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夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/25 16:10
grue  新米   投稿数: 8
  
父の死をきっかけに知り合った知人の澤田氏と最近話していて、たまたま話が朝鮮《注1》満州《注2》のことに移った。そして、彼が人生でもっとも多感で重要な幼少期を南満州で過ごし、戦後そこから引き揚げて来たことを知った。彼の経験の凄《すご》さや満州や日中間の近現代史に関わる知識の豊富さそして人生に対する洞察《どうさつ=見通し》の深さに圧倒された。

彼は、南満州の「本渓湖」という満州鉄道・安奉線沿線の炭坑と鉄鋼の町に5才から15才まで居住した。ここには大倉財閥系の鉄鋼所があり、多くの日本人が生活していた。そして、鞍山(本渓湖の西約100km)などの他の町の日本人と同じような経緯をたどり、戦前・戦中・戦後の困難な時期を生き抜いて来たとのことである。(戦後40年(1985)、この町の貴重で膨大な記録が旧日本人居住者の手により一冊の大部な本「太子河」にまとめられた。これについては、別途触れたい。)

彼は、九州のさる県の同人誌「航跡」に寄稿した文章をいくつか渡してくれた。それには多くのことが書かれており、その中から、彼の許可を得て、この伝承館にふさわしい部分を抜き書きして、私の責任で投稿する。

《注1 朝鮮》
《アジア大陸東部の大半島。日清(1894)、日露(1904)の戦争により日本が植民地し日本に統合(1910)されたが、第2次世界大戦で日本の敗戦(1945)により北緯38度線を境に大韓民国(アメリカが統治)と朝鮮民主主義人民共和国(ソ連が統治)に二分した。》

《注2 満州》
《中国東北部及び東部内蒙古に、日本が満州事変(1931)後作り上げた仮の国家。満蒙開拓団など多数の日本人が移住したが、第2次世界大戦でソ連参戦、日本の敗戦(1945)により壊滅。抑留、残留婦人や孤児など多数の悲劇を生んだ》


夕陽残照 ー渡満篇ー   澤田 恵三

(その1) 『苦い聖域』

わたしは「満州」生まれではない。「満州」育ちである。わたしは昭和十二年(1937)春から敗戦翌年の二十一年(1946)九月の引揚げまで、五歳から一五歳まで十年の歳月を、その異国の土地ですごしてきた。

人は生まれただけでは人間にならない。その人の記憶の光がさし始めるときから人生が始まる。その意味で、わたしの人生は「満州」の地で幕が上がった。そして誰にとっても人生でもっともなつかしく輝く子供時代をその地に持つことが出来た。だから、その子供時代に慣れ親しんだ自然風土がまぎれもなく「ふるさと」であり、そこで人間的な理想やロマンが育てられ、将来への人生設計も生まれてくるという「心のふるさと=原風景」でもあったはずである。

だが、ある日、予想もできない苛酷《かこく》な歴史の大波にさらわれ、わたしはその「ふるさと」の大地から引きはがされ追放された。敗戦とその後の混沌《こんとん》とした熾烈《しれつ=激しいありさま》な体験の中で、わたしたち少年は急激に大人になったような気がしている。

その日を境に、その「ふるさと」の地が突然本質を露出し、そこに隠されていた歴史の真実を思い知らされることとなった。そこは「わたしたちの町」ではなく、異郷の地であり、日本人の住むべき土地ではなかった。どこから湧《わ》いてくるのか圧倒的多数の中国の人々に町は溢《あふ》れかえり、彼らに囲まれ、彼らはそれまで見たこともない異常な活気に満ち満ちていた。やがてその渦中《かちゅう》で、わたしたちは彼らの寛大な「慈悲」によって生かされていることに気がついた。

