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イレギュラー虜囚記(その2)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/13 16:06
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   琿春駅ラーゲリ設営

十一月十七日朝、琿春駅軍用側線に到着。東方約百米に軍官舎街あり。警備の都合上、平屋建独身寮に全員収容となる。豊満ダムからダモイで先発した二〇九大隊が入っているので、二一一大隊は一ヶ中隊がハミ出し、抽簸で第一中隊は幕舎。

その夜、火が出て幕舎一張全焼。琿春で四、五日作業後ダモイどころか、二〇九大隊では各室二段床で、押入れを取り外した八畳大に十人ずつ入っており、我々も同様の設営をしろとの命令。材料は官舎街の空屋をぶち壊して運ぶ。

 二〇九本部へ挨拶に行く。コムバートは岩崎中尉、副官小林中尉、二人とも関特演《かんとくえん=関東軍特別演習》召集の中年インテリ。通訳はベラベラしたロシヤ語を使う飯田伍長。ソ連本部と紙障子一枚の隣り合わせの独立家屋に居り、ソ連にポーヴアル(料理係)と当番を差し出している。所長はチエルノウーソフ中佐。
                       
  食料問題発生

 設営作業中に重大問題が起った。ヒリモーノフ所長が、糧秣全部を日本側に引き渡すから明年二月七日まで食えと言う。来年まで拘束するつもりか。輸送中は幾らでも食えと言いながら、今になって何だと責め立てたが、ヒリモは言を左右して答えぬ。
到頭、司令部のナクラドナーヤ(送り状)を見せた。確かに二月七日までとある。察するに、ヒリモも当地へ着いてから命令を受けたらしく、我々に隠していた訳ではないようだ。

 加藤大隊長、大山副官(准尉)、田中少尉、伊藤 (晴久)ら本部で検討したが、煮込み雑炊を朝夕のみ支給と決定。兵隊連中もソ連式やり方に慣れたか諦めたか、大した騒ぎにはならなかった。食料は、二〇九が高梁、二一一は白米、二〇九は砂糖の配給、こちらは無し。

十二月半ばに、収容所長が一人となり両大隊を統括しても、この間題は片付かず、駅の作業では、二〇九には馬車で昼食が届けられるが、二一一は昼抜きが続いた。シェーバも先着の二〇九には支給されているが、我々にはなし。その代わり十二月末から二月始めまで雪の日や強風の日は作業免除にしてくれた。

 捕虜労働の開始

 翌日、二五〇人分遣の指示あり。幕舎の第一中隊と四中の一ヶ小隊を選抜。ソ満国境のノーヴアヤデレヴニヤに向け数十粁の徒歩行軍。厩小隊が装具を積んで従う。海林以来の部下有馬兵長も出発した。いよいよ入ソだ。関東軍の諸隊はどうなっているのか一切分からない。

 所長のヒリモーノフ中尉と二人で作業打合せに駅へ行く。ヒリモも何をするのか知らない。変な軍隊だ。駅付近にはソ軍の事務所らしいのがあちこちにあるが、午前中歩き回ってもさっぱり要領を得ぬ。午後、二〇〇人を連れて再度駅に行く。駅に最も近い事務所で、やっと何をやるのか分かった。

つまり、ソ連軍が満洲で押収した物資を琿春駅でスチエードベーカーに積み替えて、ソ連領内へ送りだす作業だ。先遣の二五〇人はこれの荷卸し係という訳だった。こんな程度のことが、何故簡単に分からぬのか不思議な軍隊もあるもの。

事務所の一室から、ディアナダービン《米国の映画女優》の「乾盃の唄」のレコードが聞えてきて胸が締めつけられる思い。

 駅のプラットホームでは、二〇九の連中や三十人ほどの邦人婦人が大豆の山で袋詰めをやっている。大豆を少しずつ持って帰れるので、毎日通っているという。歩哨が悪ふざけをするが何ともしてやれない。

 次の日から延々と続くラボ一夕《露語=作業》が始まる。風の日も雪の日も、暗い中から出て暗くなってから帰る捕虜の日々である。毎朝六時、駅からカンボイ(護送兵)が人員受領に来る。駅まで約二粁。
駅に着いた頃東の空が明るくなる。

満洲各地から物資を満載した列車が毎日二、三本人って来る。各貨車に十五人あて配置して荷卸し。スチエード約三十輌が、ノーバヤを一日二、三回ピストン輸送をする。
運転兵もなるべく早く割当回数を消化したいらしく、我々が駅に到着する前に全車待機しており、争って積載人員を取りに来る。煙草などをよくくれる運ちゃんには兵隊も喜んでついて行く。

トラックが出発すると一段落で、焚火に当っているが、貨物の整理やホームの掃除、貨車の後押しなど結構使われる。しかし、豊満時代のようにダワイダワイと急き立てられることはない。トラックの荷台下にチョークで小さく通信を書くと、ノーバヤから返信が来る。
しめしめと思っていたら四日目に見付かって厳重な注意を受けた。

ソビエトという国は横の連絡を警戒する。ソ連軍内部でも同じらしい。二〇九の食料は琿春駐屯軍から、二一一はクラスキノから来るらしく、途中で大分抜き取られる。警備兵の派遣元が違うからだという。伝票一つで琿春軍からもらうという横の応用問題は禁止のようだ。

