沖縄特攻に散った山中正八に捧げる43年目の弔詞
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投稿日時 2008/2/6 16:17
kousei2
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これは哈爾浜《ハルピン》学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された作間 隆美氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。
山中正八よ、君が、終戦の日から八十二日前の昭和二十年五月二十五日朝、福岡市郊外の太刀洗陸軍飛行場から発進した重爆《大型の爆撃機》特攻機飛龍の乗員として沖縄本島西方海上に突入して散ったことを初めて知った。
昭和十五年四月、同期入学した二十一期生を代表して同窓会機関誌「ハルビン」の紙上を借り、ここにうやうやしく弔意を表する。霊よ、このどうにも遅過ぎた四十三年目の弔詞を心よく享けてくれ。
これまで君は、本土上空で戦死ということだった。君が航空に転科したことは分かっていたので、偵察将校《航空機の航法(ナビゲータ)選科の将校》として散華《戦死》、と考えていた。
正確には、風聞に近い不正確なものだったのだが……。それが、この四月二十五日、在京の内藤操(上智大)からの葉書で一変する。
『いささか興奮して一筆する。十九期の堀内さん(斌さん・福岡県小郡市居住)が、発見して野島さん(同窓会本部長)に送ってくれた本「太刀洗飛行場物語」の「山中正八見習士官航法士-死地への道案内者」という記事を見た……早速、筆者に会ってみてほしい』
頭をガーンと鉄棒で殴られた感じだった。私も新聞関係にいて、この本の出たことは知っていたのに、山中正八が沖縄に飛行機で突っ込んだとは、つゆ知らなかった。迂閥だった。
内藤じゃないが、頭がカッとなって発行所の葦書房に走った。九州を中心にまじめないい本を数多く出しているので有名な出版社で、五十六年発刊ながら、まだストックがあった。
著者の桑原達三郎さんは、高校教諭で現在予備校の講師をなさっている。勤務先の久留米市・円のホテルで昼食をとりながらお話を聞いた。まず、本に採り上げていただいたことのお礼を申し上げた。
一番尋ねたかったのが、書中の第三話「太刀洗飛行場から直接出撃した重爆飛龍特攻隊員群像」のその一「死地への道案内者山中正八見習士官航法士」の一八ページにわたる本文のうち一四ページを占める君の日誌「修養録」についてだった。昭和十九年夏、内地から北満の綏化《中国黒龍江省ハルピン北東の都市》に向かうところから始まる日誌の内容は、削除した個所はないのかどうか。
同年八月十日の項に「新京《中国東北部現在の長春》着、任地出発迄、時間ヲ利用シ、新京ニイル学院ノ旧友達ニ会ヒ、久方ブリニビールヲ飲ミ、大イニ歓談ス 綏化二向フ学院生ハ我一人ノミ」と書いてあるが、この旧友とは内藤と小生である。二人は当時、関東軍総司令部の通訳生で、一日一回ハバロフスク放送の独ソ戦況放送を翻訳していた。三〇分もあれば終る簡単至極なもので、(バカげているが、これで内藤は十一年間もシベリア獄《捕虜抑留所》につながれた)あとは時間をもて余していた。
新京を通過する同期生連中の連絡場所だった。
君からの電話で外出許可を取って新京駅へまず私が駆けつけた。途中、吉野町で着脱自在にしていた軍属帽の星の記章を外すのを忘れていた。
「なぜ敬礼せんか」と怒鳴られた。どうせ幹侯《幹部候補生》の少尉のくせにと、屈辱感にさいなまれつつ何分かの説教に耐えた記憶が抜けぬまま、正八よ、この日のことが忘れられぬわけだ。新京駅周辺でビールが飲めたのか、我々二人の宿舎だった中央飯店まで連れ立って行ったのか、そこのところはハツキリしない。
