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備忘の独白

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/5 21:52
kousei2  長老   投稿数: 250
これは哈爾浜《ハルピン》学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された堀田 大十氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。

はじめに
 前回「鞋担」トリオとして裕史、てるを、麦洋を偲ぶ記事を載せ、筆半ばにして後日を約する形をとって今日に及んでしまった。いろいろな反響があって、橋本照夫を主体に調べているが、青森の生家や遺族の消息も不明のまま今だに手がかりすら掴《つか》めていない。

 暫くは続篇の寄稿も覚つかないので編集子に申しわけなく、私の今日にいたる生きざまに、大なり小なり関わった同窓の人々への感謝と懐旧の念をこめ、首題を変えて筆をとってみた。自分史めいて恐縮であり、且つは貴重なポームニム誌上を未熟晦渋《かいじゅう=意味が分かりにくい》な文章で汚す愚かしさを重々承知しながら、あえて諸兄の海容《かいよう=寛大な心で許す》を願う次第である。


学院美術部の始終

 桜花咲きほこる神宮外苑の日本青年会館に集まった二十一期生の面々が東京を起点に京都、伊勢、大連、旅順と長途旅行の末、学院の校庭に第一歩を印したのは下野賢治の記録によると昭和十五年(一九四〇年)四月二十四日である。

引率者の手塚学監から旅行団の解団訓示を受けながら見上げた空は鉛色で寒々と裸の枝を拡げた樹木のたたずまいも尋常でなく、四月下旬とも思えぬ風景に遥《はる》けくも来つるものかなという思いと共に、正直なところ将来への索漠とした不安が過ぎって行った。

 しかし入学後の校内授業や寮生活、或いは諸種の歓迎会などに対応して身をたて直す暇もなく僅《わず》か二カ月足らずを過ごす中に、周囲の風景は新入生を瞳目させるほどの変貌《へんぼう》を遂げていた。

 かつて鉛色で迫った空は晴々と澄みわたり、楡《にれ》が芽吹き青葉若葉が春と夏を一時に到来させた。万物は押しころしていた生命への歓喜を一挙に噴出させた感があり、吟爾浜の街はまさに青春をシンボライズしているようだった。
 私たちは弾むゴム鞠《まり》のように街頭や郊外に繰り出し、この街に殊更の愛着を覚えるようになった。

 そして秋。束の間と言っていいくらいの短い日々であったが、学生たちは記念祭をぶち上げて青春を謳歌《おうか=ほめたたえる》した。
 居住半歳ともなれば蕭条《しょうじょう=もの寂しいさま》の冬さえもー人前のハルビンツィめいた面持ちで寵居の中、詩作や描画に愉悦を求める術さえも覚えた。哈爾浜固有のエキゾチシズムに呪縛《じゅばく》を感じ、その虜になっても厭《いと》わぬ心境であり、特に私はこの時期身内に眠っていた絵心を著しくゆすぶられたものである。

 こうした当初の一年を経過してみて、この詩情と画趣に溢《あふ》れる地にありながら、わが学院内部に美術愛好のサークルがないのに不思議な感じさえ覚え始めた。

 九州の一田舎中学から入学したという自負は、自己飛躍を目堵した軌道にふさわしいダイヤグラフがあるべきだと盲信し、私は早速自分の才能も省みず同室の小林義徳が勧める文芸サークル黒水会に加入している。美術部があったら当然嬉々《きき》として参加したであろう。

 私に美術部創設の夢がふくらみ始めた背景には、二十期の草道勲さんと上田裕二さんの姉とし子さんの存在がある。
 時期としては二十二期生新入学前を外してはないとひそかに定め、かねて油絵をものすることで知っていた草道さんを下宿先に訪ね、上級生として中心的行動をして欲しいと極力頼んだが、彼は派手な行動は性に合わぬと賛意を示さず、加入すら拒否する姿勢をくずさなかった。

勝手かも知れぬが、率先賛同協力してくれるものと信じていただけに、描いていた先輩像は微塵《みじん》と砕け散り、空しく辞去せざるを得なかった。予測外のことではあったが、四カ月後の関特演動員と従軍、そして戦死という受動的で不運だった彼の人生にいささかなりとも関わった気がして終生忘れられない人物の一人である。

