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イレギュラー虜囚記(その3)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/18 17:13
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   昭和廿二年を迎える

 スラビヤンカは雪は殆ど積もらないが、海は一面に凍る。緯度は札幌より南だが零下三十度を超す日もときどきある。

剽軽者の和田左官とカンポイが片言手真似で話している。和田が、氷の上をスケートでダモイするといったら、あいつはそうだそうだと賛成した、あいつはバカだと。
カンポイは、和田はスケートでダモイ出来るつもりのバカだと。こちらは両方にそうだそうだと相づち。入江が凍ると地引網も引けず、食糧は単調になる。

春が来る頃、壊血病患者が出始めた。

 アカザを摘んで野菜代わりにした。その頃になると、スラビヤンカの家畜用の乾草が不足し始め、ラーゲリに貰いに来る。こちらは日本式に計画を立てて、乾草山(スキルダ)一山をまだ残していたが、夜中に荷車一杯してやられた。

 日本式といえば、兵隊連中は作業用の道具に凝る。鋸の目立て、斧磨き、ペチカ積みのコテ改造、塗装刷毛作り。刷毛の毛は馬の尻尾の毛。中でも白馬のが最も良いそうだ。日本軍でも将校の乗馬ズボンの左右の張り出しを恰好良くするのは白馬の毛を縫い付けると聞いたことがある。弾力とコシの強さらしい。

ある時、小休止中の赤軍挽馬隊の馬の尻尾の毛が三頭分スッパリ切り取られたことがあり、日本軍の仕業と怒鳴り込まれた。
馬の尻尾は毛が長いので恰好がよいが、尾自体は短い。牛蒡のような尾をピヨピヨ振っていては軍容にかかわる。このままでは部隊に帰れぬとカンカン。
証拠があるか、ラーゲリ中探してみろとやり返す。

日本兵が見付かるような所へ置いておくものかとこちらは自信がある。先方も自分らのボンヤリさに気付いてブツブツ言いながら帰って行った。

   虎退治

 三月の下旬、燃料材伐採山に虎が出たと報告があった。翌日早速スタルシナー(曹長)と歩哨二人が現地へ行くことになり、自分も同行した。
挽馬車輌と、タチヤンカ(車輌付重機関銃)を馬に曳かせて出発。現地の掘立小屋で夜通し焚火を焚いて、馬を狙うはずの虎の出現を待つ。

火を見て近付く野獣などいるワケはない。味方全員ウトウトしていたら馬が一頭いない。それっと探し回ったら放馬して遠くの方で草を食っていた。

早々に退散と決め、途中道端に積み上げてあった古枕木を燃料用に輜重車(虎用の積りだった)に積み込み歩き始めたら三、四人のソ連兵に出会って我が隊の枕木を盗むのかと喧嘩になった。

自分が出て行って、師団司令部のコージン大佐から命令を受けておると一発ぶったら変な顔をして見送っていた。
変といえばタチャンカを持出す虎退治を許可するとは妙な軍隊もあるものだ。

                          (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/18 17:17
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   ジダーノフ布告

 三月頃からプラウダ紙に、スターリンへの誓いの手紙というのが再々載るようになった。戦後復興のために労働者、農民は労働の生産性を飛躍的に高めることを誓うという手紙が全国各地から同志スターリンのもとに連日届いている。
ソ連国民の自覚の素晴らしい光景であるという具合。

フーンと思っていたら裏があった。間もなくプラウダに発表あり。即ち、我が国の働く者の自覚のもとに、生産性が目覚ましく発展した。従って爾今、ノルマ一一〇%を一〇〇%に置き換えると。

 この論法は二十三年から激しくなった収容所の民主化運動でも使われている。即ち、我々日本人は民主主義に賛成である。ソ同盟(左翼リーダーはソ連邦とは言わない)は世界の民主主義の砦である。従ってソ同盟強化のために我々は労働に励まなければならないというワケ。

 四月の初め、ソ連共産党の思想総元締めのジダーノフの論文がプラウダ紙に三ページにわたって大々的に掲載された。紙面の写真ではジダーノフは堂々たる押し出し。論文の主旨は、文化、芸術面で思想の強化を図れというにある。

 独逸を破り、意気軒昂であるはずの国民に何でまたと思ったが、戦争で各地の資本主義国を見た連中がどっと復員し、いわゆる「害毒」を流し始めたからかとも考えた。

 七月十六日、一年ニケ月のスラビヤンカ生活を終ってダモイが決定した。ラーゲリに司令部の将校連が見送りに来た。スプルネンコ(少佐になつていた)にまた騙されるのかと言ったら、君と僕の問で嘘をつくと思うのかと実に悲しげな顔をした。
最後の最後に悪いことを口にしたと後悔した。

