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Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―

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あんみつ姫

通常 Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―

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3
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/2/3 19:28
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
対ゲリラ戦に大わらわ、十一月に武器を捨てる

 一方、近くに駐屯していた海軍陸戦隊の一小隊は現役兵だった。さすがに軍紀も厳正で、フィリピンのゲリラ部隊が襲撃して来ても、常に堂々と応戦して撃退しており、したがって被害もすくなかった。軍紀を守り、勇敢な人々と、そうでなかった人々との間に大差があったのである。

 われわれは、昭和二十年十一月の初め、大隊長に引率され、白旗を掲げて、ナガ地区の米軍に降伏した。それまで、捕虜になることを日本軍の軍紀が許さないので、逃げ回っていただけである。

 ナガ地区の平地の米軍陣地まで米兵に引率されて行くと、ナガ地区で、ゲリラ隊長として有名で、会ったこともなかったフィリピン人のバドア少佐がわれわれを見てニッコリと笑った。彼はゲリラを指揮して、多くの日本軍兵士を殺害した隊長である。さぞかし凄い顔をしているものと思っていたが、案に相違して、四十歳ほどの、恰幅のよい、やさしい顔のふつうの男だった。

 こうして大隊の生き残り全員が降伏して、米軍からカリフォルニア米の温かいご飯を支給されて一生で初めて、米飯がこれほどおいしいものと知ったように感じた。

 引率の米軍軍曹が「ラスコー」と盛んに怒鳴るようにあったが、何のことはない「レッツ ゴー」と分かった。マニラ郊外のカロンバン収容所に行くと、すでに、数千人がテント生活をして皆、丸々と太っているのにビックリ。ここでセリアル・ナンバー《識別情報番号》をつけられたが、われわれの番号は十一万台であった。
 あの有名な中野学校出身の小野田少尉を除けば、われわれがルソン島で最後に捕虜になったことを意味していた。

 カロンバン収容所の中に特別の囲いがあり、山下奉文大将が収容されていた。われわれがフェンスの外を通りながら同大将に敬礼すると、ていねいな答礼があった。

 われわれには、朝昼晩の食事以外に毎週一回、米軍から携帯食糧として、米軍のCレーションかKレーション《注》の一箱が配給された。Cレーションにはチーズ、ビスケットがたっぶりとコーヒー一袋、チョコレート一本、コーンビーフ缶詰一個、それにタバコ一箱が入って、これが一つの細長い箱になって密封されている。

 Kレーションは、もっと内容がよかった。日本軍の携帯食糧は、金平糖と乾パン一袋であった。これだけを見ても、日米両軍の差が明白であった。

 ましてルソン島での、多くの日本軍部隊は輸送船が撃沈されて武器も少なく、食糧もほとんどない状態で戦わねばならなかった。日本軍は昭和十九年十二月二十五日から「ルソン持久作戦」の命令を大本営から与えられ、米軍の日本本土侵攻までの時間稼ぎと持久戦の役割だけを押しっけられたに過ぎなかった。そのために、若い、将来のある有能な人々が多数死んだ。その中で、餓死、戦病死率は極めて高い。

 昭和二十年十一月頃から、フィリピンの民間人が収容所にひんぱんにやって来るようになった。日本兵でフィリピンの民間人を虐待したり、殺したりした者の名前を米軍に報告して、容疑者の首実検に来るのである。田中とか山田とか山口という、ありふれた姓の者がフィリピン人から容疑者として報告されると、多くの同姓の者が収容所から連れ出されて訊問され、米国の日系二世が通訳を行った。

 こうして無実の者が戦犯として処刑された例が少なからずあったといわれ、同姓の人たちは戦々恐々だった。特にゲリラの討伐にあたった人たちの中に軍事裁判法廷で戦犯と決めつけられた者も多かった。

 だから偽名を使う者も多く、帰国しても偽名のまま世間から隠れて暮らす人たちも出た。軍事裁判は公平なものではなく、報復であり、アメリカの唱える正義と民主主義に反することは明白であった。

 やがて、十二月二十四日のクリスマス・イブの日となった。すると、捕虜にもあらかじめ通達があったが、米軍によって花火が派手に打ち揚げられ、米兵たちが一斉に空に向かってライフル銃で実弾をぶっ放した。捕虜たちも、やけくそになって演芸会をやり、流行歌を歌って、うさを晴らした。

 毎日、作業に出された。ベニヤ板をトラックに積むとか、米軍兵営の排水溝を掘るなどの仕事である。皆栄養がよくて、体力が充実していたので、仕事を精力的にやって体力を消耗して、悩みを忘れようとした。だから、米側の一日の予定の仕事を、半日で終えてしまうのがザラだった。われわれは、昭和二十一年十一月十五日、名古屋入港の復員船で帰国した。

 考えてみると、遼陽入営いらい丸三年と十五日ぶり、マニラ上陸いらい丸二年と三カ月ぶり、イサログ山のジャングル陣地にこもってから一年七カ月半ぶりに祖国の土を生きて踏んだことになる。感無からずんばあらず、と心に刻んだことだった。
                    (おわり)

注 
Cレーションとは野外で軍事活動中に使う携帯食糧で 肉と豆の缶詰主体に ビスケット等が用意されている。
Kレーションとは 第二次大戦中開発された野戦食で 主に空挺部隊(パラシート降下部隊)で使用され プロセスチーズ   クラッカー キャンデー等で どちらも防水袋に包まれている 

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あんみつ姫

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