一日の仕事は日が暮れると終りだが、トラックがノーバヤからターンして来るのか否か分らない。兵隊連中は帰りたがる、ソ連側は待ったをかけるので、毎日ゴタゴタが続く。いらいらが募ってくると、兵隊は将校に当たる。
朝の集合を急がせると、闇の中から「玄界灘には鮫がいるぞ」「いつも月夜と思ったら大間違いだ」「今度生れ変ったら仕事をしない将校になろうぜ」などと嫌味を言う。

ソ側に楯突くわけにいかず、日本の将校に憂さを晴らす。兵隊と一緒に働いた方がよほど気が楽だが、ソ側は将校の労働を許さない。「犬を棒で殴れば、棒に噛みつくものさ」と慰めてくれる。

二〇九、二一一は吉林編成の労働大隊の最終だったため、満人に売られた地方人が多い。停戦前日の召集兵もいる。満洲生れも大勢いて、服装もバラバラ。満鉄服、背広、満服、作業服、鳥打帽もあれば防寒帽も。階級章を付けているのは准尉以上だけ。軍紀どころか、団体生活の経験もない烏合の衆。

 幸い、所長のヒリモーノフ中尉が好人物で、作業人員にうるさくないので、本部の大山副官(ソ側はナチヤーリニクシターバと御大層な呼名をつける)が、各人が一週一度の休みを取れるよう綿密に計画して、前夜の「日々命令」で示達する。

 所長補佐になったエレソフ伍長も小柄で人の良い男。眼病の眼をショボつかせながら、四六時中「ドクトル ドクトル ミールィモイ ボスモトリーカ ナ フィ モイ」とプツブツやっている。
Oをそのまま発音するオーカチ方言で、ガラバがゴロボになるので大笑いしたら、オドオドして口がまわらなくなる愛すべきロシャムジーク。

 作業が進むにつれて、二一一から図椚に一〇〇、ノーバヤに追加一〇〇、シベリヤ鉄道最南端のクラスキノ駅に一〇〇、二〇九は清津へ二〇〇、バラバーシに一〇〇の人員を派遣した。

                           (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/13 16:15
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   世界的大泥棒

 連日到着する貨物列車は当初、原木や建材、セメント袋、鉄帯締めの製紙用パルプ、豆粕、大豆袋など重量物が主だったが、やがて工場設備や小型機械類、有刺鉄線、馬具などに変り、年が明けると、在滞日本人の家具類や衣服などの生活物資になつてきた。

テーブル、椅子、電気スタンド、ラジオ、電球にポータブル蓄音機、虎造の浪花節レコードから漢詩の掛け軸、絹の黒羽織に赤い腰巻(ソ連領に入ったらプラトークになっていた)、ライオン粉歯磨 (粒子が細かいのでお白粉代わり)などなど、よくもこれだけと感心するほど徹底的に掻っさらってくる。

大小便器に煉瓦の屑は建築の基礎穴に放り込むとか。豊満ダムの大発電機から赤い腰巻きまでとは誠に恐れ入った大盗人である。

 ところが、これで終わらないのが、わがソビエト社会主義共和国連邦である。家財一式が終わったと思ったら、内臓抜きの冷凍豚列車が到着し始めた。有蓋貨車に豚がぎっしりの三十輌連結が毎日入ってくる。

三月に近づくと豚が段々小さくなり、遂に仔豚の冷凍まで現れた。これでは満洲の豚種がなくなるのではと心配になった。一体、どこからこんなに集めてくるのかと不思議に思っていたら、ヒリモーノフと街へ出た時に分った。
一月頃から琿春でも真赤なソ連軍票が大勢を占め、日本の十円紙幣は露店でも受け取らなくなった。

この時ばかりはしみじみと敗戦の惨めさを感じたが、ソ連はこの軍票で満人から強制的に豚を買い上げているらしい。四月末に、ソ連軍が我々最終在満捕虜を引き連れて、「満洲を解放する」と称して引き揚げた後は、裏付けのない紙屑の軍票が残っただけ。満人の恨みは骨髄に達しただろう。

  ラーゲリの日々

 駅の労働が一定化し、ダモイも翌年に持越しと諦めがつくと、ラーゲリ内では紙製の将棋や碁が流行り出した。
将棋は田中少尉が滅法強く、碁は大山副官が師匠格。将来は社交ダンスも必要とばかり、二〇九のソ軍本部当番の満映の小田助監督に一番易しいブルースから習い始めたが、音楽がないとさっぱり面白くなく短期で終ってしまった。

 ヒリモの部屋に電々ラジオがあるので時々聴きに行くが、音楽番組ばかりだ。在満放送はソ連の管轄下にあり、日本内地のニュースは入らない。
ある夜、ラジオを聴いていたらヒリモが酔払って帰って来て、「済まんが部屋を空けてくれ。女を連れてきた」と言う。

入ってきたのは日本人だ。下はモンペ、上は洋装で毒々しい化粧をしている。女は日本の軍人がいるとは思っていなかったらしくハッとした様子だったが、「煙草の煙がひどいこと」とか言いながら、悠々と寝台に腰を下ろす。最後になると女は強い。
外へ出ると、ロスケの歩哨が「俺たちにも女を回してくれるだろうか」と聞く。「そんな事知るか。中尉にきけ」と大いに腹を立てたが、情無い話だ。

 それ以来、度々日本女性が来るようになった。一晩泊ると、夕食、朝食と米を一升ほどもらえる。商売女のみならず、意志の弱い一般婦人らしいのも来る。
駅の近所に、浦塩帰りのカーチャと呼ばれる日本人の小母さんが、ロシヤ語が分かるので強制的に仲介をやらされているとのこと。