その後の内藤の便りで「その日に、二人の名が出ているのを筆者は省いているのじゃなかろうか」との疑問も出たし、私も同感だったが、筆者桑原さんはキッパリと否定した。「一字一句、そのまま載せております」とのことだった。
桑原さんは昭和十九年に大連二中から陸士《陸軍士官学校》へ進み、戦後宮崎高農を出た人で、高校教師時代に地元太刀洗飛行場にまつわる記録をまとめるよう依頼されたのが執筆のきっかけ。資料集めの中で、特攻生き残りとして遺族探しに奔走していた犬山市の板津忠正さん (この六月まで鹿児島県知覧町の知覧町立特攻平和会館館長だった)を知り、その斡旋で「修養録」を君の妹さんの八重子さんから借り出してもらった、という桑原さんの話だった。
だから、桑原さんは直接八重子さんと接触があったわけではなかったということだ。それだけに桑原さんとしては「修養録」の中身については恣意《しい=思いのまま》を入れぬよう忠実に転写したという。
君の修養録から推しはかると、昭和十八年十二月初めに学徒出陣《注》で遼陽《中国遼寧省の都市》に入隊し、綏化を経て十九年十月一日に公主嶺《中国吉林省西部にある都市》の航空予備士官学校に入校、十一月五日、陸軍特攻隊の母校であった宇都宮教導航空師団に移る。
航法士《ナビゲーター》訓練のあと、翌二十年四月十一日、特攻出撃の命を受け、五月二十五日朝六時、機長以下四人の搭乗員の一人として双発の重爆飛龍で太刀洗飛行場を飛び立ち、同八時五十七分「我突入ス」の信号のあと、沖縄本島那覇のほぼ西方海上に突入した。大正十二年一月生まれの満二二歳と三カ月だったよね。
(つづく)
注
昭和18年10月 当時の大学 高等専門学校学生には徴兵猶予の制度があったが これが撤廃され文科系学生は12月に 学窓から軍隊に徴兵された
山中正八よ、君が、終戦の日から八十二日前の昭和二十年五月二十五日朝、福岡市郊外の太刀洗陸軍飛行場から発進した重爆《大型の爆撃機》特攻機飛龍の乗員として沖縄本島西方海上に突入して散ったことを初めて知った。
昭和十五年四月、同期入学した二十一期生を代表して同窓会機関誌「ハルビン」の紙上を借り、ここにうやうやしく弔意を表する。霊よ、このどうにも遅過ぎた四十三年目の弔詞を心よく享けてくれ。
これまで君は、本土上空で戦死ということだった。君が航空に転科したことは分かっていたので、偵察将校《航空機の航法(ナビゲータ)選科の将校》として散華《戦死》、と考えていた。
正確には、風聞に近い不正確なものだったのだが……。それが、この四月二十五日、在京の内藤操(上智大)からの葉書で一変する。
『いささか興奮して一筆する。十九期の堀内さん(斌さん・福岡県小郡市居住)が、発見して野島さん(同窓会本部長)に送ってくれた本「太刀洗飛行場物語」の「山中正八見習士官航法士-死地への道案内者」という記事を見た……早速、筆者に会ってみてほしい』
頭をガーンと鉄棒で殴られた感じだった。私も新聞関係にいて、この本の出たことは知っていたのに、山中正八が沖縄に飛行機で突っ込んだとは、つゆ知らなかった。迂閥だった。
内藤じゃないが、頭がカッとなって発行所の葦書房に走った。九州を中心にまじめないい本を数多く出しているので有名な出版社で、五十六年発刊ながら、まだストックがあった。
著者の桑原達三郎さんは、高校教諭で現在予備校の講師をなさっている。勤務先の久留米市・円のホテルで昼食をとりながらお話を聞いた。まず、本に採り上げていただいたことのお礼を申し上げた。
一番尋ねたかったのが、書中の第三話「太刀洗飛行場から直接出撃した重爆飛龍特攻隊員群像」のその一「死地への道案内者山中正八見習士官航法士」の一八ページにわたる本文のうち一四ページを占める君の日誌「修養録」についてだった。昭和十九年夏、内地から北満の綏化《中国黒龍江省ハルピン北東の都市》に向かうところから始まる日誌の内容は、削除した個所はないのかどうか。