日本人の大人たちがいかに虚勢を張ってごまかそうとしても、少年の目には裸の王様の醜い姿が見えてきた。大人たちが築き上げてきたあらゆる夢が、その虚構の国とともに見事なまでに木っ端微塵《こっぱみじん》に砕け散るのをみとどけ、土地も家も家財も、あらゆるその地での思い出の品々の、すべてを失ってわたしははじめての「祖国日本」へ引き揚げた。

しかし、そこもわたしにとって異郷の地であった。わたしがこれから記述しようとしている文章が、ひたすら少年の日の思い出にひたり、「満州」や「満州国」への愛惜と郷愁を語るものであってはならない。そのことは敗戦後の体験と、青春から大人にかけての中国への関心と、日中現代史の歴史認識によって充分思い知らされたことである。

詩入.松永伍一は『苦い聖域ー日本人にとって満州とはなんだったかー』(日本植民地史・2・満州・毎日新聞社刊)という文章に次のように記述している。

『不当に侵された土地は、復讐《ふくしゅう》の時を待ちのぞんでいる。侵した者が、土地の放つ無音の呪誼に気づかないだけだ。その心の奢り《おごり》を罪として自覚したとき、侵された地は(苦い聖地)となる。満州は.日本人にとってそういう土地ではなかろうか』

歴史の激流の中で「満州国」が永遠に消滅しただけでなく、今日の中国には「満州」という地名さえもない。しかし、わたしはこの『苦い聖地』にこだわり続ける「満州」実体験者の一人である。

昭和二十一(1946)年九月初め、葫蘆(ころ)島から引揚げ船で満州を離れるとき、私も澤地久枝女史と似た体験をしている。『暗い色をした海のはるか彼方《かなた》にそれらしい陸地(遼東半島)がかすんで見える。私の記憶のなかの風景では、夕暮れの青い薄霜がかかっていたような気がするが。記憶のなかの色はいつでも寒色なのかも知れない』(「もう一つの満州」から)、その鳳景を、私の場合は、沈み行く赤い夕陽の中に見た。引きはがされるような惜別の感情と、「二度とこの地に帰り来ることが出来ない、これが見納めだ」という思いで、いつまでも一人デッキに立ちつくしていた、少年の日のことを、鮮明に覚えている。

題名の「夕陽残照」の夕陽とは、この記録の主舞台である、あの「満州」の大平原に沈む「赤い夕陽」でもあるが、同時に「昭和という時代」であり、私の「青春」でもある。その残照の消えやらぬうちに、つらくても書き残しておきたいと思う。

続く
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/26 10:28
grue  新米   投稿数: 8

(その2) 満州へ ー契機ー

私は昭和6年(1931)7月の生まれである。その同じ年の9月18日に満州事変《注1》が起こっている。そして6才(1937)の時、日中戦争が開始された。その後も重要な歴史的事件の節目節目にぶつかっている。これも何かの因縁かもしれない。

ところで、私の祖父は、大正の始め(1913)に満州「本渓湖」に渡りお寺を建てた。その祖父は、政治的右翼であり、昭和十一年(1936)の二.二六事件《注2》で反乱軍側に荷担《かたん=味方する》関係したため、私達家族は、その満州のお寺を維持するために、交代として満州に渡ることになった。

《注1 満州事変》
《1931年9月 柳条湖の鉄道爆破事件で始まる日本軍の中国東北侵略。1932年、日中戦争に発展》
《注2 二.二六事件》
《1936年2月26日、陸軍の皇道派青年将校達が首相官邸他を襲撃したクーデター事件。事件後軍部の政治支配力が著しく強化された》

(その3) 満州へ ー朝鮮鉄道ー

私は昭和十二年(1937)春、父母と二歳うえの姉と親子四人、九州大分県から朝鮮半島を経由して南満州の本渓湖という町へ移住した。既に述べたように、それより二五年前(1913)、祖父も同じ道筋をたどって単身満州へ渡った。明治の末(1911)から昭和十年代(1935―1944)にかけて、何百万という多くの日本人がこのわたしたちと同じ朝鮮経由で、満州と日本内地のあいだを行き来している。大正のころ(1912-1926)に流行《はや》った「馬賊《ばぞく=馬を使った盗賊》の唄《うた》」というのがあるが(参考1)、これはその当時の日本人の気持ち・心情をよく表している。

