Re: 備忘の独白
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- 備忘の独白 (kousei2, 2008/2/5 21:52)
kousei2
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草道さんの不参加は計算外で上級生をさしおいての行動もどうかと考えたが、同室の中本鯉三(撫順《ぶじゅん》中)が中学時代から油絵を手がけていたことを聞いていたので委細を話したところ、協力の返事とともに、上級生の 意向より、これから入学してくる連中から有為《ゆうい=才能が有る》の同好者を募ることが急務で、美術部の名のもとに新入生に呼びかけるべきだという力強い意見を述べてくれた。
これでとにかく美術部開設の腹は決まったわけだが、この話を聞きこみ結城三郎が自発的に加入表明してくれたことが更に大きな推進力となった。
句誌「韃靼《だったん》」を刊行し文芸活動を続ける黒水会加入の際の小林といい、美術部創設の糸口を掴《つか》ませた中本といい、私の行動は北寮二号室で寝起きを共にした仲間から始まった次第なので、余談ながら備忘として当時の同室者の名前を記録しておく。
前述の小林、中本のほかに田中久重、瑠璃垣馨、山崎操、露崎亮治、鈴木淳栄、堀田大十、沈徳爾、パルジルまでは確実として田中は楊天賜も同室だったという。また李台昌も二号室だったと思うがポームニム二号での木元眞二郎説は八号室となっている。お互いに記憶の薄れぬうちに出自録は残さるべきだろう。
ともあれ三人寄れば何とやらで、二十二期新入生をターゲットに勧誘ポスターを作り、教室に押しかけて同好者を募って廻《まわ》った。
その結果、山本正則と花田謙二の加入を得たが、二十二期は僅《わず》かこの二人にとどまったのである。
総員五人程度の部活動では同好会に過ぎず、予算も貰《もら》えるわけはなく、客員の上田とし子さんと一緒にスンガリーや露人墓地、文廟《びょう》等にスケッチの足を伸ばしたり、上田邸で茶菓の饗応《きょうおう=もてなし》を受け歓談するくらいがせいぜいだった。それでも自由を抑圧された時世の只中《ただなか》で、人目をはばからず美意識の昂揚《こうよう》にうつつを抜かすことが出来たのは学生時代の貴重な一齣《ひとこま》であったと思う。
越えて昭和十七年(康徳九年)二十三期生の入学にあたり、林功、鈴木友次郎、佐藤一成、松野尾英彦、岩下良一郎、堀内利幸と六名の加入をみ、一挙に部員は倍以上に膨れ上がった。学生課に部費を支給させ、乏しくなったキャンバスや絵具を求めて市内を馳けずり廻《まわ》りもした。そして時あたかも満州建国十周年、秋の学院記念祭にはあらゆる意味をこめて美術展を開こうと部員の衆議は一決し、みんなの意気はまさに旺盛《おうせい》なるものがあった。
美術部総員十一名、この年九月二十五日、二十六日に行われた記念祭には各人の力作が最初にして最後の学院美術展として、簾田弘道の写真展と共に講堂で開催され、大方の好評を得た次第である。アルバム「松花の流れ」一四八頁には誰が提供したのか展覧会後の記念写真が収録されているが、今は貴重な青春のメモランダムとさえ云える。
実は「哈爾浜学院史」の中で林功が美術部について触れているので、最近連絡をとり失念していた仲間の氏名を写真を基に確認したわけで、昔日の部員諸君には改めて久闊を叙し《きゅうかつをじょし=久しぶりに会って話をする》、併せてお詫び申し上げたい。
「美術部はその後武道部関係に押され、芸能祭の舞台背景を描く位しか存在価値がなくなってしまい、次第に消滅の運命を辿《たど》った」と彼は記しているが、ひたすらカタストロフィーに突き進む時局の中にあって、一瞬の光芒《こうぼう》を放ち、漆黒の夏の夜に消え失せた花火に等しい存在でもあった。
(つづく)
これでとにかく美術部開設の腹は決まったわけだが、この話を聞きこみ結城三郎が自発的に加入表明してくれたことが更に大きな推進力となった。
句誌「韃靼《だったん》」を刊行し文芸活動を続ける黒水会加入の際の小林といい、美術部創設の糸口を掴《つか》ませた中本といい、私の行動は北寮二号室で寝起きを共にした仲間から始まった次第なので、余談ながら備忘として当時の同室者の名前を記録しておく。
前述の小林、中本のほかに田中久重、瑠璃垣馨、山崎操、露崎亮治、鈴木淳栄、堀田大十、沈徳爾、パルジルまでは確実として田中は楊天賜も同室だったという。また李台昌も二号室だったと思うがポームニム二号での木元眞二郎説は八号室となっている。お互いに記憶の薄れぬうちに出自録は残さるべきだろう。
ともあれ三人寄れば何とやらで、二十二期新入生をターゲットに勧誘ポスターを作り、教室に押しかけて同好者を募って廻《まわ》った。
その結果、山本正則と花田謙二の加入を得たが、二十二期は僅《わず》かこの二人にとどまったのである。
総員五人程度の部活動では同好会に過ぎず、予算も貰《もら》えるわけはなく、客員の上田とし子さんと一緒にスンガリーや露人墓地、文廟《びょう》等にスケッチの足を伸ばしたり、上田邸で茶菓の饗応《きょうおう=もてなし》を受け歓談するくらいがせいぜいだった。それでも自由を抑圧された時世の只中《ただなか》で、人目をはばからず美意識の昂揚《こうよう》にうつつを抜かすことが出来たのは学生時代の貴重な一齣《ひとこま》であったと思う。
越えて昭和十七年(康徳九年)二十三期生の入学にあたり、林功、鈴木友次郎、佐藤一成、松野尾英彦、岩下良一郎、堀内利幸と六名の加入をみ、一挙に部員は倍以上に膨れ上がった。学生課に部費を支給させ、乏しくなったキャンバスや絵具を求めて市内を馳けずり廻《まわ》りもした。そして時あたかも満州建国十周年、秋の学院記念祭にはあらゆる意味をこめて美術展を開こうと部員の衆議は一決し、みんなの意気はまさに旺盛《おうせい》なるものがあった。
美術部総員十一名、この年九月二十五日、二十六日に行われた記念祭には各人の力作が最初にして最後の学院美術展として、簾田弘道の写真展と共に講堂で開催され、大方の好評を得た次第である。アルバム「松花の流れ」一四八頁には誰が提供したのか展覧会後の記念写真が収録されているが、今は貴重な青春のメモランダムとさえ云える。
実は「哈爾浜学院史」の中で林功が美術部について触れているので、最近連絡をとり失念していた仲間の氏名を写真を基に確認したわけで、昔日の部員諸君には改めて久闊を叙し《きゅうかつをじょし=久しぶりに会って話をする》、併せてお詫び申し上げたい。
「美術部はその後武道部関係に押され、芸能祭の舞台背景を描く位しか存在価値がなくなってしまい、次第に消滅の運命を辿《たど》った」と彼は記しているが、ひたすらカタストロフィーに突き進む時局の中にあって、一瞬の光芒《こうぼう》を放ち、漆黒の夏の夜に消え失せた花火に等しい存在でもあった。
(つづく)