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終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治 その4

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通常 終戦に想うこと(終戦前後の体験記) 倉井永治 その4

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/26 14:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 こうして私は多くの同胞(かつて日本の占領地、植民地等(満州を含む)で働いていた引揚者や復員軍人で、その総数は約625万人とも云われている)を内地へ運ぶ一端を担ったが、総ての名誉と地位と財産等を放棄し、裸一貫となったこれ等の人々も、やがて日本の復興に大きく寄与する一員となった事を忘れてはならない。
 しかし、当時の日本はこれ等の人々の流入による人口急増もあって、更に貧困と混乱に拍車がかかり、人々はただ食と職を求めて右往左往するのみであった。

 その後私は海上保安庁が掲げる「正義・仁愛」の旗の下で、500kHz、2091kHz、2182kHz、による遭難通信、緊急通信等の聴守運用に日夜を分かたず神経をすり減らしたが、今振り返ってみると終戦前後のあの短い一時期は、私の青春時代とも重なって緊張した空気の中でも楽しい時間であった。

 1895年(明治28年)マルコニーが実用化の道を拓き、我が国では1905年(明治38年)5月27日、海軍の哨鑑信濃丸が「敵鑑見ユ」を発信し、又1912年(明治45年)4月14日、当時世界一の豪華客船タイタニック号が発した遭難通信により、一躍時代の寵児として歓迎され、大いに利用されてきたモールス符号による無線電信も、情報通信分野の飛躍的な進展によって1999年(平成11年)1月を最後に、約一世紀に及ぶ実績を惜しまれながら永遠に姿を消し、歴史の-頁にその名を留める存在となったが、その素朴にして個性豊かな通信手段は、人類に夢と希望を与え、悲喜交々(ひきこもごも)のドラマを残し、それに携わった人々によって永遠に語り継がれることとなった。

 なお最後に祖国を信じて戦禍に倒れ、職に殉じた幾多の先輩、同僚を偲び、そして僭越ではあるが、今は亡き尊敬する局長、芹沢喜代巳さんについて少し語らせて頂きたい。芹沢さんはかつて戦前、花形の欧米航路でも着用していたと思われる古い制服をいつも着込んで、瓢然(ひょうぜん)と通信室へ現れ、黙々と仕事をこなし、時には軽妙な冗談も飛ばす痩身長躯(そうしんちょうく)の好好爺(こうこうや)であった。そして着用している制服の袖口はすり切れ、巻かれている金モールは腿(あ)せてはいるが意に介せず、ブカブカの古色蒼然たる制帽を頭にのせ乍ら局長室から出てくる姿が彷彿するのである。戦争がなくて、平和な時代が続いていたなら花形航路を十分満喫できたであろうにと同情の念に耐えない。

                  
 息が切れて手を休め、腰を伸ばし乍ら鍬(くわ)に寄りかかり汗を拭く、まだ一畝(うね)の半分も耕していない。しかし、隣の小さな畑にはナス、トマト、キュウリ等の苗が整然と植えられ、スクスクと成長している。その支柱も見事に組み立てられ、幾何学模様を形成している。私は満足してそれ等を眺めた。真っ青な南の空には白い雲が浮かんでいる。平和な風景がここにあった。これでよいのか、私はそれを眺めるや一瞬浮かんだ連想を断ち切り、手に唾して再び鍬を握りしめるのであった。

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