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釜山府外史:遊びと娯楽(米田)-1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/2 12:55
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
韓国のgarishさんのご紹介で、京都の米田さんから
釜山在住当時の貴重な資料を頂戴しました。
代理で掲載いたします。
***********

当時の子供は遊びの場所に恵まれ、色々な遊びをして
楽しむ事が出来た。

それにしても餓鬼《がき》大将の役割は無視できない。当時の
男児の遊びは今の子供のそれに比べると単純なように
見えるが中々に熟練を要した。

・独楽《こま》廻し・・・・釜山では木の芯に鉄の輪が付いた、
内地ではお目に掛り難い代物を使った。鉄の輪の質量
によって独楽の回転は息が頗る《すこぶる》長い。従って木のみの
独楽に比べるとダイナミックな独楽喧嘩が出来た。

鉄の輪は鋳物《いもの》だから比較的よく割れた。勿論、独楽喧嘩は割るのが主目的である。

また、独楽の曲技をもよく練習した。
ソーメン掛け、チョン掛け、大振り、小振り、股くぐり
などが出来れば先ず先ずであった。独楽のサイズは1号
から7号まであり、順に大きく、40銭位で買えた。
長手通り「深沢玩具店」で年末、親父に買ってもらった。

・凧《たこ》揚げ・・・四角で中央に丸い穴があいている朝鮮風
である。尻尾を付けると素人と見られ恰好《かっこう》が悪いので尻尾は付けない。
だが尻尾無しでも凧は回転しないように糸付けは肝要で
ある。

喧嘩独楽と同様、凧揚げも喧嘩凧は必須で揚げれば凧合
戦を挑《いど》まれる。糸の切れた凧は所有権を失い、拾い勝ち
という不文律《ふぶんりつ=暗黙の了解事項》があった。

己の凧を守るには他の凧の糸を切る他に術《すべ》はなく、他の凧の糸を切るために己の糸にビードロを付けた。ビードロ付けは硝子粉末を均一に付着させるノウハウが人それ
ぞれで、秘法もそれぞれが持ち合わせているが筆舌《ひつぜつ=文章と言葉》は困難。

・虫捕り・・夏になると龍頭山、金剛寺の山などで蝉を
取った。釜山には何故かミンミン蝉が多くいた様に思う。
キリギリスは草むらの多い緑町天馬山に捕りに行った。

子供の頃の遊びは多種多様で、ゴム銃(パチンコ)、竹ト
ンボ、竹馬、石当て、ラムネ(ビー玉)、パチンコ(面子)
ドスケス(軍事カルタ)、チョン蹴《け》りなどでよく熱中した。

ゴム銃はY字型、木の股《また》の採取から始まるが良い形の物が見つからず山の中を駆けずり回り苦労した。これさえ
入手出来れば後は簡単、薬屋で乳ゴムを買い、古靴かバ
ンドから皮を調達すれば完成も同然である。

ゴム銃は雀を落とすを目的としたが至難の業《わざ》に近い。毎日、空き缶を標的に練習したが犬や猫に当てるのが精々であった。そのうちに空気銃が欲しくなった。

工業学校入学の祝いに釜山駅から警察よりの電車道に「
朝鮮火薬銃」という店があり、その店で30円程で手に
入れた。物資不足で玉は比較的簡単に自製できた。

大橋通りの海岸付近に大きな穀物倉庫があり、此処に多
数の鳩が群れていた。狙《ねら》い撃ちで5~6羽を袋に入れて
帰り、家族の栄養向上に役立てた。

物資不足の折、ローラースケートを入手した。車輪が鉄
製なので大変な音を出した。級友の上田君などを仲間に
して大庁通りから実践女学校前の坂道を轟音《ごうおん》を立てて幾度か駆け降りた。

             続く

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/2 20:38
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。

**********
大人の遊びといえば先ず、風俗関係という事になろうか。
カフェーでは赤玉の本店が昭和館の近所にあり、南浜と
駅付近に支店があった。南浜支店には小学同級生が居て
色々な話を聞いた。赤玉は釜山以外の朝鮮各地に系列の
カフェーを開店していたそうだ。

