Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―
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ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:18)
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Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:22)
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Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:25)
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Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ― (あんみつ姫, 2008/2/3 19:22)
あんみつ姫
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投稿数: 485
二十年四月からジャングルに立てこもって持久戦
二十年元旦、われわれ候補生五人は見習士官《帝国陸軍の官名の一つで一定期間の見習士官を経て少尉に任官する》 に進級し、同日付で士官勤務を命じられた。私が他の四人の候補生を代表して、大隊長に対し中隊長、三人の先任少尉、中隊の人事係曹長の同席の下に、進級のあいさつを行い「昭和二十年一月一日をもって、将校勤務《注1》を命じられました」と申告した。
同夜、われわれが内務班《注2》でくつろいでいると、隣室で、中隊の人事係曹長が数人の下士官との雑談の中で「今日、露崎が将校勤務を命じられましたと申告したのは、〝士官勤務″と申告しなければならなかったのだ。とにかく、こんどの見習士官は、促成栽培で訓練が不充分だ」と悪口を言っているのが聞こえてきた。
その後、この曹長とつき合っているうちに、仲よくなった。一月の末頃の夕方、米軍戦闘機の空襲が終わった直後、この曹長は、部下数人を引率して、隣の町まで武器、弾薬と食料を受領にトラックで出かけた。それから二時間後に、兵隊たちが帰って来て「曹長はゲリラの襲撃を受けて戦死した」と曹長の遺体をトラックからおろした。われわれは同夜、曹長のお通夜をし翌日夜、遺体を焼いた。
そろそろゲリラの襲撃が激しくなり、誰が、いつ戦死してもおかしくなくなっていた。十九年十二月上旬頃から米軍がマニラ北方に上陸するという見方が広がり、ナガ地区に駐屯していた陸軍部隊は次々にマニラ方面に移動を始め、この地区には、われわれの飛行場大隊だけが残ることになった。
これではゲリラになめられるし、米軍がここに上陸したら、数時間で全滅するであろうと皆心細く思った。一月上旬、遂に米陸軍の大軍がリンガエン湾から上陸したというニュースがあった。
昼間は、毎日空襲に来るグラマンを射撃する任務を遂行していたが、ときどき交替で三時半頃に起きて、駐屯地から八キロメートルほど離れたイサログ山のジャングル内の陣地に、武器弾薬と食糧を水牛にのせて運搬しはじめた。米軍上陸の場合の持久戦に備えてであった。
その頃、中北部ルソン島の激戦がラジオニュースで報じられていた。われわれは、イサログ山まで歩いて行く途中、夜明けの空に輝く南十字星を仰いで美しいナと思ったことを今でも覚えている。
四月初め、遂にイサログ山のジャングルの中のわれわれの陣地に対する米陸軍の攻撃が始まった。われわれの武器は小銃だけであるが、米軍は多数の野砲と迫撃砲を持ち、複葉の観測機を絶えず頭上に飛ばしていた。それもわれわれの使用していた飛行場から離着陸していた。
そのうち、ジャングルに対して米軍機の焼夷弾《しょういだん=爆弾の一種で攻撃対象を焼き払う目的で使用される》が雨のようにばらまかれ、ジャングルの大木を焼き払い始めた。居たたまれず、ジャングルをとび出すと、観測機に発見される。観測機は超低空で一日中、ゆっくりと地上を観測する。小銃でも十分射ち落とせる気がするが、一発でも撃とうものなら、潜伏場所を知らせるようなもので、あとが恐ろしいから、誰も射撃せず、身動きもできない。
観測機が空中に煙幕の輪を画くと、迫撃砲《はくげきほう=注3》の一斉射撃が始まる。しかし落下した砲弾の中には、不発弾も多く、周辺に多数落ちて、これで命も終わりと思うと、不発弾であり、胸なでおろしたこともたびたびだった。
フィリピンでは四月から雨期になるが、折りからの雷鳴と迫撃砲の音が入りまじって一体、どちらの音か区別がつかないことがよくあった。米軍は約一週間くらい砲撃を続け、われわれはイサログ山の頂上まで逃げた。山頂は、毎日の大雨で一日中、たき火をたかないと寒くて、凍え死にそうである。それに食糧は何もない。三日間ぐらい毎日、雑草を煮て食っていたが、もう腹がへって居たたまれず、餓死するよりもと、命がけで山を下って山裾の芋畑を掘った。