 上田とし子さんは抒情《じょじょう》画家として著名な松本かつぢに師事し、戦後は日本漫画協会の理事となり、一時期瑠璃垣馨の推輓《すいばん=人を推挙する》で朝日新聞に漫画「ボン子ちゃん」を連載した専門画家であるが、当時東京の戦禍を逃れて両親の許に帰略し、いささか無聊《ぶりょう=たいくつ》中だったので仲間として一緒に絵の勉強をしてゆくことに極めて意欲的だった。

                         (つづく)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/5 21:55
kousei2  長老   投稿数: 250
草道さんの不参加は計算外で上級生をさしおいての行動もどうかと考えたが、同室の中本鯉三(撫順《ぶじゅん》中)が中学時代から油絵を手がけていたことを聞いていたので委細を話したところ、協力の返事とともに、上級生の 意向より、これから入学してくる連中から有為《ゆうい=才能が有る》の同好者を募ることが急務で、美術部の名のもとに新入生に呼びかけるべきだという力強い意見を述べてくれた。

これでとにかく美術部開設の腹は決まったわけだが、この話を聞きこみ結城三郎が自発的に加入表明してくれたことが更に大きな推進力となった。

句誌「韃靼《だったん》」を刊行し文芸活動を続ける黒水会加入の際の小林といい、美術部創設の糸口を掴《つか》ませた中本といい、私の行動は北寮二号室で寝起きを共にした仲間から始まった次第なので、余談ながら備忘として当時の同室者の名前を記録しておく。

 前述の小林、中本のほかに田中久重、瑠璃垣馨、山崎操、露崎亮治、鈴木淳栄、堀田大十、沈徳爾、パルジルまでは確実として田中は楊天賜も同室だったという。また李台昌も二号室だったと思うがポームニム二号での木元眞二郎説は八号室となっている。お互いに記憶の薄れぬうちに出自録は残さるべきだろう。

 ともあれ三人寄れば何とやらで、二十二期新入生をターゲットに勧誘ポスターを作り、教室に押しかけて同好者を募って廻《まわ》った。
 その結果、山本正則と花田謙二の加入を得たが、二十二期は僅《わず》かこの二人にとどまったのである。

総員五人程度の部活動では同好会に過ぎず、予算も貰《もら》えるわけはなく、客員の上田とし子さんと一緒にスンガリーや露人墓地、文廟《びょう》等にスケッチの足を伸ばしたり、上田邸で茶菓の饗応《きょうおう=もてなし》を受け歓談するくらいがせいぜいだった。それでも自由を抑圧された時世の只中《ただなか》で、人目をはばからず美意識の昂揚《こうよう》にうつつを抜かすことが出来たのは学生時代の貴重な一齣《ひとこま》であったと思う。

 越えて昭和十七年(康徳九年)二十三期生の入学にあたり、林功、鈴木友次郎、佐藤一成、松野尾英彦、岩下良一郎、堀内利幸と六名の加入をみ、一挙に部員は倍以上に膨れ上がった。学生課に部費を支給させ、乏しくなったキャンバスや絵具を求めて市内を馳けずり廻《まわ》りもした。そして時あたかも満州建国十周年、秋の学院記念祭にはあらゆる意味をこめて美術展を開こうと部員の衆議は一決し、みんなの意気はまさに旺盛《おうせい》なるものがあった。

 美術部総員十一名、この年九月二十五日、二十六日に行われた記念祭には各人の力作が最初にして最後の学院美術展として、簾田弘道の写真展と共に講堂で開催され、大方の好評を得た次第である。アルバム「松花の流れ」一四八頁には誰が提供したのか展覧会後の記念写真が収録されているが、今は貴重な青春のメモランダムとさえ云える。

 実は「哈爾浜学院史」の中で林功が美術部について触れているので、最近連絡をとり失念していた仲間の氏名を写真を基に確認したわけで、昔日の部員諸君には改めて久闊を叙し《きゅうかつをじょし=久しぶりに会って話をする》、併せてお詫び申し上げたい。

「美術部はその後武道部関係に押され、芸能祭の舞台背景を描く位しか存在価値がなくなってしまい、次第に消滅の運命を辿《たど》った」と彼は記しているが、ひたすらカタストロフィーに突き進む時局の中にあって、一瞬の光芒《こうぼう》を放ち、漆黒の夏の夜に消え失せた花火に等しい存在でもあった。