二一一本部はヒリモと別棟だが、二〇九は紙障子一枚の隣り合せだから大変だ。来る方も大変。声高に奥さん奥さんと呼び合いながら隣に来た二人連れが急に静かになる。こちらも声を潜めて悲哀を噛みしめる。
当番の小田が女の食事も運ぶが、少佐夫人だとヌケヌケ言って彼に殴られた女もいる。散髪屋の朝鮮人マルーシャは、少ない単語でうまくロシヤ語を喋る。時々日本側へ悠々と入って来て我々を慰めてくれるのだから恐れ入る。

 満人の細君になっている人も多いようだ。駅の作業場でも満人の婆さんと日本人らしい大々が来る。我々は顔を見ないように気を付けているが、中にはどこそこの奥さんはまだ片づいていないなどと、暗に満人の嬶になるのがいいようなことをいう女もいる。ソ連将校の臨時妾もいる。敗戦とは情無いことである。

 二十一年の三月頃になると、日本人経営のカフェーやダンスホールが出来て、派手な衣裳の女が街に現れるようになった。男は大抵満人に雇われての肉体労働だ。

 居留民団が寺院の建物を宿舎にしており、入口に 打倒日本帝国主義」とある。我々軍人を非難しているようで気持がよくない。本堂にぎつしり詰まっている人々は皆痩せ細って青い顔をしている。五歳くらいまでの子供は大分死んだらしい。

駅に一人ぼっちでいた五つくらいの女の子をラーゲリに連れてきて、中年の連中がパンツやシャツを手縫いして可愛がっていたのを、ソ側が見つけて我々本部に文句がきた。入ソする際にも連れて行くと兵隊さんたちは頑張っていたがとうとう居留民団に引渡した。親を失いオドオドした大人しい子だった。何とも哀れ。

                          (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/13 16:19
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 十二月に入ると、マラリヤに似た高熱が続く回帰熱病が流行り出し、二〇九は四十数人、二一一で十人の死者が出た。虱で伝染する琿春熱という風土病だとか。遺体が冷えてくると無数の虱が四方八方に這い出し、身体の輪郭通りの白い枠が出来るのには驚いた。

 壊血病も出始めた。野菜は日本軍の乾燥菠薐草《かんそうほうれんそう》とこんにゃく玉のみ。うまい乾燥玉ネギは全部ソ側に召し上げられた。ソ側と相談の結果、満人農家から無断徴発と決定。夜の暗闇を利用して馬車三台、要員十二、歩哨と自分の計十四名で、予め見当をつけておいた駅向うの大きな農家真の地下野菜倉庫に馬車を着ける。

農家の塀の穴から覗くと、物音に気付いた主が「シュイヤー!」と出て来た。歩哨と二人で意味の無い問答を繰り返す。満人は赤軍と思って塀の外まで出て来ない。シュイヤー!と震え声で叫ぶごとに、こちらはチーシエ、モルチー、ヨツポイマーチとやり返す。
馬車に野菜が山積みになったのを見届け、先ず自分が姿をくらます。暫らくして歩哨が帰って来る。

翌日、早速司令部から調査官が来た。野菜は夜中に各中隊の炊事に配給し、倉庫には置いていない。ヒリモも自分も一切、知らぬ存ぜぬで押し通す。満人側は、醤油から油まで取られたと報告したらしい。転んでもただでは起きぬ連中だ。結局調査官はウヤムヤで帰って行った。ソ連では証拠がなければ何でも通る。

 十二月の下旬、ラーゲリにゲペウ《ソ連代表部警視庁》らしい黒肩章の大尉が現れて、我々と雑談していたが、二、三日経って、「君に頼みがある。兵隊の中に、憲兵、警察官、外交官、協和会の職員、新聞の特派員、放送局の職員などが居たら教えてほしい」と言い出した。

スプルネンコから忠告を受けていたので、そらきたと思い、「労働大隊編成時に、ソ側は我々をバラバラに組み合せたので、入隊前の経歴など全く分らぬ。大工やラジオ工を探しても名乗らないのに、憲兵や警察官など出て来るわけはない」と突っぱねる。

何度も同じことがあって、到頭ゲペの大尉は「僕は君(ナトイ)で親しく話しているのに、君は最後まであなた(ナヴィ)しか使わなかったね。これで帰る」と言うので「学校ではヴイの会話しか習わなかったので」と握手をして別れた。彼が姿を消すと、直ちに分っている限りの所謂前歴者を集めて注意を促しておいた。

この中に大阪外語出の太田伍長という補助憲《憲兵の補助をする任務》が居たが、二十三年夏、自分が学院出身ということでBC級戦犯用のアルチョム炭坑ラーゲリに移された時、ロシヤ語の素晴らしくうまい通訳さんとして、政治部将校のお供で現れた。

当時はシベリヤ民主運動が猖獗《しょうけつ=勢いが 荒荒しくて押さえきれない》を極め、旧軍時代の旧悪暴露カンパが盛んで、太田は煽動のため各ラーゲリを巡回していたらしい。髪を七三に分け、ピカピカの長靴。ラーゲリ全員集合で政治部将校のアジ演説の通訳をやって、でかい態度だ。解散後、太田の前へ出て行って、「太田伍長よ。お前も大した者になったな」と冷やかしたら、再会を驚きながらも、「福岡さんも自己批判して下さい」とぬかす。
前歴秘匿を指示したことが、奴らには「反ソ行動」になるらしい。「いやこの頃は一般労働に励んどるよ」と早々に別れた。ひやっとしたが、密告はされなかったようだ。

