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Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―

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あんみつ姫

通常 Re: ルソン島彷徨記 ―遼陽―福知山―フィリピンへ―

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/3 19:22
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
十九年九月門司を出て命からがらマニラ上陸

 当時すでに方々の戦場で、日本軍部隊の玉砕《大義に殉じて潔く戦死する》が報じられていたが、教育隊機関銃中隊の中隊長は「絶対に玉砕するな。知恵をしぼって戦え」と強調した。多くの候補生の南方要員は門司港に向かった。

 門司ではその頃、輸送船団約二十隻が編成され、これに駆潜艇《注1》約十隻が護衛として付けられたが、駆逐艦《注2》などは一隻もいなかった。九月二日の明け方、船団は門司を出た。私や合志、原口、胡井、平松を含め約五百人の候補生は帝楓丸という約八千トンの船に乗った。

 この船は船体が赤錆びており、貨物の積み具合が適当でなかったのか、最初から右側に傾いていて、何か不吉な予感を抱いた。船団は朝、昼食が配られた頃に米潜水艦の雷撃《魚雷攻撃》を受け、一隻が沈んだ。船団はかなり危険を感じて敵状を探るため、いったん済州島の近くに退避して停泊した。

 翌日、出航して昼頃、船団の前方に浮遊機雷《海底に固定しない波間に漂う機雷》原があることが船舶兵たちによって発見され、機関銃で次々に爆破された。船内には、前途の極めて危険なことを思う悲壮感がただよった。しかし、台風で波が荒れ、潜水艦の襲撃はなくなった。
 
 帝楓丸はエンジン故障で遅れたので、船団を離れて単独航行し、十二日高雄《台湾最南端の都市》に入港した。ここも埠頭に空襲の跡があった。次の船団と合流した約二十隻の船団は〝魔のバシー海峡″を無事突破して十四日夜、フィリピン北端のアパリに着き、船舶兵の候補生たちを上陸させた。

 停泊中の夜半に、米潜の雷撃を受けたが、輸送船は左右にかわして事なきを得た。翌朝さらに船団がリンガエン湾《ヒリピンのルソン島中西部の湾》の数百メートル沖を通ると米潜の猛烈な雷撃で輸送船四隻が沈んだ。他の輸送船が多くの魚雷をどうにか回避すると、白い航跡を引いた魚雷は海岸に激突して爆発した。

 こうした状況の中で、候補生の一人は、極度の恐怖心からノイローゼになってやせ衰え、食事もとらなくなり、バシー海峡を通過中に病死して水葬にされた。誰も恐怖心の点では、それほど差はなく、ただ肉体的、精神的な感受性と忍耐力の差があるだけのようであった。

 十五日、船団がようやくマニラ港に到着したとき、誰もが九死に一生を得た思いだった。帝楓丸に乗船していた候補生全員は上陸して、マニラ市内の第四航空軍司令部に引率されて行った。市内とマニラ湾では、数日前にグラマン《米軍戦闘機》の大空襲があったとかで、多くの家が焼かれ、椰子の木々が黒焦げになっていた。

 同司令部で私たち五人の候補生は、レイテ島《ヒリピンのルソン島とミンダナオ島の中間に位置する島》のタクロバン飛行場に転属を命じられ、しばらく船便を待つことになった。合志、原口、胡井、平松君らは、セレベス島《インドネシア第4位の大きさの島で現在はスラウエシ島という》マカッサルの第七飛行師団に転属となって再び、帝楓丸にのるということで、互いに幸運を祈って別れた。

 (後に合志君によれば、同君らは十月十七日、帝楓丸に乗船し、グラマンの空襲を受けたが無事にボルネオに着き、十二月末に、シンガポールに到着、第三航空軍に転属した。帝楓丸はその後、米潜に撃沈されたという)。