それら「満州移民」の通った最も主要なルートが、朝鮮半島を経由するルートであり、私の家族も同じ道をたどった。まず山ロ県下関港から涙のテープで別れを惜しみ、玄海灘《げんかいなだ》を関釜《かんぷ》連絡船で九時間、朝鮮の釜山港へ上陸する。そこははじめての異郷の地だ。

釜山駅から朝鮮鉄道(参考2)を半島の西海岸にそって、京釜線(京城ー釜山)及び京義線(京城ー新義州)に乗って北上し.ソウル(京城)ーピョンヤン(平壌)を経由して鮮満国境のシンイチュ(新義州)の町にはいる。

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(参考1) 「馬賊の唄」

『僕《ぼく》も行くから君も行け
狭い日本にゃ住みあいた
浪の彼方にゃ支那《しな》がある
支那にゃ四億の民が待つ』

『御国(みくに)出てから十余年
いまじゃ満州の大馬賊
亜細亜《あじあ》高根の間から
くり出す手下が数千人』

このあとにつづく歌詞の支那の中身はすべて満州であった。熊本県人で孫文と親交厚く中華民国革命を助けた志士.宮崎滔天《みやざきとうてん》が、各地演説会を開くごとに、この歌をうたって聴衆の喝采《かっさい》をあびたという。
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(参考2) 朝鮮鉄道建設の経緯

朝鮮鉄道の敷設はさまざまな経緯はあったが(アメリカ又はロシアに敷設される可能性があった)、すべて日本の手によってなされたものだ。半島の縦貫線は日露戦争(1904・2月-05・9月)の最中、軍事戦略上の急務から日本政府の手によって急ピッチで強力に進められ、京釜線(釜山-京城)は明治三八年(1905)一月に完成したが、京義線(京城-新義州)の全面開通は戦後の同年(1905)一二月までかかった。

ちなみに、日本政府はいろいろ紆余曲折《うよきょくせつ=いろいろ変化すること》はあったがこの朝鮮・「満州」貫通鉄道の軌道《きどう=レール》の巾に、日本本土とは違った世界標準軌巾の四フィート八インチ半(一四三五ミリ)を、いわゆる広軌を採用して敷設した。今日でも日本本土の一般鉄道のゲージ巾は三フィート六インチ(一〇六七ミリ)の狭軌であり、広軌が採用されたのは一九六四年になってから新幹線に対してである。

ところで、ロシアの鉄道は標準軌よりも広いロシア広軌(5フィート、1524ミリ)であった。日清戦争(1894)以降も韓国に影響力を持っていたロシアがもし京釜線の敷設権を得ていれば(王妃(閔妃)暗殺事件(1895)は韓国をロシア側に追いやり危機であった)、モスクワから釜山までロシア広軌で直接繋《つな》がる鉄道ができていたかもしれない。日本政府・軍部がそれをどれほどおそれていたか言うまでもない。

当時、大陸に渡った日本人がまず驚かされたのが、日本より広い標準軌ゲージで作られ迫力にみちた機関車の大車輪と、ゆったりとした大陸列車の雄姿であった。昭和十年代「満州」在住の日本人が最も誇りにしていたものは、大連・新京(現・長春)をつなぐ満鉄本線「連京線」を驀進「color=CC9900」《ばくしん》「・color」する、最新流線型の特急「あじあ」号であったことも付記しておきたい。
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続く
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/27 11:33
grue  新米   投稿数: 8

