Re: 備忘の独白
投稿ツリー
- 備忘の独白 (kousei2, 2008/2/5 21:52)
kousei2
投稿数: 250
終戦と運命の三択
「丙種合格」《へいしゅごうかく=徴兵検査の最下位、兵役に適さないもの》の不本意な判定に兵役を免れたと思っていた私は国立大学令《=勅令による大学の監督規定》に依り、満州国交通部大臣官房文書科勤務を命じられ、新京(長春)の本庁舎に席をおいた。仕事は乱数表片手に暗号文書の作成や解読である。交通部は現在日本の運輸省、郵政省、建設省の機能を兼ね備えていたので防諜《ぼうちょう=スパイ活動を防ぐ》面で多忙を極めていた。
大学卒という履歴で着任早々委任官(判任官《=官吏の身分の一つ、高等官の下》)として過されたが、勤務の能力は半人前以下である。漸く要領を覚えて職場にも馴《な》れてきた頃、「召集令状が出ているから役所まで取りに来い」という突然の電話に接した。
赤紙というものは届けらるべきもので、貰《もら》いに行くものではないと変な気分で指定の場所に赴いたら、「し号要員トシテ四九四部隊二四カ月ノ教育召集ヲ命ズル」と記し、康徳十一年七月某日の集合日が指定されていた。「し号要員」とは何だろう。丙種合格以下の半端者を集めて何の教育なのか、暑い日盛りの中見送ってくれる人もなく兵営の門をくぐった。早速身体検査がある。
驚くべきことに、その結果胸部疾患の病歴皆無、近視眼により第一乙種に合格変更との託宣。またしても逆転の人形芝居である。喜ぶべきか悲しむべきか、はたまた怒るべきか。気持の収拾に困ったが、所詮は軍隊の中、すべて没法子《メイファーズ=やむをえない》と割り切らざるを得なかった。
入隊後の日曜日の或る日、内藤操が面会に来てくれ、下野賢治が同じ南嶺の七五八〇部隊に入隊していると話した。共に兵科が通信の部隊である。特に四九四部隊は五号型特種無線機を使用してソ連の電波をキャッチする通信隊で深夜作業が多かったように思う。
部隊としては小さい方で、山村隊と吉良隊の二大隊に分かれ、山村隊には映画監督の依田義賢、吉良隊には森繁久禰が同じ「し号要員」として召集されていた。隊長の山村大尉は幼年学校からの陸士出身で、紅潮させてものを言う童顔の若者だった。
応召者が教育召集のため四カ月の入隊に限定されているのを妬《ねた》んでか、古年兵のわれわれに対する反応はまさに五味川純平の小説「人間の条件」そのものであった。
皇軍とか、醜の御楯《しこのみたて=天皇のたてとなるなる身を卑下した言葉》とかの美名の陰で教育に名を借りた新兵凌辱《りょうじょく=はずかしめる》図は理不尽を極め、私自身も折角許された日曜日の外出に前夜の故なき総員ビンタで眼の下に青あざをつくり、食パン一斤を持って娑婆《しゃば》の風に吹かれた屈辱の経験がある。
我慢ができず脱走して衛兵所奥の牢舎所謂《いわゆる》重衛倉《じゅうえいそう》に繋《つな》がれた者もいた。後年森繁久彌のどの自伝を見ても軍隊時代が欠落しているのは、触れたくないこの辺の事情を物語るものと解釈している。
四カ月後一期の検閲が終わり、除隊間近になって私は山村隊長に呼び出された。大隊長直々とは何事と緊張して隊長室に入ったら「皆除隊するが、お前は幹部候補生として推薦するからこのまま残れ」と告げられた。
温情か強制か、一瞬の判断に苦しんだが、隊長に個人の意思を尊重する姿勢を感じたので、私は憶せず辞退の返答をした。人間性を認めず個性を抹殺するのが本質であるが如き軍隊に同調し、その閉鎖社会に留まる気には到底なり得なかったのである。たとえ時宜を得ない行為であったとしても強権に対する反発心が優先したのは、学院精神の発露だったのだろうか。
除隊して再びもとの職場に戻り、非常時下とは言え比較的伸びやかな空気を満喫出来たのも束の間、僅か三カ月後に私は再び赤紙を手にした。
既に新京市内にも空襲警報が鳴り響き、土壇場へと傾斜してゆく戦局は自明で、臨戦体制の召集として今度は本物である。私はひそかに覚悟し独身寮で遺書と遺髪を整え家郷宛《あて》に送った。
応召先は七五八〇部隊である。下野賢治が入隊していたことを内藤から聞いていたので内務班長に話したら、特別の計らいでか下野が私の前に現れた。襟章に座金のついた候補生殿である。前の部隊に残っていたら俺《おれ》もという思いと気おくれが一瞬生じたが、共に語り励ましあい瞬時の邂逅《かいこう=めぐりあい》を惜しんだ。
同じ部隊に居ながら下級兵士の身分では相逢う機会も掴《つか》めず、終戦数年後築地の小料理屋で催されたクラス会で漸くお互いの健在を喜び合ったように思う。