 十二月半ば、ヒリモーノフ小隊がソ領に帰り、二一一は二〇九の新任所長ダジャーノフ中佐の指揮下に入った。中佐は陸大《陸軍大学》の学生主事だったという。レーニン勲章を持っているから、相当功績もあるようだが、一般のソ連軍人のように胸にべ夕べタ勲章は付けず、ひとまとめにしてズボンのポケットに突っ込んでいる。

落ち着いた紳士で、我々の要請は最後まで聞き取って、出来るだけのことはしてくれた。しかし、ニー一の二月七日までの食糧には手の打ちようがないと言う。二〇九にはシェーバはあるが、我々には支給はない。

その代わり、十二月末から一月下旬まで、雪や風の日は作業免除にしてくれた。両大隊本部の将校を時々招待してウオツカ大会もやってくれた。カルメンのメロディーでドタバタ騒ぎ、二〇九の岩崎隊長は酔っ払った振りをして江戸弁で啖呵を切り、ソ側が持て余すこともあった。

 遂に昭和二十一年を迎える

 四、五日の労働でダモイどころか、捕虜で正月を迎えることになった。餅もつき、新年祝賀式もやった。君ケ代斉唱、東方遥拝。大山准尉は略綬偑用。

 ダモイを焦らなくなって落ち着いてくると、軍隊臭も薄れ出す。自分と田中少尉(松本高-京大)が、崇神天皇までの闕史時代や南北朝問題、神器に関することなどを話し合っていたら、加藤隊長が大喝一声「貴様らは日本人か! 将校をやめろ!」といきり立つ。
信念は信念、眞理は眞理として扱うという気持ちは分からぬらしい。幹侯《かんこう=幹部候補生》上りの将校としては珍しい。
五中隊の陸士出の鮫島中尉が目をパチクリして聞いていた。

 二月七日、待望の糧秣調整日。これで二〇九と差がなくなると喜んだが、ダジャーノフ中佐が両大隊共通の所長になっても切り替えは不可能らしい。ニー一は相変らずクラスキノから受領するが、副官の少尉が悪い奴で輸送途中で相当量を売り飛ばす。中佐も手を焼いているようだ。

 ソ側の検閲官(コミシヤ)が来て、給養について質問されたが、コミシヤの威力が分らず、有り体に報告して、後でソ連軍を誹謗したと罰せられるかも知れぬと思い、暖昧にやりすごした。しかし田中少尉と打合せて詳細な記録を作ることにした。

                          (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/13 16:25
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  初めての入ソ

 二月になつてスチエードベーカーでクラスキノ《ソ連沿海州最南端の町-》まで食糧受領に行った。初めてソ連の土を踏むわけで、いささか興奮した。国境のノーバヤデレブニヤは丘の上にあり、煉瓦建ての兵舎が二棟と、日本兵の幕舎が数十張り並んでいる。
国境に白黒段だらに塗った遮断機を備えた検問所があって、ここを通る車は必ず食糧なり、何なり相当量召し上げられる。

さらに進むと、大きな兵舎が点々と見え、五十メートル幅の河を渡るとクラスキノの街に入る。街は寒々として何となく荒れ果てた感じ。物資の不足がそのまま表に現れたうらぶれた街並。薄汚れた空屋に入って行く気分だ。

総選挙のポスターだけが嫌に赤々と目立つ。白く塗ったレーニン、スターリンのでかい像が立っているのは学校や公共建物らしい。どの家も、壁や屋根はボロボロの凹凸。その日その日「食うこと」だけで精一杯の様子。
ヒトラーが最後の五分間を頑張っておればと想像する。

しかし、軍倉庫は満洲からの略奪物資で溢れんばかり。クラスキノ駅で分遣隊に会った。元気で肉の塊を担いで集積作業をしている。肉を掻っ払う時は弾丸除けに肉を頭から被るそうだ。ロスケ同士肉の争奪で銃撃戦をやらかすとか。帰りは乾草を満載し、その上に座る。
女が二人琿春へ買出しに行くと乗ってきたが、検問所で引きずり下ろされた。


  クーロフ所長の君臨

 二月上旬所長交替。クーロフ大尉着任、第一印象甚だ悪し。黒髪、天狗面。着任当日両大隊の全将校を集め、前任のダ中佐を横に、自らは机の前にデンと座り、「俺はクーロフ大尉である。今まで中佐がやっていた職を大尉の俺が引継ぐ」。どうだ偉いもんだろうと言わんばかり。

補佐はクニヤーゼフ少尉。これはなかなか良い男だ。クーロフは三月に細君を呼ぶから部屋を空けろと要求。二〇九本部は二二第二中隊のいる部屋に移った。

これを機に、笠に着て勝手な振舞いの多かった二〇九の飯田通訳を分遣隊に送り出し、伊藤が二〇九付になつた。二一一の加藤隊長よりも二〇九の岩崎、小林両中尉の方が遥かにインテリ、自分は暇があると大抵二〇九本部で伊藤らと過していた。

 三月早々、クーロフの出張中に細君なる女が来た。チモフエーエフ軍医が我々に紹介する。
恥ずかしいのか、なかなか姿を見せぬ。やがて黒いワンピース姿で出て来て、大人しく我々と受け答えし、リユーバはロシア女にしては殊勝な女だと見たが、これがとんだ食わせものだった。