(その4) 満州へ ー鴨緑江大鉄橋ー 


「鮮満国境」の大河、鴨緑江の大鉄橋(参考3)を渡ると、そこは満州の陸の玄関・安東市〔現・丹東タントン〕である。そして橋を渡ってびっくりするのが色の変化、白の朝鮮から黒へと劇的に変わることである。当時、ここ安東からの満州鉄道はすべて彼の有名な「満鉄」(南満州鉄道株式会社の略、詳しくは後で述べる)の経営路線であった。この安東駅で、旅客に必ず決まった儀式があった。それは時計の時刻調整(朝鮮から満州に入る場合は一時間遅らせ、逆の場合は一時間進める)と税関検査であった。私達家族もこれにならったのは言うまでもない。

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(参考3) 鴨緑江大鉄橋建設の経緯

日本は、日露戦争(1904-05)の勝利によって、ロシアとの間にポーツマス講和条約を結んだ。その中身はロシアに日本の朝鮮に対する完全な植民地支配の保障を認めさせるとともに、新たにロシアから、かれらが清国東北部に獲得していた広大無限の「満州の権益」(遼東半島の租借権《そしゃくけん=他国の領土の一部を借りて統治する権利》「南満州」の鉄道・鉱山の経営権、それらの鉄道警備の為の軍隊の駐留権(関東軍))を譲渡させたのである。

その結果、朝鮮鉄道は、日本の大陸経営〔満州〕の主要幹線としてますます重要な役割を担うことになる。そこで、朝鮮と満州をつなぐ鴨緑江の大鉄橋架橋の建設と、その延長線上に国境の安東から、すでにロシア帝国の手によって貫通していた東清鉄道南部支線「ハルピンー大連」間の奉天(現・瀋陽、現・遼寧省の省都)に連結する、安奉線全線二七四キロの開通が急務となった。そして、1911年(明治四四)一一月、その二つの懸案が同時に完成の暁を見ることとなった。

鴨緑江架橋は全長1023メートル、日本が「東洋一」と自慢した大鉄橋である。単線鉄道の両側に人車道(軍事目的の、有効幅二.四メートル)を併設し、珍しく橋の中程が十文字に開く開閉式構造であった。「鴨緑江を利用する中国ヂャンク船の航行に支障のないように」という商業活動上の理由からだが、アメリカ・イギリスの要求に応えたのである。しかし国際列車を走らせる主要幹線の鉄橋が単線であることなど世界にも例が少ない奇妙なものと、のちのちまで悔いをのこすこととなった。この先に続く「安奉線」が単線だったからとされている。この大橋の開閉は昭和九年(1934)三月に中止した。

この釜山から奉天へつながる鉄道はさらに新京(現・長春、現・吉林省の省都)・ハルピン(現・黒竜江省の省都)までつながり、全線途中いっさい乗換えなしに朝鮮・満州の二つの国を結ぶ大陸国際直通列車が走っていた。
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続く


続く
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/27 17:30
grue  新米   投稿数: 8
  
(その4) 満州へ ― 満州鉄道・安奉線1

満州の「安奉線」について語る前に、地図(下図)を見ていただきたい。満鉄創立時(1906)のものである(下に写真あり)。 又、満州鉄道に関する記述に関しては、「満州の誕生ー日米摩擦の始まりー」著者・久保尚之(丸善ライブラリー)を参考にした。


本の面積の三倍もある広大な「満州国」の玄関廊下といってもよい安奉線は安東(現・丹東)から奉天(現・瀋陽)に近づくまで、その全線の八割が「緑山碧水《りょくざんへきすい=緑の山、青く澄んだ川》」の山岳地帯を走り、二四のトンネルをくぐり、二〇五の鉄橋を渡り変化に富んだ風景の連続である。日本の鉄道と少しも変わらないような鉄道であり風景であった。

昭和四年(1929)に満鉄〔南満州鉄道株式会社〕が発行した「南満州鉄道旅行案内」という満州の旅行案内書がある(参考4)。この頃になると、満鉄はすでに営業路線六(連京線・安奉線・旅順線・営臼線・撫順線・煙台炭鉱線)一一五〇キロにおよび、満鉄がなければ満州はないといわれたほど満州開発の尖兵《せんぺい=先頭に立って物事を進める人》であった。この旅行案内を抜粋しながら、安奉線の車窓の景観を見てみる。これが当時の安奉線沿線の様子をよく描写している。



