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アジア鎮魂の旅

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/4/30 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 レンパンの休日

 毎週一回の休養日には、大方の者は ゴロゴロ寝ていたが、我々若者は遠浅の海に出て サンゴ礁の岩に登り、澄み切った海中を泳ぐ色とりどりの熱帯魚を釣るのが この上ない娯楽であった。
 或る好天の休養日、私はいつもの通り潮の引けた砂浜に出掛け、貝拾いをしていたところ、小石の下の水溜まりに 鰍のような小魚が泳いでいるのを見つけた。 早速捕まえた其の瞬間に、小魚の広げた胸鰭で手の平を刺され、手から腕にかけ みるみる腫れあがり、激痛に耐えかね、衛生班に行き事情を話し相談したところ、
 「 死ぬ様な事は無い。この重曹を飲んでおけ 」 と言って 重曹を2粒くれた。言われる通り飲んでみたが全く効き目が無いどころか、夜半になるに従って発熱して眠れない。 再度衛生班を起し、丁重に頼み込んでモルヒネの注射をしてもらい 痛みは治まったが、結果的には微熱が下がらず2日間寝込んで仕舞った。 レンパン島には、この様な毒を持つ魚やサソリ、ムカデ等の昆虫、又多くの毒蛇が生息し、其の中で我々は裸同然の暮らしをしているのであり、考えて見れば、常に危険と隣り合わせの生活をしていたわけである。其の後も一回 サソリに刺され、モルヒネの世話に成ったのは都合二回で、その都度死ぬ様な思いをした。
 上陸以来四ヶ月も過ぎると、単調な島の生活にも馴れて来た。畑に蒔いたタピオカやさつま芋、胡瓜などが収穫出来る様になると仲間達の神経も和らぎ、休日は趣向を凝らした演芸会が行なわれる様になった。
 其の道のプロもいる仲間達は、夫々分担して 衣装や鬘、大道具、小道具に至るまで作るのであるが、特に女性の鬘<まげ>を椰子の実の繊維で作って演じた「 湯島の白梅 」や「 愛染かつら 」などの出し物では、観客の大喝采を受け、続いて歌謡曲、浪曲の出し物もあり、玄人のような芸に目頭を濡らす者まで出る状況であった。
 レーションの支給が始まった頃から、「 のど自慢大会 」が開かれる様になった。 之は歌手の藤山一郎氏が同じ抑留者の一員として此処におり、彼の発案であったかも知れないと推測する。 
 我々は、島の東海岸にある 満賀村で開催された大会に二回出掛けた。 戦闘帽に越中褌それに杖を持ったレンパンスタイルで三々五々集まるのだが、赤道直下のレンパン島で炎熱の砂浜を歩くのは火傷を負う様な暑さであるが、それでも皆、砂浜と海を交互に渡りながら会場へ集まったものだった。
 この大会の魅力は何と言っても、入賞々品にくれる、握り飯であり、参加賞に飯盒一杯のアタコであったが第一の目的であったが、思えばこの様な娯楽が、苦しい中にも円満な人間関係を保ちえた一因だったのかもしれない。








( 南千武地区から多根村方面を望む・・スコール来襲近し! )

2006年8月27日 (日)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/5/3 7:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 待望した復員の日