 九月二十一日~二十五日には、マニラ湾の日本海軍艦艇や輸送船、陸上の軍事施設に対して、グラマンの大編隊による空襲があった。

 そうすると、われわれの輸送船団は、この間隙を縫ってマニラに入出港した訳で、幸運というよりほかはなかった。海軍艦艇にはかなりの被害があったようだった。私は、たまたま、マニラ湾埠頭の近くで、このグラマン大編隊の急降下爆撃を目撃していたが、いずれも極めて大胆で勇敢だった。

 十九年十月頃、マニラでは「南十字星」というダブロイド版の軍の週刊紙が、恐らく従軍報道記者によって発行され兵士たちに配られていた。この新聞に、山下奉文大将(十月六日、ルソン島に着任)が「敵はわが腹中にあり」と述べたと報道されたが、同将軍の言葉を鵜呑みにする者はなく、誰も不安を隠せなかった。当時、この新聞に次のような某氏の排句が掲載されていたことを覚えている。まさに、嵐の前の静けさであった。

  満月へ転進の艇ひたと進む
  砲爆撃密林遂に裸身となり
 (密林とは、もちろん、日本軍のひそむ場所である)。

 やがて十月二十一日、レイテ島に米軍が上陸したというニュースが入った。われわれ侯補生五人は、第四航空軍司令部の係将校から、レイテ島のタクロバン飛行場は米軍に占領されたから、派遣はとりやめ、ルソン島南部のナガ地区《ルソン島マニラから南西の町》の一四七飛行場大隊に転属されるとつげられた。

 この転属の準備をしていると、マニラの飛行場から、レイテ島周辺の米軍艦隊に対して、神風特別攻撃隊《注3》の出撃が始まったと伝えられた。ナガ地区の飛行場は、特攻隊の不時着飛行場といわれていた。当時、われわれの誰も、レイテ戦は日米戦争の「関ケ原」と考えており、ここで日本の連合艦隊がレイテ湾周辺の米艦隊を撃破すれば、日本は少なくとも互角で和睦に持ち込めると期待していた。

 そこで、五名の候補生はまだまだ意気盛んで、早く赴任したいと、十月末の夜、マニラから明治時代のようなのろい汽車に乗り(燃料は椰子の実を乾燥したコプラ)、ナガ地区に向かった。(日中は毎日、グラマンの空襲があり、隠れている以外に手がなかった)。

 途中、フィリピン・ゲリラ《注4》兵の襲撃を警戒しながら、翌朝、ナガ地区の一四七飛行場大隊の警備中隊に到着した。ナガ地区は風光明媚で、ルソン島南端に近く、最南端のレガスピーはレイテ島に近く、マヨン山という美しい火山が煙をたな引かせており、駐屯地から約八キロメートルのところには、高さ約一五〇〇メートルのイサログ山というジャングルに覆われた裾野の広い山がそびえ立っていた。

 私は、先任の見習士官とともに、飛行場の対空射撃小隊の小隊長を命じられ、毎日空襲にやってくるグラマンを射つことになった。十二月になると、レイテ戦のもようは全く伝えられなくなり、恐らく全滅したと考えられていた。当然ながらフィリピン人のゲリラ活動が活発になり、この地区のゲリラ隊長はバドア少佐とのことだった。

注1
潜水艦の駆逐を主任務とし 局地での警備 艦船の護衛に当る小型艦艇

注2 
軍艦艦種の一つで 比較的小型の高速艦であり 魚雷 爆雷等を積載 護衛 警戒 対潜水艦攻撃み当る

注3 
1944年10月 ヒリピンルソン島で 時の第一航空艦隊大西司令長官が一機一艦必殺のゼロ戦での体当たり攻撃を命じ実行したのが 特攻の始まりで 敷島 大和 朝日 山桜隊と命名す

注4 
予め攻撃する敵を定めず 戦線外において 小規模な部隊を運用し 臨機に奇襲 待ち伏せ 後方支援破壊等の攪乱や攻撃を行なう 

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あんみつ姫

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