同年八月十日の項に「新京《中国東北部現在の長春》着、任地出発迄、時間ヲ利用シ、新京ニイル学院ノ旧友達ニ会ヒ、久方ブリニビールヲ飲ミ、大イニ歓談ス 綏化二向フ学院生ハ我一人ノミ」と書いてあるが、この旧友とは内藤と小生である。二人は当時、関東軍総司令部の通訳生で、一日一回ハバロフスク放送の独ソ戦況放送を翻訳していた。三〇分もあれば終る簡単至極なもので、(バカげているが、これで内藤は十一年間もシベリア獄《捕虜抑留所》につながれた)あとは時間をもて余していた。
新京を通過する同期生連中の連絡場所だった。
君からの電話で外出許可を取って新京駅へまず私が駆けつけた。途中、吉野町で着脱自在にしていた軍属帽の星の記章を外すのを忘れていた。
「なぜ敬礼せんか」と怒鳴られた。どうせ幹侯《幹部候補生》の少尉のくせにと、屈辱感にさいなまれつつ何分かの説教に耐えた記憶が抜けぬまま、正八よ、この日のことが忘れられぬわけだ。新京駅周辺でビールが飲めたのか、我々二人の宿舎だった中央飯店まで連れ立って行ったのか、そこのところはハツキリしない。
その後の内藤の便りで「その日に、二人の名が出ているのを筆者は省いているのじゃなかろうか」との疑問も出たし、私も同感だったが、筆者桑原さんはキッパリと否定した。「一字一句、そのまま載せております」とのことだった。
桑原さんは昭和十九年に大連二中から陸士《陸軍士官学校》へ進み、戦後宮崎高農を出た人で、高校教師時代に地元太刀洗飛行場にまつわる記録をまとめるよう依頼されたのが執筆のきっかけ。資料集めの中で、特攻生き残りとして遺族探しに奔走していた犬山市の板津忠正さん (この六月まで鹿児島県知覧町の知覧町立特攻平和会館館長だった)を知り、その斡旋で「修養録」を君の妹さんの八重子さんから借り出してもらった、という桑原さんの話だった。
だから、桑原さんは直接八重子さんと接触があったわけではなかったということだ。それだけに桑原さんとしては「修養録」の中身については恣意《しい=思いのまま》を入れぬよう忠実に転写したという。
君の修養録から推しはかると、昭和十八年十二月初めに学徒出陣《注》で遼陽《中国遼寧省の都市》に入隊し、綏化を経て十九年十月一日に公主嶺《中国吉林省西部にある都市》の航空予備士官学校に入校、十一月五日、陸軍特攻隊の母校であった宇都宮教導航空師団に移る。
航法士《ナビゲーター》訓練のあと、翌二十年四月十一日、特攻出撃の命を受け、五月二十五日朝六時、機長以下四人の搭乗員の一人として双発の重爆飛龍で太刀洗飛行場を飛び立ち、同八時五十七分「我突入ス」の信号のあと、沖縄本島那覇のほぼ西方海上に突入した。大正十二年一月生まれの満二二歳と三カ月だったよね。
(つづく)
注
昭和18年10月 当時の大学 高等専門学校学生には徴兵猶予の制度があったが これが撤廃され文科系学生は12月に 学窓から軍隊に徴兵された
kousei2
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ここで君と私個人とのかかわりに触れてみる。
昭和十五年四月に入学して入った寮が二棟から成る北寮。学院本校舎から北西一キロほどで野っ原に建ったばかり。その三号室で一緒になる。
わずか一年の同室生活に過ぎないが、今だにこの部屋番号が同期各人の出自《出処》を決めている。林孝道(長野・南方で戦死)森田静男(熊本)高取保夫(撫順中)城所・現水野尚爾(愛知)北島・現吉田威陸男(福岡)池田栄(哈爾浜中)松並博(大分)に岐阜の君と福岡の小生、それに室長山県奉天(戦死)、副室長細田度(松山中)の二人の二年生だった。関恵禄ら二人の漢族学生もいた。
君と小生の二人とも馬術部に入る破目になってバザールで中古の長靴を買った。お互いの純朴さを相手の鏡の中に認め合ったというわけか、堅苦しい中学生活からの解放感の中で、背伸びしいしい口角泡を飛ばしていたように思う。今でいう五月病も経験した。
やがて私は、馬術部は身のほど知らずと知って、細田さんや高取のいたラグビーに移った。君はそのまま馬術部で通したのでは? 二年になると皆ロシア人の家に下宿したので、学校で顔を合わせる程度になる。