 第一次世界大戦の終戦後に捕虜としてこの島に抑留された略全員が餓死したと聞かされていた 「死の島」 レンパン島も今回 日本人の手で、地域によっては、側溝のついた道路が出来たし、山林は伐採して農場と変貌して来た・・・・・。 ぼつぼつ 内地への復員話が持ち上がったのは四月に入って間もない頃であった。
 伝わって来る不確実な情報では、「 復員の順序は 年寄り、病弱者、家庭で心配事のある者 等を総合的に審査して決定する事に成る 」らしい、そう成れば若くて強健で あまり心配事の無い我々は所詮一番最後になるだろうと覚悟せざるを得なかった。
 一日の作業を終えてマンデー(水浴)を済ませ、夕食前の ひと時を砂浜の椰子の根元に座り、対岸のガラム島上空に沸き上がる積 乱雲を眺めていると、白く塗られた復員船が黒い煙を残して出港して行くのが度々眼に入った。
  「 あー 今回も俺たちじゃなかったなあ・・・・・」 と顔を見合わせ 溜息をつくのは何時も決まって 若者の我々であった。 ガラム島との海峡を行く復員船を眺めながら懐かしい故郷に恋しい思いを馳せた事は何回あったことだろう。「 ドラの音は残留組をいらだたせ 」  とか「 蛍の消え行く彼方に面むけて静かに友は妻を語りぬ 」 と詠んだ仲間達は当時 島で生活している者全員の心情を如実に表わしている 句であり詩であると同感した。
 レーションが配給になり、之の防水用として塗られていた蝋を剥ぎ取って蝋燭を作ることが出来た。 灯をともし、夜の耽るのを忘れ 車座になって話し合うのが毎晩続くが、話題は家庭の事情によって異なるが、常に出てくる話は お国自慢と食べ物の話である。
 また敗戦によって荒廃した日本国土を再建する、という大きな話まで様々であったが、そうした皆の話に黙々と聞き入り物思いに耽っていたのは、妻帯者であったり年寄りや病弱の家族を持つ人々であった。
 蝋燭の灯りが消えても未だ話は尽きず、星明りの砂浜に出て更に続く。敗戦の情報を聞いてからマレー半島を南下し、クルアンの検問所を経由してレンパンに至った半年間は文字通り ドラマの如き苦難の連続であった。時代の変革と危険の中を通り過ぎて来ながら、生きている現実について、唯々 神に生かされて来たのだと思う他無かった、又互いに数奇な運命を辿って来た者同士の話は尚更 尽きる事は無い。
 ガラム島の沖合いに 揺れながら浮かぶ漁火を眺め、干し草を敷いた床に横たわり、仲間の吹く横笛の音に、故郷を偲ぶ夜が幾晩有った事だろうか、其の笛の主こそ東北出身のH氏であり、あのクルアン検問所のホワイトキャンプで十五夜の月を眺めつつ懐かしく聞き、涙して以来 幾度か我々の荒ぶ心を慰めてくれたのであり、今でも丸い大きな 月を見る度に当時の島の状況を思い起すと共に、彼の顔が瞼に浮び感謝をしている。
 多恨村からも復員者がぼつぼつ出始めたが凡そ五十名程の者はインドネシア側に、この島を引き継ぐまで 農場管理の為残る事になったが、我々若者は 当然残るものと覚悟していた事であり、反対する理由は全くなかった。
 タピオカをはじめ茄子や胡瓜、さつま芋等々の野菜も収穫期に入っており、少人数で豊富な食糧を持って生活するという、上陸当時とは全く違う状況になった。 千鳥港へ食糧受領に行く必要も無くなり、自分達が育てた野菜を材料にして如何に美味く食べるかを考えるだけの生活である。
 夜になると、各班毎に集積してあった薪を一箇所に集め、之を燃やしながらドラム缶を叩き、南十字星が水平線に消えるまで唄い、踊った。 これは夜中に出没してタピオカ畑を荒らす猪を追い払う為であり、毎晩続けたのであるが今にして思えばレンパン島生活の中で一番楽しかった時だったと思う。









( 島の所々に火焔樹の花が咲いていた ) 

 そんな日々が続いていた六月初旬、突如として我々にも待ちに待った帰国の順番が巡ってきた。島の各地に居を構えて生活していた人々の多くは既に帰国していたので、残る人員は五百人足らずであろうと推測しながら 一日も早く帰国したい思いに駆られ 皆一様に 「 いくら遅くても今年中には帰れるだろう!・・・・」 と半ば諦めの境地であった所に、急遽復員の話が飛び込んで来たので その喜び、嬉しさ は形容し難いものであった。
 成るようにしか成らない・・・という暗い考えが一変して気持まで和らぎ又 同時に故郷の話や食べ物の話が、過去に無いユーモアを交えた楽しいものへと替わった事を皆が自覚 出来、ご粗末な小屋は 皆 大いに はしゃぎ 笑い声が聞ける様に成った。
 夜が更けるに従って、凡そ八ヶ月の原始生活を続けた、赤道直下のレンパン島生活が次々に甦る!・・・朝夕聞き慣れた潮騒や椰子の葉ずれの音、また白砂の海岸から見える スカイブルーの海と緑の島との鮮やかなコントラストは全て我々の脳裏に滲み込んで離れない。 この美しい風景の島を 離れ難く思う心と、郷愁が入乱れ 複雑な感情を持った者は私一人では無かった事だろう。
 昨年十一月二十三日、敗戦の悲哀と恐怖を胸に、丸太で造った仮設桟橋を渡り、この島に上陸したとき、「 此処が我が運命 終焉<しゅうえん>の地か! 」と覚悟をし又運が良ければ、少なくても二~三年の抑留生活か・・・と甘い考えも事実持った。 其の上で 如何に苦しく辛い生活だろうと、耐え抜いて 「 全員で内地へ帰ろう 」 と励まし合って来た。それが八ヶ月にして復員出来るとは全く夢の様だった。
 復員準備と言っても、僅かな衣類、飯盒、雑嚢<ざつのう>、毛布、天幕それに抑留中レーションの空き缶で作った食器類など、ご粗末極まりない物ばかりであっる。 それなりに準備を整えて床に就いても、外の潮騒や椰子の葉ずれの音が耳につき興奮して眠れないままに朝を迎えた。