最初のうちは斬り込み隊を称していたが、危険なことは間違いなかった。五月中旬になると、米軍は全滅させたと思ったのか、引き揚げてしまい、あとはフィリピンのゲリラが回ってくるだけになったが、米軍の連発式ライフル銃で武装しているので油断は禁物。
われわれはイサログ山の斜面のジャングルに、竹の柱とバナナの葉で屋根をふいた掘立て小屋を立てて雨露をしのぎ、山嶽民族であるイゴロット族が山の斜面に作った、さつま芋畑やタロ芋畑に恐る恐る忍びこんで、芋を掘るか、見つからない時には、さつま芋の葉を食うだけだった。
これもないと、バナナ畑の中の大型のカタツムリを拾ってきて、煮て食った。平地には絶対に降りて行かない。この仕事も命がけである。フィリピンのゲリラは、われわれが芋畑に現れるのを待ち伏せしている。芋畑で芋を掘っている間にゲリラに襲撃されて死んだ兵隊がかなりいた。
この段階では、もう部隊としての軍律が弛緩《しかん=ゆるむ》してしまって、歩哨《ほしょう=警戒 監視の任務につく兵》の責任を果たす者もなく、競って、より多くの芋を掘ろうとして、夢中になっている間に、ゲリラに撃たれて死んでしまうという例が多かった。そのうち、栄養失調のため、ほとんどの人が手足に熱帯潰瘍ができるようになった。
六月初め、イサグロ山の中腹から海の方を見ると、米海軍の大艦艇と大輸送船団がゆっくりとマニラ方向に進んでいるのが見えた。沖縄かも知れなかった。
真夏の六月の頃だった。私が小隊の兵六人(軍曹一人、古参上等兵三人、若い一等兵二人)を率いて、イサグロ山の中腹の芋畑に行き、芋を掘り終わって数百メートルほど上り、竹薮の脇で休息したことがあった。さっきの芋畑を見渡すと、フィリッピン人ゲリラ兵らしい者が歩いている。古参兵たちに「ゲリラ兵が来るぞ!」と注意すると、古参兵たちはゲリラはこちらには来ないでしょうと、たかをくくって動こうとしない。
そのうち、十分くらいすると、若い一等兵が「ゲリラだ」とどなった。見ると、背後に十数人のゲリラが、われわれに銃の照準を合わせている。大慌てで、後ろの薮の中に逃げこんだ。するとゲリラ兵たちはライフルで一斉射撃を始めた。幸いに、ゲリラは追って来なかった。われわれに負傷者はでなかった。
私は、最初に畑のゲリラを発見した時に、断固として部下に命令すべきであった。われわれは軍規の乱れた敗残兵になってしまったのだと恥ずかしく思ったことだった。
注1
少尉以上の階級総称として「陸軍」では将校「海軍」では士 官と慣用的には読んでいたが 将校は部隊指揮官としての任務 に当る者を称し 部隊内の隊長以上の役職者を将校として任命 し士官と将校とは混同されやすいが 一般には将校たる士官とその他の士官とは 待遇序列も異なっていた
注2
古兵(2年以上)と初年兵とで構成する生活単位
注3
歩兵が携帯できる 支援兵器で曲射砲の一種 大型のものは 自走車式のものもある
二十年元旦、われわれ候補生五人は見習士官《帝国陸軍の官名の一つで一定期間の見習士官を経て少尉に任官する》 に進級し、同日付で士官勤務を命じられた。私が他の四人の候補生を代表して、大隊長に対し中隊長、三人の先任少尉、中隊の人事係曹長の同席の下に、進級のあいさつを行い「昭和二十年一月一日をもって、将校勤務《注1》を命じられました」と申告した。
同夜、われわれが内務班《注2》でくつろいでいると、隣室で、中隊の人事係曹長が数人の下士官との雑談の中で「今日、露崎が将校勤務を命じられましたと申告したのは、〝士官勤務″と申告しなければならなかったのだ。とにかく、こんどの見習士官は、促成栽培で訓練が不充分だ」と悪口を言っているのが聞こえてきた。
その後、この曹長とつき合っているうちに、仲よくなった。一月の末頃の夕方、米軍戦闘機の空襲が終わった直後、この曹長は、部下数人を引率して、隣の町まで武器、弾薬と食料を受領にトラックで出かけた。それから二時間後に、兵隊たちが帰って来て「曹長はゲリラの襲撃を受けて戦死した」と曹長の遺体をトラックからおろした。われわれは同夜、曹長のお通夜をし翌日夜、遺体を焼いた。
そろそろゲリラの襲撃が激しくなり、誰が、いつ戦死してもおかしくなくなっていた。十九年十二月上旬頃から米軍がマニラ北方に上陸するという見方が広がり、ナガ地区に駐屯していた陸軍部隊は次々にマニラ方面に移動を始め、この地区には、われわれの飛行場大隊だけが残ることになった。
これではゲリラになめられるし、米軍がここに上陸したら、数時間で全滅するであろうと皆心細く思った。一月上旬、遂に米陸軍の大軍がリンガエン湾から上陸したというニュースがあった。