                   (つづく)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/5 21:58
kousei2  長老   投稿数: 250
 終戦と運命の三択

 「丙種合格」《へいしゅごうかく=徴兵検査の最下位、兵役に適さないもの》の不本意な判定に兵役を免れたと思っていた私は国立大学令《=勅令による大学の監督規定》に依り、満州国交通部大臣官房文書科勤務を命じられ、新京(長春)の本庁舎に席をおいた。仕事は乱数表片手に暗号文書の作成や解読である。交通部は現在日本の運輸省、郵政省、建設省の機能を兼ね備えていたので防諜《ぼうちょう=スパイ活動を防ぐ》面で多忙を極めていた。

 大学卒という履歴で着任早々委任官(判任官《=官吏の身分の一つ、高等官の下》)として過されたが、勤務の能力は半人前以下である。漸く要領を覚えて職場にも馴《な》れてきた頃、「召集令状が出ているから役所まで取りに来い」という突然の電話に接した。

 赤紙というものは届けらるべきもので、貰《もら》いに行くものではないと変な気分で指定の場所に赴いたら、「し号要員トシテ四九四部隊二四カ月ノ教育召集ヲ命ズル」と記し、康徳十一年七月某日の集合日が指定されていた。「し号要員」とは何だろう。丙種合格以下の半端者を集めて何の教育なのか、暑い日盛りの中見送ってくれる人もなく兵営の門をくぐった。早速身体検査がある。

 驚くべきことに、その結果胸部疾患の病歴皆無、近視眼により第一乙種に合格変更との託宣。またしても逆転の人形芝居である。喜ぶべきか悲しむべきか、はたまた怒るべきか。気持の収拾に困ったが、所詮は軍隊の中、すべて没法子《メイファーズ=やむをえない》と割り切らざるを得なかった。

 入隊後の日曜日の或る日、内藤操が面会に来てくれ、下野賢治が同じ南嶺の七五八〇部隊に入隊していると話した。共に兵科が通信の部隊である。特に四九四部隊は五号型特種無線機を使用してソ連の電波をキャッチする通信隊で深夜作業が多かったように思う。

 部隊としては小さい方で、山村隊と吉良隊の二大隊に分かれ、山村隊には映画監督の依田義賢、吉良隊には森繁久禰が同じ「し号要員」として召集されていた。隊長の山村大尉は幼年学校からの陸士出身で、紅潮させてものを言う童顔の若者だった。

 応召者が教育召集のため四カ月の入隊に限定されているのを妬《ねた》んでか、古年兵のわれわれに対する反応はまさに五味川純平の小説「人間の条件」そのものであった。

皇軍とか、醜の御楯《しこのみたて=天皇のたてとなるなる身を卑下した言葉》とかの美名の陰で教育に名を借りた新兵凌辱《りょうじょく=はずかしめる》図は理不尽を極め、私自身も折角許された日曜日の外出に前夜の故なき総員ビンタで眼の下に青あざをつくり、食パン一斤を持って娑婆《しゃば》の風に吹かれた屈辱の経験がある。

我慢ができず脱走して衛兵所奥の牢舎所謂《いわゆる》重衛倉《じゅうえいそう》に繋《つな》がれた者もいた。後年森繁久彌のどの自伝を見ても軍隊時代が欠落しているのは、触れたくないこの辺の事情を物語るものと解釈している。
 四カ月後一期の検閲が終わり、除隊間近になって私は山村隊長に呼び出された。大隊長直々とは何事と緊張して隊長室に入ったら「皆除隊するが、お前は幹部候補生として推薦するからこのまま残れ」と告げられた。

 温情か強制か、一瞬の判断に苦しんだが、隊長に個人の意思を尊重する姿勢を感じたので、私は憶せず辞退の返答をした。人間性を認めず個性を抹殺するのが本質であるが如き軍隊に同調し、その閉鎖社会に留まる気には到底なり得なかったのである。たとえ時宜を得ない行為であったとしても強権に対する反発心が優先したのは、学院精神の発露だったのだろうか。

 除隊して再びもとの職場に戻り、非常時下とは言え比較的伸びやかな空気を満喫出来たのも束の間、僅か三カ月後に私は再び赤紙を手にした。

 既に新京市内にも空襲警報が鳴り響き、土壇場へと傾斜してゆく戦局は自明で、臨戦体制の召集として今度は本物である。私はひそかに覚悟し独身寮で遺書と遺髪を整え家郷宛《あて》に送った。