( 南国を象徴するブーゲンビリアの花 )

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/5/16 9:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 待望した復員の日-2

 砂浜に丸太の柱を立て ニッパ椰子の葉で屋根を葺き それに乾燥させた野草を敷き詰めた 家畜小屋を連想させる様な我が家でも、之で永遠の見納めに成るのか!・・・と思えば些か感慨深いものがある。
 この様な我が家でも 「 発つ鳥水を濁さず 」の故事に倣って清掃し、干し草のベットに敷いてあった万年パンツにする筈だった麻袋も雑草といっしょに焼却した。
 懐かしい故郷への復員を一日千秋の思いで待ち望んでい乍ら 病に倒れ、不帰の客となった四国出身のK氏の眠る 墓前に全員が整列して別れを告げた・・・ 誰一人見守る者もいない南瞑の孤島に、彼一人 置き去りにして帰る我々は後ろ髪を引かれる思いであり、深い悲しみの中 冥福を祈って 多恨村を後にしたのだった。
 我々の血と汗と涙で切り開いたブッシュの道、幾度かの食料受領で通った泥濘の道も、愈々帰国となれば、足も軽やかになる。 追分村 経由で宝港に到着したのは夕方になった。久し振りに一夜を過ごす宝港に来て見れば、 軍司令部の百坪余も有りそうな建物や 膨大な付属建物も有り、また港の近くでは古惚けた自動車まで走っている。
 凡そ 我々中央を外れた場所に住む最下級兵士達は想像もしなかった この別世界を 垣間見て 多くの者は其の違いの大きさに腹立たしさを感じたのだった。
 宝港におけるレンパン島最後の野営も興奮して眠られずウトウトしながら朝を迎えた。
 沖には既にアメリカのリバテー船が停泊している。食事を済ませ一夜の後片付けを終了し、逸る心を抑えながら桟橋に集まり、此処からは大発に分乗し,リバテイ船に横付け して 乗り移るのであるが、リバテー船に近付くと、驚く事に、タラップは無く、ただ縄梯子が四カ所に吊り下げられているだけである。
 如何に1万㌧クラスの大型船とは云え 波に揺られており、一方 木の葉のように 大きく揺れる大発から この縄梯子を使って よじ登り、乗り移る芸当は 健康体であっても難しい。 まして栄養失調の我々にとっては尚更 危険極まるものであったが、  「 此処で落ちてたまるか! 」と満身に力を込め、 「 ヨイショ! ヨイショ! 」 の掛け声にタイミングを合わせながら一段、一段と登りつめた。
 どっこいしょ、と最後の一段を登り詰め 、甲板に足を踏み込むと同時に、「今度こそ内地へ一直線に帰れる!・・・」という安堵感から一気に体中の力が抜け、焼け付く様な甲板に座り込んでしまい、仲間同士は 無言のうちに手を握り喜び合った。
 私は一旦船倉に行き、之から内地へ到着するまで夫々が寝起きする場所を確認して、僅かな荷物を置くと、直ちに蒸し風呂のような船倉から甲板へ飛び出した。 同じ乗船でも 行き先不明のまま シンがポールを出港した時と違い、皆の顔は本当に明るい。
   「 港シャンソン 」を口ずさんでいる者もいた。
 甲板から リオウ諸島の上空に 沸き上がっている入道雲を眺めながら 幾多の苦難を乗り越えて来た感慨を込めて誰かが唄いはじめた。
      さらばレンパンよ  また来るまでは
      しばし別れの    涙をかくす
      恋し懐かし      あの島見れば
      椰子の木かげに  十字星
 並み居る皆の顔は涙で くしゃくしゃになり乍らも 拭く事を忘れ大合唱となった。
 リバテイ船への乗り込みが完了したのは、乗船開始から数時間を要し、船が錨を上げたのは、陽も大分 西に傾いた夕方に成っていた。
 今にも沈まんとしている太陽が波に反射して眩しい! 、そんな中 船はレンパン島を出港し、南シナ海を経て 日本へ向かう永い航海が始まった。昭和二十一年六月十四日 生涯忘れられない日である。
 平穏な航海を続ける事一週間目に 天候の変化を予知する様な雲行きに不安を感じ、状況説明を求めたところ、船長側から「 小型台風の発生情報をキャッチした為 之を避けるべく 西に航路を変更して避難行動中である 」 と言う説明を受けた。然し波風は時間と共に其の激しさを増し、荒れ狂う波は一万㌧以上はあろうと思われる大型船で有りながら、木の葉の如くローリング、ピッチングを繰り返し、大きな波が来ると喫水十㍍以上ある船の甲板から波に手が届く程傾く、その恐怖を感じながらの数時間こそ 全員の心は
  「 折角 拾った命ではあるが之で駄目か・・・」 
と観念しつつ一時も早く台風圏内から脱出 出来る様に・・・と祈ったのである。
 我々の仲間達は一部を除き 多くは 海上での暴風を経験した事が全く無い山国育ちである為 今にも転覆するのでは・・・・と思うような 台風の恐ろしさを初めて知った尊い経験であった。
 台風も去り、明けても 暮れても空と海しか見えない単調な船旅が続く中で、我々の心を癒してくれたのは沖縄の東方を北上中 デッキに上がれば、昼はイルカの群れが船に戯れる如く泳ぎ回り、また飛び魚がデッキに飛び込んで来るような珍しい光景を、 夜は船の舳先から尾を引くように光る夜光虫の光などを眺める事が楽しみであった。
 北上を続けた船は、愈々豊後水道に入って来た。 其の頃ようやく「 本船はこの先、瀬戸内海に入り 広島県の宇品港に入港する・・・・・ 」との連絡があった。 デッキから見る小島には 松ノ木が目に入り、確かに日本だと実感する事が出来た。
 また、近づいて来た漁船の二人は夫婦だろうか? 、我々に手を振ってくれた。「 やっ、日本人の女性だ!・・・・ 」と 皆口々に叫びながら、感激の涙を流したが、お互いに顔を見合わせ、何の涙か分からない。 ただ、照れ隠しの為に笑い、はしゃいだ。 途中台風に遭遇したとは言え 約半月間に亘る航海も無事に終わり、リバテー船は宇品港に入港した。 しかし、検疫準備の為直ぐには上陸できず、船上から街の明かりを眺めつつ逸る気持と興奮の中で一夜を過ごした。
 此処で我々復員者に対して、 石黒貞蔵 南馬軍司令官からのメッセージを紹介する。