翌日、クーロフが帰って来るや、両大隊将校集合命令。細君を横に侍らせて「ラーゲリ内の道路は雪融けで通れぬ。直ちに処置せよ」と怒鳴りつけ、嬶に良い所を見せる。

 公休兵をずらりと正座させ、夫婦で腕を組んで所内巡視がお好み。リユーバはセミチカをポリポリ噛んでペッペッと殻を吐き散らす。ベッドで一緒に寝ながら我々を呼びつけてものを言いつける。人前でキスして二人で相撲をとる。クーロフ出張中は本部のドアを閉めて、当番の小田、コックの山田、ダンスの上手い柿崎と悪フザケをやらかす。

 所長が二度交替したのに、ヒリモーノフ中尉が残して行ったエレソフ伍長と兵隊二人がそのままで、食糧を二一一本部に貰いに来る。
靴や毛布を満人に売って食いつないでいる。原隊に行かなければ食糧の手当ては出来ず、琿春駐屯軍はおろか、ラーゲリのソ側本部も相手にしない。それでも、ヒリモが頼んで行ったラジオだけは売払わずに置いている。

三月頃から東京放送が聞けるようになった。毎晩エレソフの部屋へ行ってニュースを筆記する。ジャズが多くて初めての時は上海放送と間違えた。長門美保が唄い、徳川夢声が「風と共に去りぬ」を読み、小学生が「アメリカの兵隊さん」という綴り方を発表している。英語講座もある。

終戦と同時に満人が青天白日旗を出したのと似ていて嫌な気分だ。幣原首相が国民の耐乏を説き、戦争未亡人の問題をとり上げている。その後は漫才、落語、ジャズで、戦後の日本は頗るホガラカ。半分ヤケ気味か。

ソ連放送は五〇〇KC以下なので東京放送の後はタップを切り替えておく。毎回ケースから器械を取り出すので二週間くらいで聞えなくなってしまった。

 エレソフに「お前らはヒリモーノフに捨てられたようだ。どうする」とおどすと、心配そうな顔をしながらも、俺たちは戦友だと頑張る。彼らはムーリンで初めての日本軍の強力な抵抗に遭遇し、中隊長、大隊長、遂には連隊長まで日本軍の重機にやられるわ、友軍機に誤爆されるわ散々な目に会ったらしい。

戦車が破壊した重機トーチカに入ると全身に手榴弾を結び付けた日本兵が飛び出してきて自爆した由。夜行軍の列に樹上から斬り込まれたり、剣が飛んできて将校が殺された。特別に訓練を受けたのかと訊く。

ソ連軍はウオツカの勢で前進し、後ろから来る憲兵を警戒しつつ乱暴の限りをつくし、憲兵が現れると前進する。ヒリモ小隊が全員酔払って寝ているところへ少佐が来て前進を命じたが、少佐は拳銃だが、俺たちにゃ自動小銃があると脅かして追っ払ったとか。
非道い奴らだが、日本軍でも弾丸は前からばかりと思うな、後ろからも来ると言われているから五十歩百歩か。

                         (つづく)

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  琿春病院の改造

 三月一日、琿春病院を陸軍病院に改造のため技能兵五十人を出す。ソ側は尉官の女医が多い。院長は中佐でなかなかの紳士。
手術はユダヤ人の女医の大尉の担当。大変親切な女性だった。

スチーム工の佐藤上等兵が、手相拝見で婦人連中に大もてになった。彼は琿春重砲連隊の生き残り。連絡に出されているうちに終戦になり、部隊は砲もろとも自爆したとか。

三月になっても白頭山付近で日本軍の抵抗があるらしく、この日も約三十人の負傷兵が運ばれてきた。彼らは我々を見ても別段敵愾心を示すでもなく、中には笑顔を見せるのもいる。テレ臭いのかも知れぬ。

  冷凍豚と牛の首の大盤振舞

 三月も未近くになると、満洲にも春が来る。連日到着する冷凍豚が融け出して貨車は血だらけ。ソ側は処置に困ってニケ大隊に六十頭くれた。押収の白菜が駅に山積している。それ以来毎日三度三度豚と白菜の塩煮が主食となった。

田中主計は血の垂れている豚の山の中で仕事をしている。その頃は牛の冷凍も大量に到着していたので、ソ側は食い切れない牛の頭二十個と膝先数十本を寄こしたが、日本人は動物の煮こごり(ホロデツ)を食う習慣はない。

始末に困って、屋外に棚を作り、舌を出した牛首を並べておいたが、夜中厠へ行く者が嫌がるので足もー緒に穴に埋めた。日本兵はこんな旨いものを食わないのかとソ連兵に笑われた。

彼らは牛の両耳に金棒を突き通し、焚火の上でグルグル回しながら完全に毛を焼き切った後、大釜に放り込んで煮立てる。脳や目玉や髄のゼラチンが流れ出し、冷えて固まる。ロシヤ料理の高級品だが、料理が手荒過ぎる。

 三月中旬、大尉を長とするゲペウがラーゲリの隣に移って来た。

                        (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/16 12:47
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  移動の開始

 四月初め、大雪の翌日、病人を敦化《そんか=吉林省延辺自治州の都市》に後送することになった。両大隊併せて八十人余。結核や栄養失調で敦化まで保つまいと思われる重患もいる。軍医さん、何とか残して下さいと哀願するが、一人の衛生兵も同行を許されない。