こちらは、講義は休んでもラグビーの練習は夜九時頃まではやるという生活でかなり疎遠になったはずだ。だから君の留年に驚くことになる。
こんどのことで広島の木元真二郎に電話すると「三年へ上がる時に、山中は確か試験に白紙を出したと聞いたがナ」とのことだった。
今にして君の性格月旦《げったん=人物批評》をやると、直情径行、純情、素朴、つまりナイーブというやつだ。
このほどの手紙で、妹さんの八重子さんは「短気で感情的になり易い性格」と書いておられるが、考えてみると、悲憤憤慨《憤る》が時代の風潮だったのだから、私を含めお互い血の気の多い、激し易い愛国少年であったわけだ。それにつけても、君が残した修養録で特攻出撃の直前に記したと思われる絶筆は琵琶湖就航の歌の冒頭「我は海の子 さすらひの」の一〇文字だった。
著者桑原さんは「彼が言いたかった言葉は〝滋賀の都よ いざさらばの最後の五文字ではなかったのでは」と推察しておられる。この歌はすがすがしく、しかも哀傷切々としたロマンチックなメロディーで広く愛唱きれていた。
いつまでも続く薄暮の中で、北寮柵外の原っぱに車座になって放歌高吟したスタンダードナンバーの一つだったよナ。
君との間をつなぐ糸の一つに思い出したことがある。ある作家の随筆に「代返の名人だった」というのを読んで記憶がよみ返ったのだ。確か二年生の秋のころ、正面本館から鍵の手になった三階の大教室でのこと。白井(長助)教授の歴史の時間だった。
白井さんは小柄で、色の白い、チョビ髭を生やした、歯切れのいい江戸っ子風の人。東京の家をたたんで一家あげて哈爾浜に引っ越してきたばかり。年は、不惑《ふわく=迷わない(40歳》には達していなかったのではネ。私はサ行だから初めの方、君はヤ行だからあと。といってもせいぜい出席者三〇人ほどの中で、代返がうまくいくわけがない。
キッとなった白井さんが、ツカツカと靴音も高く、教壇を降りてきて、眼鏡を外し起立して待つ小生の左頬を右手でパチン。そのあと、何のこともなく講義は進んだ。こんな代返をチョクチョクやったり、やってもらったりの記憶はないし、どういう話でこうなったのかは全く忘却の中にある。
君にして、何で自らダブったのか、私も分からぬが、強いて知ったかぶりをすれば「水清くして魚棲まず」の逆で、君のハートがクリーン過ぎて、対人関係にしろ学校生活にしろ、さらに社会や国の側の汚なさ、不正に拒絶反応を起こして免疫不全症侯群的症状を呈するに至ったのでは、と理屈づけてみたくなっている。考える芦《パスカルの名言》なのだから、傷つき易いのは当然だ。何かそうしたモメントがあったのだろうと私は思っている。
ここで、言っておきたいことがある。君も一番聞きたい点だと考えるからだ。ハツキリ言おう。
特攻死について、君は胸を張れと。大東亜戦争は悪い戦争だったという戦後の呪縛は、やがて世界史のなかで解消するだろうからだ。五十年はもたぬのでは。早ければあと二十年もすれば、再評価の時が来るのではないかと思うよ。
大東亜戦争の悪の部分をすべて帳消しにして余りある正の部分、それは東アジアの雄中国をはじめ朝鮮半島、東南アジアの全植民地の解放戦争だったとされるのは必至だ、ということさ。さらに広げて中近東、アフリカをはじめ全世界の植民地解放へのインパクトを与えたとの評価を加えても、オーバーではないはずだ。歴史の皮肉(ヒストリカル・アイロニー)というやつだよね。
特攻死は、狂気以外の何ものでもない。戦術面ではともかく、戦略面での特攻なぞイクオル自己崩壊ということだ。軍部による戦争指導の数多くの愚劣さに罵詈雑言《ばりぞうごん=ののしる》の限りを尽くした上で、この特攻という名の非条理極まるパフォーマンスこそ、戦後の複雑な世界政治の中で、かろうじて日本人を侮らしめなかった、肝腎かなめのパワーではなかったのか、とも思う。無駄死など、とんでもない。