幸町には天勝とアポロがあり小学同級生の姉と、うちの
近所の姉さんがアポロに出ていた。天勝の南側長手通り
を下がった所に麗人会館とコンパルが店を構えていた。
当時カフェーに出ている女性は女給さんと呼ばれ、着物
姿が多く、洋装は少なかった。給料取りにとってカフェ
ーはコーヒーを飲む訳でもなく安い遊びではなかったと
思う。

南浜には多数の料亭、待合、置屋が軒を連ねて券番
(見番、検番)がこれを束ねていた。券番には人力車が
あって、置屋から料亭や待合に行く芸者を乗せて運ん
だ。昔、南浜を埋め立てる前はこの色町の裏は直ぐ海
だった。

東莱温泉にも料亭があり、芸者が居て券番が束ねてい
た。釜山のタクシーは東莱行きの客を上客としていた。

緑町と言えば遊郭を思い出す。ここには30軒の店が
あり、多くの娼妓《しょうぎ=遊女》がいた。
店には娼妓の大きな写真を並べ遊客は之を見て相手を選んだ。
牧の島にも小さな遊郭があった。釜山大橋が出来る前、
遊客は南浜から州岬へ渡船に乗って行ったのであろうか。

西面にある競馬場は春と秋にレースを開催した。その時
期になると市内の各所にポスターが貼り出され、開催日
を予告していた。

当日の朝になると、大きな音を出す花火を打ち上げて、
府民に競馬のある事を知らせる。
親父に連れられて何回か競馬場に足を運んだ事がある。
ある日の馬券の売上高が3万円とか4万円と言うのを
聞いたことがある。

冨平町と西町辺りにパチンコ屋が出来ては潰《つぶ》れた。最低1銭で遊べた当時、子供の小遣いは一日一銭か二銭だから子供にとってパチンコはキツイ遊びだった。店は何
時もガランとしていて、音楽無し。出た玉の数に応じて景品をもらうだけで金に換える事は出来ず大人の関心を呼ぶ時代ではなかった。

ラジオの娯楽番組は大きな楽しみであった。蓄音機、電
蓄はどの家でもと言うものではなかったが寄り集まって
流行歌などを聞き覚えたものである。

            続く

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/2 21:11
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。

**********
子供の時から映画は最も楽しい娯楽の一つだったが
中学生は映画館への入場を禁じられていた。隠れて
行ったのがばれて私は一週間の停学を受けた。

映画館と言えば西町辺りに昭和館(東邦系)、宝来館
(日活系)、弁天町の相生座(松竹系)があり、他に、
牧の島の州岬に寿座、草梁付近に大成座などがあっ
た。

李香蘭《りこうらん=山口淑子 女優~政治家》が昭和館に来たときは観客が列をなして館を取り巻いた。
西町に古くからの芝居小屋、太平館があった。色々な芝居、浪曲、漫才、落語、博多弐仁和加などが演じられた。広沢虎造《浪曲師》が来演したときは大入り満員で、地方から多くの人が泊まり掛けで釜山に来たという話もあった。

ここでは開演の前日に、上に長い旗を3~4本立て
た行列を繰り出し、鉦、太鼓で賑やかに街周りして
宣伝していた。
昭和館の南側に釜山劇場が出来たが太平館ほどには
繁盛していなかった。

南浜埋立地には永い間空き地が残っていた。その空
き地に有田サーカスが2~3年に一度来てテントを
張った。或る年の夜中に火事を起こして2~3頭の
象が大火傷をしたのを目にして痛々しく思った。

相撲、オートバイの曲芸などもこの空き地にテント
を張って興行した。相撲の見物客の中で、前夜席を
共にしたと思われる芸者が黄色い声で力士の名を呼
んでいた。
女相撲の興行もあった。女の力士が子供連れで歩い
ているのを見て、何とも複雑な感じを受けた。