(大連の満鉄本社(1942年まで))





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(参考4) 安奉線の沿線

『安奉線は安東を起点として北行し、奉天に至る一七一哩《マイル》(約二七五キロ)の鉄道である。全線のうち、平坦な地区は僅《わず》かに奉天石橋子間の三〇余哩に過ぎずその他は長白山系の山岳渓谷地で、分水嶺《ぶんすいれい》たる祁家塗(しかほ)駅を境として鉄道は勾配を以て徐々に上り、また徐々に下っている。この間如何《いか》に山多きは大小二四箇所の随道《すいどう=トンネル》、また如何に多くの河川に接するかは総数二〇五の橋梁《きょうりょう=橋》にみても伺い知ることができる。従ってこの沿線は満鉄本線(連京線)の車窓から眺めた広漠《こうばく=果てしなく広いさま》たる平原の景観はなく、これに反して緑山碧水、あたかも木曾川を思わしめ、耶馬渓《やばけい》を偲《しの》ばしむる極めてチャーミングな風景に接し得る』

『この線を行く人、心して、往年日露の役の流血の跡がこの全線に亘《わた》って遺《のこ》れることを偲び給え。車窓から望見する記念碑、戦蹟道標、各駅構内の戦蹟案内標のことごとくが諸子の注意を喚起するであろう。その外、沿線村落に散見する満州族の建築を知り、あるいは杭木、薪炭等の産物を積む駅多きこと及び全線の北半に木粉を挽《ひ》く水車、南半に鮮支人経営の水田多きことに沿線産業の輪郭を悟り給うであろう』
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続く
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grue  新米   投稿数: 8
  
(その5) 満州へ ー満州鉄道・安奉線2ー

安奉線の敷設の歴史は日本軍の満州経営の歴史と一致している。日露戦争(1904-05)の最中に日本軍によって軽便鉄道《けいべんてつどう=簡単な規格で建設された鉄道》として建設された。開戦と同時に朝鮮から満州に越境攻撃を開始した軍(有名な黒木部隊)の兵站《へいたん=軍需品の補給、輸送など担当する機関》輸送路確保のためであった。1905年8月には、奉天までの全線が開通した。日本軍の艱難辛苦の結晶ではあるが、軌間《=レールの巾》はわずか762mmであり、不便で危険この上ない軽便鉄道・安奉線であった。

しかし、戦後になると新たに日本の満州経営の生命線ともいえる重要な路線として俄然《がぜん》脚光を浴びることになり、標準軌鉄道への改築と鉄道付属地権益の取得が日清間の最大課題となってきたのである。これは簡単には行かなかった。この経緯は別記(参考5)を見てもらう。

安奉線の標準軌道への改築の全面開通は、鴨緑江の大鉄橋の完成とあいまって、明治四四年(一九一一年)十一月のことである。この鉄路と橋の完成によって日本から中国東北への新しい交通路が開かれのである。

このような紆余曲折を経た、朝鮮鉄道、鴨緑江大鉄橋、安泰線を利用して、我々は、忘れることのできない「本渓湖」にたどりついた。かつて祖父のたどり着いた町(1913年)、そしてわたしたちの住んだ町「本渓湖市」は、この安奉線の途中駅であった。本渓湖は安東から約二百キロ、そして奉天へは八十キロ程の距離にある、この路線ではいちばん人ロの多い、急行の停車する町であった。九州大分を出発しておよそ2日半程の旅程であった。(参考6)

安泰線の完成二年後大正二年(1913)の厳寒二月、出来たばかりの、ピカピカの鴨緑江の橋と安奉線を旅して本渓湖駅に降り立った祖父のことを思い出さずにはいられない。霧の中の祖父に一歩近づけた気がした。