 「 今ヤ諸氏、洋々タル希望ニ満チテ、新生ノ門出ニ旅立タントス。諸氏ノ歓喜、正ニ言語ニ絶スルモノニアルベシ。本職モ而諸氏ノ心中ニ思イヲ致シ、更ニ諸氏ノ帰還ヲ鶴首シアル 郷党ヲ偲ビテ、衷心ヨリ祝福ノ意ヲ呈セザルヲ得ズ。 然リ而シテ諸氏ノ克ク知ラルル如ク、邦家ノ現況ハマコトニ多事多端ニシテ、ソノ諸氏ニ待ツトコロ而甚ダ大ナリ。邦家ノ再建ハ、真ニ国ヲ思イ自ラソノ礎石タルヲ以ッテ任ズル忍苦ノ士ニシテ、始メテ之ヲ為シ得ル所、内地ヲ遠ク離レテ幾星霜、不毛瘴癘ノ地ニ転戦シ、更ニ不踏ノ密林ヲ拓キテ営々大地ニ挑ミシ諸氏 <レンパン>ノ努力ハ、必ズヤ国家再建ノ原動力タリ得ベシ。
 コレ本職ノ敢テ本土帰還ヲ称シテ以テ門出トイウ所以ナリ。願ワクバ諸氏能ク本職ノ意ノアルトコロヲ体シ、身ヲ以テ邦家再建ノ闘士タランコトヲ。
 終リニ臨ミ海路ノ平安ト御健康ヲ祈ル 」     南馬軍司令官   石黒貞蔵

 遂に我々は、焼け野が原と化した祖国日本に上陸した。広島に原子爆弾が投下された事も、其処で初めて知った。
 この荒れ果てた広島では、連合国軍将兵の傍若無人な振る舞い、戦争被害者の惨めな実態、女性の変貌等などを目の当りにし、竜宮から帰った浦島太郎のような錯覚に陥って 一様に悲憤慷慨 唇を噛んだ。
 そしてチュンポンの山中で 「 お前達は日本に帰り、荒れ果てた日本を再建する大事な仕事がある 」 と諭されたK班長の言葉を思い出したのである。
 文字通り九死に一生を得て帰国した昭和21年7月1日こそ私の生涯忘れられない記念日であり、生活が安定したら必ず多くの仲間達が尊い命を落とした東南アジアの地を訪れ冥福を祈る旅をしよう、と心に誓ったのであった。

 さらばレンパンよ  又来るまでは
 しばし別れの    涙をかくす・・・・・

 2006年8月29日 (火) 記


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