 マナユーヒン少尉を先頭にトラックでバンプーロボ駅へ。駅から貨車に乗って出発。ところが我々の貨車は列車の最後尾に付けられ、あちこちの駅に置き去りにされる。
仕事はなし、食糧はある。駅の風景を楽しんだり、川で水浴したり頂好頂好(テンハオテンハオ)。五時間余りで行ける浦塩へ三日経っても到着しない。

ある駅でマチエーヒンと線路の上を散歩していたら、向うから中佐が来て日く。
「君たちは一体何をしていたのだ。何処かで蜘妹の巣にでも引っ掛っているのかと一駅一駅探しながら来た。予定のダモイ列車は行ってしまった。君たちはシマコフカで草刈りだ」と言う。

草刈りしながら次の列車を待つのかと思ったら大違い。元の捕虜労働に返ってしまった。スプルネンコの真実がそのまま実らないのがソビエト連邦なのである。
                         (おわり:あとがきに続く)  

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/18 17:19
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
    あとがき

 ここまでで私の手記は終っている。
スラビヤンカ以降は記録するほどのものはなく、私自身も未帰還のスラビヤンカ組の人々で住所を覚えている先への状況報告や留守家族への直接訪問、GHQの情報聴取で東京への呼出し、入社試験準備などに追われ、再び筆を執る気もなくなつた。

 スラビヤンカ組は、シマコフカ(輿凱湖東方)の労働大隊へ吸収され、草刈り、乾草作りが終った十一月末、大隊が二分されて、伊藤は浦塩へ、私はウスリースク(当時はウオロシーロフ)と綏芬河の中間ヴオズビジュンカの飛行場の建築作業に回された。

此処でも翌二十三年の四月頃までは比較的のんびりした生活だったが、五月に入って、ソ側から、尋常小学六年で教育の終った元気で真面目な兵隊を選べと言われ、嫌がるのを一ケ月勉強で楽が出来るらしいから行けと勧めて六人抽出した。

この連中が一ケ月後帰隊したら「将校は天皇の手先だ!」「南京虫岩本少尉を吊しあげろ!」などなど吃驚するような大ビラを垂らして、以前から我々でもどうかと感じていた要領のいい将校連を順番に大衆吊し上げにしてラーゲリ内の指導権を振った。

このラーゲリで初めて家郷通信が出来た。「日本新聞」も定時に読んで徳球やら山宣、渡政らヤクザの親分のように日共幹部を呼ぶことも知った。

 五月中旬、年配者、虚弱者五十人のダモイがあり、スラビヤンカ組の炊事係大石兵長(日産火災人事課長で応召、同社社長を経て会長の昭和四十一年に病死)を責任者とした。
スラ組では最も早いダモイであった。

我々将校はラーゲリを出てコルホーズ作業隊を作った。コルホーズの一般ロシヤ人と親しくなり出した七月初め、ロシヤ語と学院出という前歴からか、いわゆる前歴者八人が浦塩の東、アルテョム炭鉱ラーゲリに移され、十六期の堀内さん、二十二期の原田君と一緒になったが、一ケ月くらいで将校だけ更に東のスーチャン炭鉱ラーゲリに移された。

此処で十六期の森さん、十九期の鷲頭さん、二十期の永田さんと同部屋同ベットになった。先輩諸公は豚の尻尾みたいなつまらんペレボッチクなどやれるかと将校労働組におられた。
流石と思った。

炭坑夫の日などの記念日の所長の演説など複雑なものだけ堀内さんが担当された。ラーゲリ本部の日常業務は片言ロシヤ語で通じるし、学院生は誰もいなかったと思う。
労働しない将校組の長は参謀肩章の長命中佐。将校約二百人ほど、学院の下級生が二、三混っていたようだ。

 十月中旬コルホーズで作業していたら歩哨が来て人名を読み上げラーゲリに戻され、ダモイ組に入れられた。労働組、不就労組半々の三百人の将校団。学院生では堀内さんと私二人だけ。
後から来て先に帰る形。これもソ連式か。十月二十三日信洋丸で舞鶴上陸。私がスラビヤンカ組ダモイの二番手、あとの人たちは二十四年、二十五年の帰国で伊藤君が一番遅かったと思う。  


   (おわり)

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あんみつ姫

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