最後に十五年入学組の消息を披露しよう。八十人のうち同窓会名簿二十一期の在籍者五十二人。この三月、名古屋の早瀬茂男が逝った。隣県だし、君は割と近かったはずだ。内藤は昨年発刊の哈爾浜学院史冒頭の総括において、四分の一世紀二十五年にして夭折《よおせつ=若死に》した学院史のキーワードを「始めに終わりありき」と刻みつけた。そのひそみにならえば、お互い人間としての個人史は「生、その始めに死ありき」というよりない。
君は二十二歳にして世を去った。その日から四十三年、馬齢を加えて多くが六十代後半に入ったクラスメート五十二人は今、常時〝死″と対面している。いつ来るとも知れぬ死とだ。おののき、震えつつ死を待っているというのが偽りのないところだよね。
二十年四月十一日に命令を受け、五月二十五日に出撃するまでの四十四日間は、君にとっての地獄の時間だったはずだ。四月十二日には太刀洗飛行場に進出して待機しているのだが、四月二十二日いらい日誌の空白が続き、判読不能の部分が多くなっている。計算できる死の日を目前にしての君の心情を思えば、慟哭よりない。
なに、長くても二十年は待つことはなかろうよ。君ら先発組が天にあるか、西方一〇万億土にいるのかは知るすべもないが、居心地のいい場所を確保しておいてくれ。逐次、不等間隔で君らの待つ第二クラス会に参入してゆくはずだ。
同期生に代わって、君へ寄せる限りない衷情《ちゅうじょう=真心》を汲み取ってくれれば、それにまさる善びはない。
ヌー・パカー!
昭和六十三年七月
(つづく)
昭和十五年四月に入学して入った寮が二棟から成る北寮。学院本校舎から北西一キロほどで野っ原に建ったばかり。その三号室で一緒になる。
わずか一年の同室生活に過ぎないが、今だにこの部屋番号が同期各人の出自《出処》を決めている。林孝道(長野・南方で戦死)森田静男(熊本)高取保夫(撫順中)城所・現水野尚爾(愛知)北島・現吉田威陸男(福岡)池田栄(哈爾浜中)松並博(大分)に岐阜の君と福岡の小生、それに室長山県奉天(戦死)、副室長細田度(松山中)の二人の二年生だった。関恵禄ら二人の漢族学生もいた。
君と小生の二人とも馬術部に入る破目になってバザールで中古の長靴を買った。お互いの純朴さを相手の鏡の中に認め合ったというわけか、堅苦しい中学生活からの解放感の中で、背伸びしいしい口角泡を飛ばしていたように思う。今でいう五月病も経験した。
やがて私は、馬術部は身のほど知らずと知って、細田さんや高取のいたラグビーに移った。君はそのまま馬術部で通したのでは? 二年になると皆ロシア人の家に下宿したので、学校で顔を合わせる程度になる。
こちらは、講義は休んでもラグビーの練習は夜九時頃まではやるという生活でかなり疎遠になったはずだ。だから君の留年に驚くことになる。
こんどのことで広島の木元真二郎に電話すると「三年へ上がる時に、山中は確か試験に白紙を出したと聞いたがナ」とのことだった。
今にして君の性格月旦《げったん=人物批評》をやると、直情径行、純情、素朴、つまりナイーブというやつだ。
このほどの手紙で、妹さんの八重子さんは「短気で感情的になり易い性格」と書いておられるが、考えてみると、悲憤憤慨《憤る》が時代の風潮だったのだから、私を含めお互い血の気の多い、激し易い愛国少年であったわけだ。それにつけても、君が残した修養録で特攻出撃の直前に記したと思われる絶筆は琵琶湖就航の歌の冒頭「我は海の子 さすらひの」の一〇文字だった。
著者桑原さんは「彼が言いたかった言葉は〝滋賀の都よ いざさらばの最後の五文字ではなかったのでは」と推察しておられる。この歌はすがすがしく、しかも哀傷切々としたロマンチックなメロディーで広く愛唱きれていた。
いつまでも続く薄暮の中で、北寮柵外の原っぱに車座になって放歌高吟したスタンダードナンバーの一つだったよナ。
君との間をつなぐ糸の一つに思い出したことがある。ある作家の随筆に「代返の名人だった」というのを読んで記憶がよみ返ったのだ。確か二年生の秋のころ、正面本館から鍵の手になった三階の大教室でのこと。白井(長助)教授の歴史の時間だった。
