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Re: 「特集」私が小学生だった頃(マーチャン)

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通常 Re: 「特集」私が小学生だった頃(マーチャン)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/7 16:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「ワタシが国民学校一年生だった頃」

 私は当時、東京・杉並の阿佐ヶ谷というところに住んでいました。
 ここは特別、お金持ちの住む町ではありませんでしたか、当時の言葉で言えば「インテリ階級」のたくさん住んでいる町でした。
 ただ、我が家は、平凡なサラリーマン家庭でしたが。

 この阿佐ヶ谷駅近くの、国民学校《=小学校は戦時中国民学校となった》に、昭和17年に入学しました。

 ・1年のときは、服装は自由で、子どもらしいワンピースなどで通学しました。
  2年生になると、モンペ《=袴に似たズボン、労働服》とスモックを着ることが義務付けられました。
      
 ・履物は、ズックの(布製の)運動靴でした。紐はついていませんでした。

 ・カバンは、ランドセルでした。それと、ズックの「ぞうり袋」(これは、校内で履く「上履き」を入れます)。

 ・入学式へは、母と一緒に行きました。
  ただ、普段は、地区別の班ごとの集団登校で、六年生が引率して登校しました。
  帰宅は、別々です。

 ・クラスは1年、2年は共学でした。
  お隣の席は男の子。産婦人科の開業医の長男坊で、ご本人も、同じ場所で現在も開業しています。

 ・お昼は、入学当時は「お弁当」。しばらくすると、この学校は「給食モデル校」になりました。
  すでに食糧難の時代《=戦争のため人手不足や輸入停止により食糧は不足した》が始まっていましたが「鮭缶入りご飯」や「アヒルの肉(校庭で飼育していました)の汁など充実していました。軍《=当時の日本軍》からの放出物資《ほうしゅつぶっし=食糧をはじめ多くの物資は自由に入手できなかったが軍の方針により特別に支給されたもの》がきているとの話を聞いたおぼえがあります。
  だんだん、内容は悪くなり、直《すぐ》に廃止になりました。

  それから「肝油」と「ジミ錠」というクスリが毎日支給されました。栄養剤だったのでしょうか。将来の兵士の体位向上のためだったのでしょうね。

 ・教科書は、新規購入です。
  実は、この年度から「小学校」は「国民学校」と名を変えただけでなく、カリキュラムなども戦時色の濃いものに大幅に変わっていました。
  そのため、兄・姉の「おさがり」は使えなかったのです。
  国語の教科書は「あかい あかい あさひ あさひ」で始まっているものでした。

  音楽の授業も、劇的に変わりました。
  「ドレミ」に変わって「ハニホ」になったのです。
  教科書の歌も「工場だ 機械だ 鉄だよ 音だよ」「おとうさんは出征 おかあさんと四人で」などというあまり情緒のない歌が増えました。

 ・学校への距離は、幸いなことに、歩いて10分程度でした。

・担任の先生は、おばちゃま風。ご主人は出征中で、おばあさまの介護をしながら、3人の子どもさんの世話をしつつ、先生をしておられました。
  「お仕置き」は「ピンタ」でした。でも、ふだんはやさいしい先生で、遠足の帰りに気分が悪くなったときも家まで負ぶってつれて帰ってくださいました。

 昭和17年、国民学校入学。
 東京都・杉並区。
 女性。 マーチャン

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編集者 (代理投稿)

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