猿芝居も来た。
猿が装束《しょうぞく》を着け、刀を差して芝居を演ずるのである。
但し、口上は勿論、付き人が述べた。

                   ー この項 完 ー

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/6/1 10:10
コロラド  新米   投稿数: 2
はじめまして、コロラドと申します。
ここにコメントしたくて、入会→登録を経てやっと投稿に
たどりついたのですが、まだ一度も成功しません。

引用:
当時の子供は遊びの場所に恵まれ、色々な遊びをして
楽しむ事が出来た。

それにしても餓鬼大将の役割は無視できない。当時の
男児の遊びは今の子供のそれに比べると単純なように
見えるが中々に熟練を要した。

そのとおりですね。わたしは昭和17年生まれで米田さんより
20年近くあとを生きているわけですが、
肥後守《ひごのかみ=小刀の一種折込式で柄も鉄製》の使い方を含め、
跳躍、投擲《とうてき=フィールド協議のなかで砲丸・円盤・ハンマー・槍投げ等の総称》
取っ組み合いなど、基本的な体さばきのほとんどを遊びを通じてガキ大将から習いました。
先ずは、この投稿の成功を念じて、、、。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/6/3 15:13
コロラド  新米   投稿数: 2
喧嘩独楽
引用:
・独楽廻し・・・・釜山では木の芯に鉄の輪が付いた、
内地ではお目に掛り難い代物を使った。鉄の輪の質量
によって独楽の回転は息が頗る長い。従って木のみの
独楽に比べるとダイナミックな独楽喧嘩が出来た。

鉄の輪は鋳物だから比較的よく割れた。勿論、独楽喧
嘩は割るのが主目的である。

私の頃(昭和27-30年頃)の最高級品はベアリングの
外輪でした。風呂のたきぐちで真っ赤に焼いたベアリングを
木製の独楽に載せると、煙をあげながら食い込んでいく。
冷えてしまわないうちに、小刻みにかなづちでたたいて嵌め込む。
白銀色の輝き、ずしりとした手応え、けしかけると派手に飛び散る
火花。どれをとっても人気の的でした。

それでも、打ち掛け独楽のペナルティ、『据え独楽』にされると
割れることもある。
刑の執行中は、刑場に背を向けて耳を覆ったものです。

引用:
また、独楽の曲技をもよく練習した。
ソーメン掛け、チョン掛け、大振り、小振り、股くぐり
などが出来れば先ず先ずであった。独楽のサイズは1号
から7号まであり、順に大きく、40銭位で買えた。
長手通り「深沢玩具店」で年末、親父に買ってもらった。

大した曲芸はできなくとも、巻いた縄で空中に放り上げ
回っている独楽を掌で受けとめ、回しながら受け渡していく
という程度はみんな出来ました。

コロラド
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/6/9 8:08
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
コロラドさん  おはようございます!

喧嘩独楽の思い出、私はコロラドさんと同年代ですが
女子は余り喧嘩独楽などという遊びはしませんでした。

それでも独楽遊びは当時流行でしたから、紐で巻いて
投げて回すような事は女の子でもしていました('-'*)

引用:
私の頃(昭和27-30年頃)の最高級品はベアリングの
外輪でした。風呂のたきぐちで真っ赤に焼いたベアリングを
木製の独楽に載せると、煙をあげながら食い込んでいく。
冷えてしまわないうちに、小刻みにかなづちでたたいて嵌め込む。

手作りだったのですね。
今では焚き口のあるお風呂も滅多に見られませんから
こんな作業もできませんね。
子供に限らず、モノを手作りしない時代になりました。

引用:
刑の執行中は、刑場に背を向けて耳を覆ったものです。

あっはっは、丹精込めた独楽が対戦相手に割られる時の
悔しさが手に取れるようです(-^〇^-)

引用:
大した曲芸はできなくとも、巻いた縄で空中に放り上げ
回っている独楽を掌で受けとめ、回しながら受け渡していく
という程度はみんな出来ました。

そうでした。
確かに男子はそんな遊びをしていました。
ベーゴマなんて言うのもありましたね。

--
あんみつ姫

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