白井さんは小柄で、色の白い、チョビ髭を生やした、歯切れのいい江戸っ子風の人。東京の家をたたんで一家あげて哈爾浜に引っ越してきたばかり。年は、不惑《ふわく=迷わない(40歳》には達していなかったのではネ。私はサ行だから初めの方、君はヤ行だからあと。といってもせいぜい出席者三〇人ほどの中で、代返がうまくいくわけがない。
キッとなった白井さんが、ツカツカと靴音も高く、教壇を降りてきて、眼鏡を外し起立して待つ小生の左頬を右手でパチン。そのあと、何のこともなく講義は進んだ。こんな代返をチョクチョクやったり、やってもらったりの記憶はないし、どういう話でこうなったのかは全く忘却の中にある。
君にして、何で自らダブったのか、私も分からぬが、強いて知ったかぶりをすれば「水清くして魚棲まず」の逆で、君のハートがクリーン過ぎて、対人関係にしろ学校生活にしろ、さらに社会や国の側の汚なさ、不正に拒絶反応を起こして免疫不全症侯群的症状を呈するに至ったのでは、と理屈づけてみたくなっている。考える芦《パスカルの名言》なのだから、傷つき易いのは当然だ。何かそうしたモメントがあったのだろうと私は思っている。
ここで、言っておきたいことがある。君も一番聞きたい点だと考えるからだ。ハツキリ言おう。
特攻死について、君は胸を張れと。大東亜戦争は悪い戦争だったという戦後の呪縛は、やがて世界史のなかで解消するだろうからだ。五十年はもたぬのでは。早ければあと二十年もすれば、再評価の時が来るのではないかと思うよ。
大東亜戦争の悪の部分をすべて帳消しにして余りある正の部分、それは東アジアの雄中国をはじめ朝鮮半島、東南アジアの全植民地の解放戦争だったとされるのは必至だ、ということさ。さらに広げて中近東、アフリカをはじめ全世界の植民地解放へのインパクトを与えたとの評価を加えても、オーバーではないはずだ。歴史の皮肉(ヒストリカル・アイロニー)というやつだよね。
特攻死は、狂気以外の何ものでもない。戦術面ではともかく、戦略面での特攻なぞイクオル自己崩壊ということだ。軍部による戦争指導の数多くの愚劣さに罵詈雑言《ばりぞうごん=ののしる》の限りを尽くした上で、この特攻という名の非条理極まるパフォーマンスこそ、戦後の複雑な世界政治の中で、かろうじて日本人を侮らしめなかった、肝腎かなめのパワーではなかったのか、とも思う。無駄死など、とんでもない。
最後に十五年入学組の消息を披露しよう。八十人のうち同窓会名簿二十一期の在籍者五十二人。この三月、名古屋の早瀬茂男が逝った。隣県だし、君は割と近かったはずだ。内藤は昨年発刊の哈爾浜学院史冒頭の総括において、四分の一世紀二十五年にして夭折《よおせつ=若死に》した学院史のキーワードを「始めに終わりありき」と刻みつけた。そのひそみにならえば、お互い人間としての個人史は「生、その始めに死ありき」というよりない。
君は二十二歳にして世を去った。その日から四十三年、馬齢を加えて多くが六十代後半に入ったクラスメート五十二人は今、常時〝死″と対面している。いつ来るとも知れぬ死とだ。おののき、震えつつ死を待っているというのが偽りのないところだよね。
二十年四月十一日に命令を受け、五月二十五日に出撃するまでの四十四日間は、君にとっての地獄の時間だったはずだ。四月十二日には太刀洗飛行場に進出して待機しているのだが、四月二十二日いらい日誌の空白が続き、判読不能の部分が多くなっている。計算できる死の日を目前にしての君の心情を思えば、慟哭よりない。
なに、長くても二十年は待つことはなかろうよ。君ら先発組が天にあるか、西方一〇万億土にいるのかは知るすべもないが、居心地のいい場所を確保しておいてくれ。逐次、不等間隔で君らの待つ第二クラス会に参入してゆくはずだ。
同期生に代わって、君へ寄せる限りない衷情《ちゅうじょう=真心》を汲み取ってくれれば、それにまさる善びはない。
ヌー・パカー!