 応召先は七五八〇部隊である。下野賢治が入隊していたことを内藤から聞いていたので内務班長に話したら、特別の計らいでか下野が私の前に現れた。襟章に座金のついた候補生殿である。前の部隊に残っていたら俺《おれ》もという思いと気おくれが一瞬生じたが、共に語り励ましあい瞬時の邂逅《かいこう=めぐりあい》を惜しんだ。

同じ部隊に居ながら下級兵士の身分では相逢う機会も掴《つか》めず、終戦数年後築地の小料理屋で催されたクラス会で漸くお互いの健在を喜び合ったように思う。

                         (つづく)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/2/5 21:59
kousei2  長老   投稿数: 250
 
 東部満ソ《満州(中国東北部)とソビエト社会主義共和国連邦》国境の雲行きが怪しくなり七五八〇部隊の一部とともに横道河子近郊に駐屯することになった。その兵員の一人であった私のところに十六期の先輩丁南信四郎さんが現れたのは奇縁とも言うべきか。兵長である彼が兵員名簿の中に私の名前を発見して内務班を訪れた由で、助教授であった彼に思わぬところで再会出来た喜びと異常環境下なので大いに意を強くしたものである。

 主力を南方に転戦させた関東軍は、その後日ならずして国境線を突破し怒涛《どとう=荒れ狂う波》の勢いで侵攻して来たソ連軍に対し、何ら抵抗の術《すべ》もなく後退を続け、後方通信部隊に過ぎないわれわれにも急遽《きゅうきょ》原隊復帰の命令が下った。貨車輸送で逃れるように哈爾浜を経由新京に着いた部隊が、八月十五日市内の大同公園で小休止中、終戦の詔勅がラヂオの電波に乗ったことを聞き知った。

 とりあえず南嶺の原隊に戻った兵隊たちは未曽有《みぞう=未だ起こったことが無い》の敗戦という憂目に遭い、外地で存在価値を失った軍隊の中に身を置いている現実に対し、いずれもこれからの身の去就にとまどう混迷に追い込まれたのである。

 点呼も訓練も皆無、ただ食べて寝るだけの内務班に悲観的な流言のみが漂っていた。

 二日後、「全テノ兵ハ現地除隊トスル。軍隊輸送ヲ以テ内地帰還ヲ希望スル者ハ申シ出ヨ」という通達があった。その夜突然南先輩が深刻な顔で現れ、「内地に帰ってもアメリカに占領されている。ここに残ってもソ連の占領下に奴隷のように酷使されるのは明らかだ。俺は戦友と一緒に八路軍に入るか馬賊の道を選び、興安嶺に向かう。堀田も同行したらどうだ。」との勧誘で迫った。

 折りから野坂参三なる人物が八路軍の中枢にいて中支方面の旧日本軍を糾合東征し、内地占領のアメリカ軍に反撃するらしいという噂《うわさ》まで流れた。先輩の意見もさも有りなんである。日本内地から応召または出征して来た大半の兵士たちは躊躇《ちゅうちょ=ためらい》なく軍隊輸送での内地帰還を望んでいるようだ。私の気持も大いにこれに傾いた。

 しかし国破れては暗澹《あんたん》たる前途に生命の保証すら予測出来ぬ事態に直面し、はたまた現地に留まるべきか、三つに一つの選択である。重く立ちはだかった人生の岐路に直面し、思い悩んだ末、私は一番不安定な現地離隊の道を選んでいた。

 いつまでも軍隊という非人間的権力構造に縋って生き抜くよりも、三年有余の哈爾浜時代と新京での通算七カ月に及ぶ市民生活での自信をもとに、如何《いか》に異国と変貌《へんぼう》しようとも、この地に居留する同胞の群にこの身を投じ、人間らしい自分自身の活路を見つけたいという意思作用は、かつて文芸に親しみ美術を愛した一リベラリストの究極の選択でもあった。

 米、味噌《みそ》、調味品、軍手軍足《=手袋・靴下》にいたるまで持てるだけのものを軍用毛布に包みこみ、背中に負ってさながら蟻《あり》のごとく兵営の門を後にしたのは昭和二十年八月十九日の朝まだきであったと記憶している。

                           (おわり)
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