@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治 その2

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治 その2

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/24 7:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 さて、単独航海が不可能となった本船は、船団に組み込まれて北朝鮮の潜を目指す事となり、能登半島の七尾北湾(七尾湾の中央にある能登島により、湾は南北に分かれている)で編成した船団は、駆逐艦の護衛のもとにそこを抜錨(ばっぴょう)したのは終戦も間近い昭和20年8月の初旬であった。戦時歌謡の文句にある「あゝ堂々の輸送船……」に程遠い大小取りまぜた生き残りの中古船であったが、その中で私が次席通信士として乗り組んでいた日本郵船の江ノ島丸(6400トン)は大きい方で船団の殿(しんがり)をつとめる重要な位置についていた。船団の大半が湾口を出て、殿の本船が湾口にさしかかったとき、通信室で当直中の私は、「ズシーン」という鈍い音と、多少の衝撃を感じたが、本船は何事も無かったように航行している。やがて芹沢局長(局長とは通信長のこと。船舶無線電報局の長という事で船では局長が慣用語であった)が「本船は磁気機雷らしきものの海中の爆発により、機関の一部を損傷したので湾内へ引き返し修理をすることとなった」との情報を伝えてくれた。こうして本船は又元の湾内へ引き返し、海岸近くに仮泊(かはく)して機関を修理することとなったのである。しかし、本船を除く他の船は駆逐艦に護衛され、北朝鮮の清津港の沖に達したとき、突如参戦したソ連航空機の攻撃により壊滅状態になった、との事であるが、それを風の便りに聞いたのは随分あとの事である(これが事実とすれば私達は九死に一生を得たことになる)。

 我々はそのような事は露知らず、しばしの自由と休息を楽しんだ。機関の故障復旧の見通しは立たず、芹沢局長は家族を心配して東京郊外の実家へ帰省した。ここ七尾湾は白砂青松(はくしゃせいしょう)、風光明婿な別天地で、爆音一つ聞こえず、苛烈な戦争が今行われているとは想像できない時間と空間があった。晴天続きの炎天下、我々は船のタラップから澄み切った海に飛び込んだり、付近の海岸迄泳ぎ上陸し、海岸を散策したり、又近くの町(穴水町と思われる)や村落迄足を運んだりしたが、人影を殆ど見掛ける事もなく、森閑(しんかん)として蝉の声だけが賑やかであった。そんな或る日、例の仲間2、3人と泳ぎ疲れて付近の海岸近くにある寺の御堂に腰を下ろし休息していると、庫裏(くり)から一人の老婦人が出てきて、茶菓をもって歓待し、「この辺は壮年や若い男女も出征や徴用により殆ど出て行き、話し相手も居なく大変淋しくなりました。話し相手に度々来て下さい」と云うのであった。

 この様な事もあって炎天が続いた8月15日の昼、我々は船内でポツダム宣言を受諾し無条件降伏を決定した天皇陛下の玉音放送を聞いた。しかし、それ以前にも私は通信室の短波受信機による海外放送で、日本の敗戦は時間の問題であることを知っていたので別に驚きは無かったが、この決定により祖国と自らの将来については全く不明となり運を天に委せる、という心境となった。

 秋風が立ち始めた頃、私は意を決し生死を共にした本船に別れを告げて郷里(新潟県)へ帰った。

  条件検索へ