昭和六十三年七月
(つづく)
kousei2
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資料 山中正八の修養録(日誌)
前出の「太刀洗飛行場物語」に載った山中の修養録(日誌)の全文は次のとおり。昭和十九年八月、岐阜から綏化に向かう途中から始まっている。なお、カツコ内は筆者桑原遵三郎氏の注記。
昭和十九年
八月五日
汽車の中から眺めた 夕方の 色は 何とも言われない美しいものである 山の端に 大きく紫にたなびく 金色の雲 映ゆる紅の像 夕風にそよぐ 青い田の面 帰路を急ぐ人々 遊ぶ子供ら かすかに遠くなびく煙 わらぶきの田舎屋 我れ今姫路に向う さらば本土よ 余は皇城《天皇陛下の》の武士 御身を守らんと 北の鎮《ちん=治め鎮める》に赴く 人々よ強くあれ 堅く瑞穂の国《日本国》を守れ
八月六日
玄海灘 波高し 釜山に向う
八月七日
夏雲乱れ飛ぶ 若葉は清々しい
八月八日
余は第一線の小隊長となりて いざ征く 安東にて
八月十日
新京着 任地出発迄ノ時間ヲ利用シ 新京二在ル学院ノ旧友達二会ヒ、久方ブリビールヲ飲ミ 大イニ歓談ス 綏化二向フ学院生我一人ノミ
八月十一日
任地 綏化ニ到着
八月十二日
俺ハ長イコト 人ノ誠実トイフモノヲ忘レテヰタ、人ノ真情ナルモノダ、ソレハ何モノニモ代エガタイ宝ダ
八月十四日
大イニタルンダ 俺モ少シ気ヲ引キ緊メネバナルマイ
八月十六日
最モ男性的ナル我ガ航空部隊
八月十八日
朝ノスッキリシタ空気 スッキリ晴レタ青空 満洲《注》ノ初秋ノスガスガシ 自ラ心ハ清ラカニシマツテクル 余ガ 憧憬惜ク能ハザル所以ノモノハ 其ハカノ碧空ニ飛ブ白雲ノ姿
八月二二日
暢然と秋の日高し 樹は青し 貴様等が 安価なジャズと 低俗な音楽にうつつを抜カシテヰルトキ 俺ハ 勉強卜仕事ト ソシテ或ル大キナ抱負ノ外何モナカッタ
八月二六日
俺ハ大キナ希望二燃エテヰタ 夫ハ今モ俺ノ胸ノ中二燃へツヾケテヰル
八月二九日
俺ノ環境ハ 質朴ナ気風卜 剛健ナ精神ガ流レテヰタ 俺ハ俺ノ心ヲ欺ク事ハ出来ない 日本ハ俺ヲ待ツ
八月三〇日
今日此ノ頃 俺ノ生活 夫ハ‥……ダ
八月三一日
明ルイ 心ノ清ラカナ 優シイ 親切ナ人 夫ガ小生ノ先生ダツタ ソシテ 今モ先生デアル
九月四日
眠リノ種類 ソノ姿勢ノ千差万別 時卜所トヲ論ゼズ悠々ト…・…‥
九月九日
鳴呼 欧露二日ハ落チテ ボルガノ波 ウラ悲シ
九月一二日
午後の一時を さんさんと照る樹の影で ごろりと草の上で寝転んでいた 静かに瞑《つぶ=目を閉じて》っていると 何時しか勇大な気が充ちて来る 此の時だ 余が特志(特別志願)を決心したのは
九月二三日
夫れ青年将校は一国元気の中枢にして 飽く迄高大に烈々たる抱負の発する所 萬朶の桜《垂れ下がった枝にも花が咲く桜》となつて砕け散る 純白たる富嶽は 澄み渡りたる玲瓏《れいろう=玉を思わせる美しい声》の心の姿なり
九月二五日
方今 青年将校の威容地に落ち 喧々轟々たる非難の声漸く高し 吾人悲憤慷慨止る方なし
九月三一日
昨日の送別の宴も まだほのかに香る 愈々綏化を発って公主嶺へと赴く 時十八・三十
