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アジア鎮魂の旅・その12

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通常 アジア鎮魂の旅・その12

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/5/3 7:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 待望した復員の日

 第一次世界大戦の終戦後に捕虜としてこの島に抑留された略全員が餓死したと聞かされていた 「死の島」 レンパン島も今回 日本人の手で、地域によっては、側溝のついた道路が出来たし、山林は伐採して農場と変貌して来た・・・・・。 ぼつぼつ 内地への復員話が持ち上がったのは四月に入って間もない頃であった。
 伝わって来る不確実な情報では、「 復員の順序は 年寄り、病弱者、家庭で心配事のある者 等を総合的に審査して決定する事に成る 」らしい、そう成れば若くて強健で あまり心配事の無い我々は所詮一番最後になるだろうと覚悟せざるを得なかった。
 一日の作業を終えてマンデー(水浴)を済ませ、夕食前の ひと時を砂浜の椰子の根元に座り、対岸のガラム島上空に沸き上がる積 乱雲を眺めていると、白く塗られた復員船が黒い煙を残して出港して行くのが度々眼に入った。
  「 あー 今回も俺たちじゃなかったなあ・・・・・」 と顔を見合わせ 溜息をつくのは何時も決まって 若者の我々であった。 ガラム島との海峡を行く復員船を眺めながら懐かしい故郷に恋しい思いを馳せた事は何回あったことだろう。「 ドラの音は残留組をいらだたせ 」  とか「 蛍の消え行く彼方に面むけて静かに友は妻を語りぬ 」 と詠んだ仲間達は当時 島で生活している者全員の心情を如実に表わしている 句であり詩であると同感した。
 レーションが配給になり、之の防水用として塗られていた蝋を剥ぎ取って蝋燭を作ることが出来た。 灯をともし、夜の耽るのを忘れ 車座になって話し合うのが毎晩続くが、話題は家庭の事情によって異なるが、常に出てくる話は お国自慢と食べ物の話である。
 また敗戦によって荒廃した日本国土を再建する、という大きな話まで様々であったが、そうした皆の話に黙々と聞き入り物思いに耽っていたのは、妻帯者であったり年寄りや病弱の家族を持つ人々であった。
 蝋燭の灯りが消えても未だ話は尽きず、星明りの砂浜に出て更に続く。敗戦の情報を聞いてからマレー半島を南下し、クルアンの検問所を経由してレンパンに至った半年間は文字通り ドラマの如き苦難の連続であった。時代の変革と危険の中を通り過ぎて来ながら、生きている現実について、唯々 神に生かされて来たのだと思う他無かった、又互いに数奇な運命を辿って来た者同士の話は尚更 尽きる事は無い。
 ガラム島の沖合いに 揺れながら浮かぶ漁火を眺め、干し草を敷いた床に横たわり、仲間の吹く横笛の音に、故郷を偲ぶ夜が幾晩有った事だろうか、其の笛の主こそ東北出身のH氏であり、あのクルアン検問所のホワイトキャンプで十五夜の月を眺めつつ懐かしく聞き、涙して以来 幾度か我々の荒ぶ心を慰めてくれたのであり、今でも丸い大きな 月を見る度に当時の島の状況を思い起すと共に、彼の顔が瞼に浮び感謝をしている。
 多恨村からも復員者がぼつぼつ出始めたが凡そ五十名程の者はインドネシア側に、この島を引き継ぐまで 農場管理の為残る事になったが、我々若者は 当然残るものと覚悟していた事であり、反対する理由は全くなかった。
 タピオカをはじめ茄子や胡瓜、さつま芋等々の野菜も収穫期に入っており、少人数で豊富な食糧を持って生活するという、上陸当時とは全く違う状況になった。 千鳥港へ食糧受領に行く必要も無くなり、自分達が育てた野菜を材料にして如何に美味く食べるかを考えるだけの生活である。
 夜になると、各班毎に集積してあった薪を一箇所に集め、之を燃やしながらドラム缶を叩き、南十字星が水平線に消えるまで唄い、踊った。 これは夜中に出没してタピオカ畑を荒らす猪を追い払う為であり、毎晩続けたのであるが今にして思えばレンパン島生活の中で一番楽しかった時だったと思う。









( 島の所々に火焔樹の花が咲いていた ) 

 そんな日々が続いていた六月初旬、突如として我々にも待ちに待った帰国の順番が巡ってきた。島の各地に居を構えて生活していた人々の多くは既に帰国していたので、残る人員は五百人足らずであろうと推測しながら 一日も早く帰国したい思いに駆られ 皆一様に 「 いくら遅くても今年中には帰れるだろう!・・・・」 と半ば諦めの境地であった所に、急遽復員の話が飛び込んで来たので その喜び、嬉しさ は形容し難いものであった。
 成るようにしか成らない・・・という暗い考えが一変して気持まで和らぎ又 同時に故郷の話や食べ物の話が、過去に無いユーモアを交えた楽しいものへと替わった事を皆が自覚 出来、ご粗末な小屋は 皆 大いに はしゃぎ 笑い声が聞ける様に成った。
 夜が更けるに従って、凡そ八ヶ月の原始生活を続けた、赤道直下のレンパン島生活が次々に甦る!・・・朝夕聞き慣れた潮騒や椰子の葉ずれの音、また白砂の海岸から見える スカイブルーの海と緑の島との鮮やかなコントラストは全て我々の脳裏に滲み込んで離れない。 この美しい風景の島を 離れ難く思う心と、郷愁が入乱れ 複雑な感情を持った者は私一人では無かった事だろう。
 昨年十一月二十三日、敗戦の悲哀と恐怖を胸に、丸太で造った仮設桟橋を渡り、この島に上陸したとき、「 此処が我が運命 終焉<しゅうえん>の地か! 」と覚悟をし又運が良ければ、少なくても二~三年の抑留生活か・・・と甘い考えも事実持った。 其の上で 如何に苦しく辛い生活だろうと、耐え抜いて 「 全員で内地へ帰ろう 」 と励まし合って来た。それが八ヶ月にして復員出来るとは全く夢の様だった。
 復員準備と言っても、僅かな衣類、飯盒、雑嚢<ざつのう>、毛布、天幕それに抑留中レーションの空き缶で作った食器類など、ご粗末極まりない物ばかりであっる。 それなりに準備を整えて床に就いても、外の潮騒や椰子の葉ずれの音が耳につき興奮して眠れないままに朝を迎えた。









( 南国を象徴するブーゲンビリアの花 )

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