クーロフ所長は例の威嚇的な調子で、輸送貨車の設定を命じる。ソ側の規定通りには材料がなくて出来ない。伊藤と自分に拳銃を向けて、「日本人の患者を送るのに日本人が準備してやれないのか」と、規定通り作れない責任を我々に押し付ける。

 四月中頃から我々も移動する気配が見え出した。琿春駅には引揚げソ連軍が続々と到着し、トラックに乗り換えてクラスキノに向う。捕虜の日本軍三ケ大隊も徒歩でソ領に向った。
二等兵まできちんと階級章を付け、軍紀厳正である。旧軍建制のままの部隊のようだ。わが大隊のオッサン兵とは大違い。

前記のアルチョム炭坑ラーゲリに入って初めて知ったが、このラーゲリの主体は第五十九師団で、終戦の一ケ月前まで北支の八路軍と戦い、関東軍に所属になったため、ソ連側から睨まれ、旧軍の建制《けんせい=建軍制度(組織)》のまま労働に従事しつつ、北支時代に支那に対しお互いどれだけ悪事を働いたか相互暴露をやらされていた。
琿春に来た三ケ大隊も五十九師団であったかも知れぬ。

彼らはダモイが遅くなるのを覚悟していたので民主運動など糞食らえであった。同師団の通称号は衣部隊だったので、自からを「破れ衣」と自嘲していた。
我々八人が、初めてアルナョムラーゲリに到着したとき、作業に向う兵隊が「お前ら衣か」と訊いたのをクリカラモンモンの刺青自慢の足立上等兵が聞き違えて「子供かとは何だ!」と怒鳴り返したのを思い出す。

 吉林から引き揚げて来たスプルネンコ大尉に駅で再会。ダモイしたのかと思っていたが、未だいたのかと驚いている。「君だけに言うが、ソ連軍は五月五日ソ満国境を閉鎖するよ」と教えてくれた。
ソ連将校は各自押収した家具や服地をワンサと持っている。典型的な火事場泥棒である。

 四月十六日、両大隊の一般人は満洲に残すと発表あり。吉林では脱走一般人を射殺しておきながらコキ使った後、用済みで釈放とは勝手な話だ。

豊満でも琿春でもラーゲリに大した囲いはなかったので脱走は意のままで、一般人の名簿上の二百三十五人は集まるまいと思ったが、兵隊で満洲に残りたい者、一般人で我々と行動を共にする者などさまざまで結局、人数だけ合わせることになった。

ノーヴアヤの一般人は帰って来たが、奥地や病院、ホテルの使役兵は釈放命令が出る前に入ソしてしまっていた。

 四月二十日、釈放日。ときどきラーゲリに来ていたボグノフ主計少佐の姿も見える。受取り側は何と八路軍だった。
紙製の階級章を襟に付け、日本軍の軍刀を吊った将校と、三八銃や九九式銃で武装した兵隊三人。日本軍の喇叭まで携行している。

将校は「こんなに日本人を寄越しても宿舎も食糧もない」と困ってっている。
クーロフは宿舎は勝手に探せ、俺たちはこの日本人を渡せばそれで終わりだ。この馬鹿野郎!と例の調子で八路軍の将校に食ってかかる。

ボグノフ少佐が見兼ねて「クーロフ、今日は国際間の行事だから、そんな言い方をするな」とたしなめ、穏やかに八路側を納得させた。
希望して満洲に残る連中は大喜びで友人と挨拶をしている。例の小田助監督も哈爾浜へ行くとて「明日越ゆる 山の高さや流れ星」と一句我々に残していった。

一行は付近の陸軍病院跡に入ったらしい。
今にも死にそうな重病人が三人、馬車に座っていたのが哀れである。ソ軍の命令で残留組に入れざるを得なかった。
 
                          (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/16 12:51
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   ソ領へ向って移動開始

 四月二十四日、二〇九西本、二一一田中の両主計が五十人ずつの兵を連れトラックで先発。糧秣倉庫、宿舎設営に当たる。
後は全員で宿舎のトタン屋根、硝子、柱、床板などの取り外し。

翌二十五日は糧秣、資材、それに弱兵をスチユードベーカー十五台で送り出す。弱兵面をしてトラックに潜り込む奴を引張り出すのに大苦労。
この車手配も、クーロフががなり立てて交渉したが埒が開かず、興奮の余り発作を起してベッドに引っ繰り返ってしまったのをポグノフ少佐が例の落着いた調子で交渉を取りまとめた。

 糧珠は四十屯以上あり、輸送も容易ではない。ボ少佐の注意で、輸送中のゴマかしを防ぐため、積込数量と車輪番号をきちんと記録する。何とも厄介な軍隊だ。ソ軍運転兵は特にタチが悪い。一車輌分そっくり満人に売り渡すなど朝飯前の連中である。

 翌二十六日、両大隊主力出発。輜重馬車列を後尾に徒歩行軍。伊藤も出発、自分と阿部中尉は残留後発。
皆が出発するのを待ち兼ねたように邦人女性が集まって来て、厠の馬糞に混っているコーリャン粒を拾ってゆく。ロシア人の歩哨が面白がって追い回す。
隙を見て米俵一俵を投げてやったが、満人がワッと寄って取り上げてしまう。

 二十七日、快晴、残員全員とボグノフ、クーロフ夫妻らソ側十人がスチエードとニッサンに分乗して午後一時出発。出発前、洗面器にどぶろくを入れ、コップでガラガラすくってソ側と乾盃。

