Re: 備忘の独白
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- 備忘の独白 (kousei2, 2008/2/5 21:52)
kousei2
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東部満ソ《満州(中国東北部)とソビエト社会主義共和国連邦》国境の雲行きが怪しくなり七五八〇部隊の一部とともに横道河子近郊に駐屯することになった。その兵員の一人であった私のところに十六期の先輩丁南信四郎さんが現れたのは奇縁とも言うべきか。兵長である彼が兵員名簿の中に私の名前を発見して内務班を訪れた由で、助教授であった彼に思わぬところで再会出来た喜びと異常環境下なので大いに意を強くしたものである。
主力を南方に転戦させた関東軍は、その後日ならずして国境線を突破し怒涛《どとう=荒れ狂う波》の勢いで侵攻して来たソ連軍に対し、何ら抵抗の術《すべ》もなく後退を続け、後方通信部隊に過ぎないわれわれにも急遽《きゅうきょ》原隊復帰の命令が下った。貨車輸送で逃れるように哈爾浜を経由新京に着いた部隊が、八月十五日市内の大同公園で小休止中、終戦の詔勅がラヂオの電波に乗ったことを聞き知った。
とりあえず南嶺の原隊に戻った兵隊たちは未曽有《みぞう=未だ起こったことが無い》の敗戦という憂目に遭い、外地で存在価値を失った軍隊の中に身を置いている現実に対し、いずれもこれからの身の去就にとまどう混迷に追い込まれたのである。
点呼も訓練も皆無、ただ食べて寝るだけの内務班に悲観的な流言のみが漂っていた。
二日後、「全テノ兵ハ現地除隊トスル。軍隊輸送ヲ以テ内地帰還ヲ希望スル者ハ申シ出ヨ」という通達があった。その夜突然南先輩が深刻な顔で現れ、「内地に帰ってもアメリカに占領されている。ここに残ってもソ連の占領下に奴隷のように酷使されるのは明らかだ。俺は戦友と一緒に八路軍に入るか馬賊の道を選び、興安嶺に向かう。堀田も同行したらどうだ。」との勧誘で迫った。
折りから野坂参三なる人物が八路軍の中枢にいて中支方面の旧日本軍を糾合東征し、内地占領のアメリカ軍に反撃するらしいという噂《うわさ》まで流れた。先輩の意見もさも有りなんである。日本内地から応召または出征して来た大半の兵士たちは躊躇《ちゅうちょ=ためらい》なく軍隊輸送での内地帰還を望んでいるようだ。私の気持も大いにこれに傾いた。
しかし国破れては暗澹《あんたん》たる前途に生命の保証すら予測出来ぬ事態に直面し、はたまた現地に留まるべきか、三つに一つの選択である。重く立ちはだかった人生の岐路に直面し、思い悩んだ末、私は一番不安定な現地離隊の道を選んでいた。
いつまでも軍隊という非人間的権力構造に縋って生き抜くよりも、三年有余の哈爾浜時代と新京での通算七カ月に及ぶ市民生活での自信をもとに、如何《いか》に異国と変貌《へんぼう》しようとも、この地に居留する同胞の群にこの身を投じ、人間らしい自分自身の活路を見つけたいという意思作用は、かつて文芸に親しみ美術を愛した一リベラリストの究極の選択でもあった。
米、味噌《みそ》、調味品、軍手軍足《=手袋・靴下》にいたるまで持てるだけのものを軍用毛布に包みこみ、背中に負ってさながら蟻《あり》のごとく兵営の門を後にしたのは昭和二十年八月十九日の朝まだきであったと記憶している。
(おわり)