行くと、すでに、数千人がテント生活をして皆、丸々と太っているのにビックリ。ここでセリアル・ナンバー《識別情報番号》をつけられたが、われわれの番号は十一万台であった。
 あの有名な中野学校出身の小野田少尉を除けば、われわれがルソン島で最後に捕虜になったことを意味していた。

 カロンバン収容所の中に特別の囲いがあり、山下奉文大将が収容されていた。われわれがフェンスの外を通りながら同大将に敬礼すると、ていねいな答礼があった。

 われわれには、朝昼晩の食事以外に毎週一回、米軍から携帯食糧として、米軍のCレーションかKレーション《注》の一箱が配給された。Cレーションにはチーズ、ビスケットがたっぶりとコーヒー一袋、チョコレート一本、コーンビーフ缶詰一個、それにタバコ一箱が入って、これが一つの細長い箱になって密封されている。

 Kレーションは、もっと内容がよかった。日本軍の携帯食糧は、金平糖と乾パン一袋であった。これだけを見ても、日米両軍の差が明白であった。

 ましてルソン島での、多くの日本軍部隊は輸送船が撃沈されて武器も少なく、食糧もほとんどない状態で戦わねばならなかった。日本軍は昭和十九年十二月二十五日から「ルソン持久作戦」の命令を大本営から与えられ、米軍の日本本土侵攻までの時間稼ぎと持久戦の役割だけを押しっけられたに過ぎなかった。そのために、若い、将来のある有能な人々が多数死んだ。その中で、餓死、戦病死率は極めて高い。

 昭和二十年十一月頃から、フィリピンの民間人が収容所にひんぱんにやって来るようになった。日本兵でフィリピンの民間人を虐待したり、殺したりした者の名前を米軍に報告して、容疑者の首実検に来るのである。田中とか山田とか山口という、ありふれた姓の者がフィリピン人から容疑者として報告されると、多くの同姓の者が収容所から連れ出されて訊問され、米国の日系二世が通訳を行った。

 こうして無実の者が戦犯として処刑された例が少なからずあったといわれ、同姓の人たちは戦々恐々だった。特にゲリラの討伐にあたった人たちの中に軍事裁判法廷で戦犯と決めつけられた者も多かった。

 だから偽名を使う者も多く、帰国しても偽名のまま世間から隠れて暮らす人たちも出た。軍事裁判は公平なものではなく、報復であり、アメリカの唱える正義と民主主義に反することは明白であった。

 やがて、十二月二十四日のクリスマス・イブの日となった。すると、捕虜にもあらかじめ通達があったが、米軍によって花火が派手に打ち揚げられ、米兵たちが一斉に空に向かってライフル銃で実弾をぶっ放した。捕虜たちも、やけくそになって演芸会をやり、流行歌を歌って、うさを晴らした。

 毎日、作業に出された。ベニヤ板をトラックに積むとか、米軍兵営の排水溝を掘るなどの仕事である。皆栄養がよくて、体力が充実していたので、仕事を精力的にやって体力を消耗して、悩みを忘れようとした。だから、米側の一日の予定の仕事を、半日で終えてしまうのがザラだった。われわれは、昭和二十一年十一月十五日、名古屋入港の復員船で帰国した。

 考えてみると、遼陽入営いらい丸三年と十五日ぶり、マニラ上陸いらい丸二年と三カ月ぶり、イサログ山のジャングル陣地にこもってから一年七カ月半ぶりに祖国の土を生きて踏んだことになる。感無からずんばあらず、と心に刻んだことだった。
                    (おわり)

注 
Cレーションとは野外で軍事活動中に使う携帯食糧で 肉と豆の缶詰主体に ビスケット等が用意されている。
Kレーションとは 第二次大戦中開発された野戦食で 主に空挺部隊(パラシート降下部隊)で使用され プロセスチーズ   クラッカー キャンデー等で どちらも防水袋に包まれている 

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あんみつ姫

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