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(参考5) 標準軌巾「安奉線」建設を巡る経緯

日露戦争後大本営《だいほんえい=天皇に直属する最高の統率機関》幕僚《ばくりょう=直属の参謀や副官など》は内閣に示した意見書の中で、この安奉線について
『義州より鳳鳳城を経て奉天において東清鉄道に接続し、さらにこれを延長して新民屯(奉天の西、中国本土の北京につながる重要な路線駅)に至り、関外鉄道に連絡せしむるを軍事上有利とす』『この鉄道は満州における帝国の勢力範囲の骨格と見なすことを得ぺし』『韓国の鉄道と相まって清国に対する政略、露国に対する戦略上の枢要地《すうようち=かなめの土地》たる奉天をわが権力圏内に置くの利あり』
など、戦略、政略の両面からその重要性を強調している。

しかし、事はそうすんなりとは行かなかった、当然清国政府の強い抵抗に遭うことになった。日本がポーツマス条約でロシアから譲渡された『満州の権益』の最重点は、条文の第六条にある「長春以南の東清鉄道の本線・支線とその沿線付属地、それに付属する炭坑の経営権」であった。すなわちロシア政府が長年にわたって清国政府からかすめ取ってきた権益であり、これがロシアの既得権であったため、日本への譲渡に清国は異議申し立てはできなかった。

しかし、
『日本政府が火事泥棒式に戦争のドサクサにまぎれて建設した安東.奉天聞の軽便鉄道についても、歴史ある旧ロシア鉄道と同じ待遇を清国側に要求するに及んで、当然のことながら清国政府の抗議をまねいたのである。安奉線は、もともと安東と奉天の間を結ぶ野戦用の軽便鉄道であり、その土地は交戦中に軍が私人から買収したものであった。その間の土地売買の効力については中国側と争いがあり、解決をみない間に、居留民団《居留地に住む外国人の集り》が出来上がり、市街地を作りあげて来たものである』(「満鉄」-安藤彦大郎編・御茶の水書房・一九六五年)
という歴史経緯からして、清国がわの猛烈な抵抗にあうことになった。

これらの歴史はまさに、清国側にとっては、自国の領土と鉄道を日露両国の間で勝手に取引されていたわけである。つまり占領軍が入れ替わっただけである、

新しい占領軍はもっと欲が深い。その直後の明治三八年一二月、日本は大ロシア帝国に勝利した余勢を駆って、力の差によって清国をねじ伏せ、日本の要求を全面的に盛り込んだ「満州善後条約」と「付属協定」を清国に調印させた。そのなかに「安奉線の改築問題」をもりこみ、なおもぐずぐす引き伸ぱす清国に対し、一九〇九年明治四二年八月、武力を背景に最後通牒をつきつけ『安奉線改修二関スル覚書』が交換される。このような軋櫟《あつれき=人との和が不調になること》の中で「安奉線とその付属地・周辺の鉱山」が日本の手中に落ちた。これに対して、満州初の日貨排斥運動が起こったことも言っておかねばならない。満州ナショナリズムが既に台頭し始めていた。
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(参考6) 東京―奉天の旅程

明治四五年(1912)六月一五日に「東海道線一・二等特急列車の運転開始」とある。その日、日本内地-朝鮮-満州を通じて全面的な時刻改正がおこなわれた。そこで、その時刻表によって東京から奉天までどのくらいの時間でいけるか調べてみる。

東京を午前八時三〇分に特急で出発、下関到着は翌朝午前九時三八分。関釜連絡船で釜山に渡り、午後一一時二〇分発の急行に乗ると、新義州に翌日の午後三時四五分に着く。列車はそのまま鴨緑江の鉄橋を渡って、安東に到着するのは午後四時であった。安東で税関検査をうけて、安奉線をひた走り最終駅奉天到着は午後九時五五分である。この間じつに六〇時間半、東京から二日半で満州のど真ん中に到達できることになる。
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渡満篇 完

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