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終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治 その3

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通常 終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治 その3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/25 8:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 翌、昭和二十一年、家で久し振りの正月を楽しんでいた私に-通の至急電報が舞い込んだ。「マッカーサーの命令により……」とする乗船指令書であった。当時、泣く子も黙ると云われた日本の占領軍最高司令官(極東軍最高司令官)マッカーサー将軍の命令は絶対であり、私はこうして日本の重要な戦後処理業務の一つである海外からの引揚者、復員軍人の輸送業務に従事することとなった。終戦前後の混乱期は汽車の切符も入手困難であったが、この電報を提示することにより容易にそれを手にした私は、指定された乗船港の横浜へ向かった。途中眼にした東京、横浜等の市街地は一面焼け野原の惨状で、焼け残った食堂や堀立小舎(ほったてごや)の前に、薄い紙切れ同然の食券を大切に握りしめた人達が長蛇の列をなし、順番を待っているのである。そして自分の目玉が写る程薄い重湯のような一杯の丼を、あっという間に畷り込むと、又列の後ろに並び空腹を満たそうとするのであった。人々は明日への希望より、とに角、今日生き延びることに懸命だったのである。

 私は、横浜港で指定された船に到着すると、思いもかけず江ノ島丸で別れた芹沢局長が待っていた。私は芹沢局長の好意によりアメリカ貸与のリバティ型汽船(7200トン)に乗り組み再び一緒に働くことになった。

 そして、戦時中のMAM(潜水艦情報のこと、JJCから一定の時間と周波数により、敵潜水艦の出没位置が暗号(数字)で放送される。航海中の全船舶はその受信を義務づけられていたと思う)や赤表紙の暗号書(前記のMAM暗号解読書、及び遭難や被害を受けた場合に打電する暗号作成書)及びライフジャケットから解放されて、伸び伸びと働くことができた。中国の上海から福岡への復員輸送では、中支派遣軍に一兵士として所属していた次兄に会う事はできなかったが、福岡で進駐していた米兵が、厳冬中にもかゝわらず、上半身裸のまゝ球技に興じている姿には一驚(いっきょう)した。当時の日本人は食べるに食無く、満足に着る物も無い状態で寒い冬は檻複(ぼろ)を沢山纏(まと)って着ぶくれ状態で寒さを凌ぐ姿を見慣れていたので、彼等の元気溌刺(はつらつ)たる姿にただ呆然とするのみであった。
 戦勝国と敗戦国の差をまざまざと見せつけられ、「第一に食糧事情が違うのだ」私はそう結論づけてそこを去った。

 そして、その後、かつて、日米航空決戦場であったニューブリテン島のラバウルからの復員輸送に従事したが、港近くのラバウル冨士(200米程の火山で、富士山に似ていることから、その名がつけられ、又花吹山とも呼称された)をスケッチする等して戦後の解放感を味わうことができた。このラバウルは嘗て日本海軍航空隊の前線基地で、付近では日米海軍航空機による死闘が繰り返され、昭和18年4月18日、連合艦隊司令長官、山本五十六はここラバウル飛行場から前線視察に飛び立ち、ブーゲンビル島上空において敵機に撃墜され戦死したのであるが、本船が入港した当時はこのラバウル富士も薄い煙を上げ、禿げた山容を赤道直下の太陽に晒し、何事も無かったように静寂であった。

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