琿春の街、満洲も見納め。街の立木も芽を吹いて、春の日差しは捕虜にも公平に当たる。関東軍はどうなっているのか。我々が一番最後まで満洲に残っていたことになるのか。

 クーロフのニッサンが道を間違え実直ぐに走り去る。ボグ少佐がクーロフの馬鹿奴と舌打ちしてスチユードで追いかける。

 ノーバヤデレブニヤ《中ソ国境の町-》の検問所で時間を取られ、クラスキノの街が見えた頃、夕陽が入ってしまった。しかし、四月ともなればなかなか日は暮れない。鎖国のソビエトの懐に入って好奇心が湧く。
                          (つづく)

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  クラスキノからスラビヤンカヘ

 クラスキノ《ロシア沿海州最南端の港町-》も二月に糧秣受領に来たときは寒々とした感じの街だったが、今日は如何にも春らしく、仕事から帰る娘たちの軽やかなスヵート姿に心が和む。しかし、建物が何ともお粗末。
四年間の独ソ戦のせいだけではないようだ。レーニン、スターリンの真白い像がチグハグ。

 先発本隊はクラスキノ駅付近に集結していたが、トタンは二〇九に取られて二一一は半数が野宿。本部は九五式大型天幕で、自分の席は取ってあった。二〇九にトタンをせしめられて田中主計が加藤隊長に絞られていた。

 夜は相当冷え込む。朝は濃い霧に包まれる。海が近いためか。駅には食糧、馬糧、被服、日本軍の兵器、薬品箱、工場資材等が山をなしている。北朝鮮からも大量に持ち込んだとのこと。
ソ連の貨車は赤色木造の半分ひしゃげた十人屯四輪車。よく見ると独逸から取り上げたもので、満鉄の八輪鋼製四十屯貨車に比べると全くお粗末。独逸も大分因っていたようだ。

機関車は手入れが良くピカピカ。大事に扱っている。女の機関手がいる。大きくて真黒で、胸の膨らみでやっと分かる。助手も線路工夫も頑丈な女たちだ。これだと銃後の守りも安心だろう。

 駅に消毒入浴車が常駐していて入ソする日本兵を素裸にして消毒する。係員は女。若い娘たちが腕を組んで、並んでいる我々の前を通りながら品定めする。誠に大らかなものだ。

 五月一日メーデー。クーロフの指示で舞台を作り演芸大会。一方、琿春到着の翌日分遣した一中隊、四中隊は貨車の積込作業をしている。不公平な扱いだ。
隊長の久松中尉によれば、琿春から十日ごとに送ってやった糧秣は殆んど横流しされ、この半年間はソ側食糧を命がけで掻っ払って食いつないでいた由。

ソ軍の押収糧秣は肉塊も含め一山ごとに歩哨一人が監視しているので、掻っ払って逃げ出しても追いかけて来ず、自動小銃を乱射するだけ。追いかけて山を留守にすれば、日本側はおろか、ソ軍の他部隊にもごつそり持って行かれる。弾丸除けに肉塊を頭に担いで匍匐《ほふく=腹ばい》する。

 分遣隊のソ側隊長は、当番の日本兵が誤ってソ連兵の唇に斧で少し傷付けたのを口実に銃殺にした男だ。食糧横流しを喚ぎ付けられたからだと言われている。
その日本兵は射撃場に引き出された時、俺は実は特攻隊の将校だ。潔く殺されてやると啖呵を切ったそうだ。
もっとも、中尉の奴はメチルを飲んで、部下十四人も枕を並べて死んだ。我々一同大いに天罰に感謝した。

 クラスキノ駅では一度だけ流刑列車らしいのが到着した。貨車には家族らしい男女がすし詰め、屋根の上に手の甲に数字の入墨をした坊主頭の元兵隊らしいのが七、八人ずつ座っていた。シベリヤ鉄道の果てまで来て、これから何処へ行くのか。

 五月中旬、プリモールスカヤ《ロシア沿海州南端のウラジオストクの対岸の港町》へ移動と決った。浦塩の外港らしい。食糧やトタン、板材の設営材料を積んだ貨車の隙間に人間が潜り込む。自分は厩小隊を率いて馬匹行軍。乗馬三頭、満馬を含む挽馬二十頭、コンボイ《警備兵》二人に我々二十人の編成。日程五日。

坦々とした軍用道路が丘と丘を結んでいる。トラック四台分の幅がある。一粁ごとに道標があり、浦塩まで一人〇粁。天気晴朗ポカポカ陽気。木々に若葉、野は花盛り。ほぼ十粁ごとに小部落があり「レモント」の看板を掲げた道路補修員の住宅が見える。

 スチユードベーカーの往来が頻繁だ。橋は木造で、キャタピラー車(グーセニッツイ オブホット)迂回の標識が立っている。鉄道踏切は常時遮断機が下りており、横切る方が引き上げる。

ある地点でコンクリ陸橋の下を通ったが、橋桁に大きく赤ペンキで張鼓峰の勇士万歳!(ザズドラストヴーエット バイツィオゼロハサナ)とあり、また時々道路脇に煉瓦のトーチカ跡のようなものがあるので、カンポイ《警備兵》に訊いたら、シベリヤ出兵時の日本軍の監視哨跡だとか。捕虜の悲しみを感じる。

                            (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/16 13:05
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 この行程で分かったことは、石造建物の道路側窓には必ず銃眼が設けられていてその部屋には人は住んでいないことだった。
国境地帯とはいえ、誠に意周到で、おかげで我々の労働には銃眼壊し作業が随分あった。