(つづく)
----------------
「丙種合格」《へいしゅごうかく=徴兵検査の最下位、兵役に適さないもの》の不本意な判定に兵役を免れたと思っていた私は国立大学令《=勅令による大学の監督規定》に依り、満州国交通部大臣官房文書科勤務を命じられ、新京(長春)の本庁舎に席をおいた。仕事は乱数表片手に暗号文書の作成や解読である。交通部は現在日本の運輸省、郵政省、建設省の機能を兼ね備えていたので防諜《ぼうちょう=スパイ活動を防ぐ》面で多忙を極めていた。
大学卒という履歴で着任早々委任官(判任官《=官吏の身分の一つ、高等官の下》)として過されたが、勤務の能力は半人前以下である。漸く要領を覚えて職場にも馴《な》れてきた頃、「召集令状が出ているから役所まで取りに来い」という突然の電話に接した。
赤紙というものは届けらるべきもので、貰《もら》いに行くものではないと変な気分で指定の場所に赴いたら、「し号要員トシテ四九四部隊二四カ月ノ教育召集ヲ命ズル」と記し、康徳十一年七月某日の集合日が指定されていた。「し号要員」とは何だろう。丙種合格以下の半端者を集めて何の教育なのか、暑い日盛りの中見送ってくれる人もなく兵営の門をくぐった。早速身体検査がある。
驚くべきことに、その結果胸部疾患の病歴皆無、近視眼により第一乙種に合格変更との託宣。またしても逆転の人形芝居である。喜ぶべきか悲しむべきか、はたまた怒るべきか。気持の収拾に困ったが、所詮は軍隊の中、すべて没法子《メイファーズ=やむをえない》と割り切らざるを得なかった。
入隊後の日曜日の或る日、内藤操が面会に来てくれ、下野賢治が同じ南嶺の七五八〇部隊に入隊していると話した。共に兵科が通信の部隊である。特に四九四部隊は五号型特種無線機を使用してソ連の電波をキャッチする通信隊で深夜作業が多かったように思う。
部隊としては小さい方で、山村隊と吉良隊の二大隊に分かれ、山村隊には映画監督の依田義賢、吉良隊には森繁久禰が同じ「し号要員」として召集されていた。隊長の山村大尉は幼年学校からの陸士出身で、紅潮させてものを言う童顔の若者だった。
応召者が教育召集のため四カ月の入隊に限定されているのを妬《ねた》んでか、古年兵のわれわれに対する反応はまさに五味川純平の小説「人間の条件」そのものであった。
皇軍とか、醜の御楯《しこのみたて=天皇のたてとなるなる身を卑下した言葉》とかの美名の陰で教育に名を借りた新兵凌辱《りょうじょく=はずかしめる》図は理不尽を極め、私自身も折角許された日曜日の外出に前夜の故なき総員ビンタで眼の下に青あざをつくり、食パン一斤を持って娑婆《しゃば》の風に吹かれた屈辱の経験がある。
我慢ができず脱走して衛兵所奥の牢舎所謂《いわゆる》重衛倉《じゅうえいそう》に繋《つな》がれた者もいた。後年森繁久彌のどの自伝を見ても軍隊時代が欠落しているのは、触れたくないこの辺の事情を物語るものと解釈している。
四カ月後一期の検閲が終わり、除隊間近になって私は山村隊長に呼び出された。大隊長直々とは何事と緊張して隊長室に入ったら「皆除隊するが、お前は幹部候補生として推薦するからこのまま残れ」と告げられた。
温情か強制か、一瞬の判断に苦しんだが、隊長に個人の意思を尊重する姿勢を感じたので、私は憶せず辞退の返答をした。人間性を認めず個性を抹殺するのが本質であるが如き軍隊に同調し、その閉鎖社会に留まる気には到底なり得なかったのである。たとえ時宜を得ない行為であったとしても強権に対する反発心が優先したのは、学院精神の発露だったのだろうか。
除隊して再びもとの職場に戻り、非常時下とは言え比較的伸びやかな空気を満喫出来たのも束の間、僅か三カ月後に私は再び赤紙を手にした。
既に新京市内にも空襲警報が鳴り響き、土壇場へと傾斜してゆく戦局は自明で、臨戦体制の召集として今度は本物である。私はひそかに覚悟し独身寮で遺書と遺髪を整え家郷宛《あて》に送った。
応召先は七五八〇部隊である。下野賢治が入隊していたことを内藤から聞いていたので内務班長に話したら、特別の計らいでか下野が私の前に現れた。襟章に座金のついた候補生殿である。前の部隊に残っていたら俺《おれ》もという思いと気おくれが一瞬生じたが、共に語り励ましあい瞬時の邂逅《かいこう=めぐりあい》を惜しんだ。
同じ部隊に居ながら下級兵士の身分では相逢う機会も掴《つか》めず、終戦数年後築地の小料理屋で催されたクラス会で漸くお互いの健在を喜び合ったように思う。
(つづく)
----------------