昼間は、毎日空襲に来るグラマンを射撃する任務を遂行していたが、ときどき交替で三時半頃に起きて、駐屯地から八キロメートルほど離れたイサログ山のジャングル内の陣地に、武器弾薬と食糧を水牛にのせて運搬しはじめた。米軍上陸の場合の持久戦に備えてであった。
その頃、中北部ルソン島の激戦がラジオニュースで報じられていた。われわれは、イサログ山まで歩いて行く途中、夜明けの空に輝く南十字星を仰いで美しいナと思ったことを今でも覚えている。
四月初め、遂にイサログ山のジャングルの中のわれわれの陣地に対する米陸軍の攻撃が始まった。われわれの武器は小銃だけであるが、米軍は多数の野砲と迫撃砲を持ち、複葉の観測機を絶えず頭上に飛ばしていた。それもわれわれの使用していた飛行場から離着陸していた。
そのうち、ジャングルに対して米軍機の焼夷弾《しょういだん=爆弾の一種で攻撃対象を焼き払う目的で使用される》が雨のようにばらまかれ、ジャングルの大木を焼き払い始めた。居たたまれず、ジャングルをとび出すと、観測機に発見される。観測機は超低空で一日中、ゆっくりと地上を観測する。小銃でも十分射ち落とせる気がするが、一発でも撃とうものなら、潜伏場所を知らせるようなもので、あとが恐ろしいから、誰も射撃せず、身動きもできない。
観測機が空中に煙幕の輪を画くと、迫撃砲《はくげきほう=注3》の一斉射撃が始まる。しかし落下した砲弾の中には、不発弾も多く、周辺に多数落ちて、これで命も終わりと思うと、不発弾であり、胸なでおろしたこともたびたびだった。
フィリピンでは四月から雨期になるが、折りからの雷鳴と迫撃砲の音が入りまじって一体、どちらの音か区別がつかないことがよくあった。米軍は約一週間くらい砲撃を続け、われわれはイサログ山の頂上まで逃げた。山頂は、毎日の大雨で一日中、たき火をたかないと寒くて、凍え死にそうである。それに食糧は何もない。三日間ぐらい毎日、雑草を煮て食っていたが、もう腹がへって居たたまれず、餓死するよりもと、命がけで山を下って山裾の芋畑を掘った。
最初のうちは斬り込み隊を称していたが、危険なことは間違いなかった。五月中旬になると、米軍は全滅させたと思ったのか、引き揚げてしまい、あとはフィリピンのゲリラが回ってくるだけになったが、米軍の連発式ライフル銃で武装しているので油断は禁物。
われわれはイサログ山の斜面のジャングルに、竹の柱とバナナの葉で屋根をふいた掘立て小屋を立てて雨露をしのぎ、山嶽民族であるイゴロット族が山の斜面に作った、さつま芋畑やタロ芋畑に恐る恐る忍びこんで、芋を掘るか、見つからない時には、さつま芋の葉を食うだけだった。
これもないと、バナナ畑の中の大型のカタツムリを拾ってきて、煮て食った。平地には絶対に降りて行かない。この仕事も命がけである。フィリピンのゲリラは、われわれが芋畑に現れるのを待ち伏せしている。芋畑で芋を掘っている間にゲリラに襲撃されて死んだ兵隊がかなりいた。
この段階では、もう部隊としての軍律が弛緩《しかん=ゆるむ》してしまって、歩哨《ほしょう=警戒 監視の任務につく兵》の責任を果たす者もなく、競って、より多くの芋を掘ろうとして、夢中になっている間に、ゲリラに撃たれて死んでしまうという例が多かった。そのうち、栄養失調のため、ほとんどの人が手足に熱帯潰瘍ができるようになった。
六月初め、イサグロ山の中腹から海の方を見ると、米海軍の大艦艇と大輸送船団がゆっくりとマニラ方向に進んでいるのが見えた。沖縄かも知れなかった。
真夏の六月の頃だった。私が小隊の兵六人(軍曹一人、古参上等兵三人、若い一等兵二人)を率いて、イサグロ山の中腹の芋畑に行き、芋を掘り終わって数百メートルほど上り、竹薮の脇で休息したことがあった。さっきの芋畑を見渡すと、フィリッピン人ゲリラ兵らしい者が歩いている。古参兵たちに「ゲリラ兵が来るぞ!」と注意すると、古参兵たちはゲリラはこちらには来ないでしょうと、たかをくくって動こうとしない。
そのうち、十分くらいすると、若い一等兵が「ゲリラだ」とどなった。見ると、背後に十数人のゲリラが、われわれに銃の照準を合わせている。大慌てで、後ろの薮の中に逃げこんだ。するとゲリラ兵たちはライフルで一斉射撃を始めた。幸いに、ゲリラは追って来なかった。われわれに負傷者はでなかった。
私は、最初に畑のゲリラを発見した時に、断固として部下に命令すべきであった。われわれは軍規の乱れた敗残兵になってしまったのだと恥ずかしく思ったことだった。
注1
少尉以上の階級総称として「陸軍」では将校「海軍」では士 官と慣用的には読んでいたが 将校は部隊指揮官としての任務 に当る者を称し 部隊内の隊長以上の役職者を将校として任命 し士官と将校とは混同されやすいが 一般には将校たる士官とその他の士官とは 待遇序列も異なっていた
注2
古兵(2年以上)と初年兵とで構成する生活単位
注3
歩兵が携帯できる 支援兵器で曲射砲の一種 大型のものは 自走車式のものもある
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あんみつ姫