 行軍第一夜は、丘の麓の小川の辺り。ビロードのような若草と白樺林。天幕にはカーバイドを灯け、飯盒飯に豚肉、白菜、馬鈴薯の煮付けに野草のオヒタシと賑やか。ソ連兵は黒パンと脂身(サーロー)、馬鈴薯の抽妙めで至極簡単。

 この行軍は晴天に恵まれ快適そのもの。琿春生れの仔馬が殆んど馳足《ちそく=走って》で、車を曳く母馬に付いて来る。小休止ではコロリと横になっている。
最後発のトラック組が追い付いてきたが、エンジンの調子が悪く、故障したボロ車まで牽引しているから大変だ。バンプーロヴォの街外れの小川の辺りで大休止。水が綺麗で小魚も多い。

翌日は行軍を取り止めて、ドラム缶の風呂に入ったり、掻い掘りの小魚を煮たり、碁を打ったりしてのんびり過ごす。

 四日目の昼すぎプリモールスカヤにあと十粁の地点で昼寝。夕方薄暗くなってから到着。クーロフは全員無事に着いたので珍しく笑顔で出迎えてくれた。途中で拾った子犬はリユーバが早速連れていってしまった。厩小隊は丘の中腹に位置した。

 海が近く、浦塩の灯りがチラチラ光っているのが望見される。
 朝は霧が濃い。プリモの街はアパート式木造建築が道路沿いに並んでいる。煉瓦造りの機関庫があり、日本捕虜がガソリンカーで来て完成工事をやっている。

我々は馬糧整理やガソリン受領などの小作業のみ。燃料廠に行ったら「禁煙(ニエクリーチ)」の標示の下で中尉が口付き煙草を呉れた。禁煙だろと言ったら「なに、俺が責任者だから構わんよ」と呑気なもの。

 駅の近くに女車掌寮がある。チモフエーエフ軍医に無理矢理連れていかれたが、全くの女郎部屋。
真赤な唇の女が息のかかるほど顔を寄せて話しかけるやら、白粉の付いたままの手で握手するやら。白粉は日本の磨き砂程度の荒いやつ。ライオン粉歯磨きが白粉代りになるのもムベなる哉。

 五月も中旬過ぎると雨天が多くなってきた。敦化編成の川上大隊がクラスキノから到着。二〇九、一と川上の三ケ大隊を合併し、一の加藤大隊長を長とし、特技者を除き千人の大隊を編成することになった。伊藤と自分がクーロフに呼ばれて編成した。

兵、下士官九九〇人と将校は大隊長、副官、軍医、主計、中隊長四、通訳二を加え計千人とする。小隊長要員なし。自分は二一一の通訳だが、クーロフの命令で残留、技能者隊の長になれという。

二、三日前から、琿春ラーゲリに時々きていたジュワーキン大尉が現れ、機械工(メハーニク)、大工(プロトニク)、左官(シトウカトール)、縫工(パルトノイ)、塗装工(マリヤール)らを三ケ大隊から選抜して七十人の編成を言いつける。彼は兵站の将校らしい。

 五月二十日、雨中を加藤大隊が浦塩方面へ出発。残ったのは、三ケ大隊の将校約一二〇人と兵、下士約二〇〇。ソ例の命令で、隊長は二〇九の岩崎中尉、川上大尉は将校団長。通訳は伊藤と自分、主計は田中、岩松両少尉、軍医は二〇九の大井中尉、技術隊は自分が長で副官は藤井少尉。
ロシヤ人の技能程度が低いと分かったので、一寸器用な兵隊は大工、塗装工で付け出す。日本の叩き大工でも一人前の大工で通る。

 川上隊の将校連中は何もせず、毎日藤八拳や猫と鼠遊びで呑気なもの。我々技能者隊は何かと使役に出される。

 五月下旬、プリモを発ってバンプ一口ボへ逆行。駅から一粁の住居跡へ。糧秣を下ろしていると、女どもが寄って来て、米を数瓩くれたら一晩来るという。恐るべき食糧不足だ。
干鰊を洗っていたら、若い娘が二人来て黒パン三〇〇瓦と交換して欲しいと。今日は誕生日だが、御馳走は何もないと悲しげ。

労働者が俺達の昼飯は蒸し玉萄黍二本だけだ。君らは早くダモイして俺達に食べ物を残してくれという。

 移動のつど、真っ先にクーロフ夫婦の住居を選定し、要求通りに造り替えねばならぬ。
夫婦で伊藤と自分を呼びつけては文句をいう。我々は床に座り、彼らは椅子にふんぞり返る。伊藤が丸くなって平身低頭するので嫌味を言ったら、リユーバはノーズロだと。マメな男だ。

我々の宿舎は半崩れの建物にムシロを張って終わり。糧秣はナメクジだらけの倉庫跡の地下室を改造して収納した。

 即日、機械工、木工、縫工ら兵二十八人と将校一人を十七粁先のスラビヤンカの修理廠(レムバーザ)に派遣。このスラビヤンカ《ロシア沿海州ハサン地区の町》という海岸の街が、爾后一年間の我々の作業地となった。

 五月三十日、兵五十人を率いてスラビヤンカに向かう。天幕、糧秣を積載した挽馬輜重車二輌が続く。本隊出発は六月一日。

                            (イレギュラー虜囚記(その3)に つづく)

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あんみつ姫

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