十月一日
公主嶺入隊 大宮島・テニアン島《南太平洋北マリアナ諸島》の玉砕を、入隊式に於て部隊長より聞く 日曜日晴れ
十月二日
(月)(晴) 三省(夕刻の反省の時間のこと)ノ時 余ハ茫然卜唱和シタリ。区隊長殿が候補生二次ギ次ギト尋ネラレシ時、余ハ如何ナルコトヲ答エンカトシキリニ思考セシガ、無キコトヲ有ルガ如ク装ハントスル心中ノ相克《そうこく=お互い敵として争う》如何トモシガタク、全ク慙愧《ざんき=恥じ入る》ニ堪エザリキ。我等ハ神ニアラザレバ、一日、何力欠点在ルモノナリ。サレバ、一日必ラズ反省アルモノナリ。
十月四日
愈々課業開始サレル (水)(晴)
十月九日
(月)(晴) 本日休養ナリ 浩然ノ気ヲ養ウ外出ナキ休日 正ニ二徒然《つれずれ》トシテ送ラレタリ 遺憾千万
十月十二日
言は行を伴わず 行は言を伴う 若きは力なり
十月十四日
(土)(晴) 整頓不良ノタメ区隊長ヨリー撃サル 明日ノ徹底ヲ期セリ
十月十九日
台湾沖航空戦 正二壮烈ナル大戦果 サレド末帰還機三一二機 イタマシキ哉 吾之ヲ覚悟セシニ 不覚ヤ無念ノ涙ヤルカタナシ 敵 るそん島《ヒリピンの島》二上陸 共二血涙ヲシボリシ吾ガ同期生ハ 此島二台湾二安着セシヤ
(つづく)
注
1932~1945年中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
前出の「太刀洗飛行場物語」に載った山中の修養録(日誌)の全文は次のとおり。昭和十九年八月、岐阜から綏化に向かう途中から始まっている。なお、カツコ内は筆者桑原遵三郎氏の注記。
昭和十九年
八月五日
汽車の中から眺めた 夕方の 色は 何とも言われない美しいものである 山の端に 大きく紫にたなびく 金色の雲 映ゆる紅の像 夕風にそよぐ 青い田の面 帰路を急ぐ人々 遊ぶ子供ら かすかに遠くなびく煙 わらぶきの田舎屋 我れ今姫路に向う さらば本土よ 余は皇城《天皇陛下の》の武士 御身を守らんと 北の鎮《ちん=治め鎮める》に赴く 人々よ強くあれ 堅く瑞穂の国《日本国》を守れ
八月六日
玄海灘 波高し 釜山に向う
八月七日
夏雲乱れ飛ぶ 若葉は清々しい
八月八日
余は第一線の小隊長となりて いざ征く 安東にて
八月十日
新京着 任地出発迄ノ時間ヲ利用シ 新京二在ル学院ノ旧友達二会ヒ、久方ブリビールヲ飲ミ 大イニ歓談ス 綏化二向フ学院生我一人ノミ
八月十一日
任地 綏化ニ到着
八月十二日
俺ハ長イコト 人ノ誠実トイフモノヲ忘レテヰタ、人ノ真情ナルモノダ、ソレハ何モノニモ代エガタイ宝ダ
八月十四日
大イニタルンダ 俺モ少シ気ヲ引キ緊メネバナルマイ
八月十六日
最モ男性的ナル我ガ航空部隊
八月十八日
朝ノスッキリシタ空気 スッキリ晴レタ青空 満洲《注》ノ初秋ノスガスガシ 自ラ心ハ清ラカニシマツテクル 余ガ 憧憬惜ク能ハザル所以ノモノハ 其ハカノ碧空ニ飛ブ白雲ノ姿
八月二二日
暢然と秋の日高し 樹は青し 貴様等が 安価なジャズと 低俗な音楽にうつつを抜カシテヰルトキ 俺ハ 勉強卜仕事ト ソシテ或ル大キナ抱負ノ外何モナカッタ
八月二六日
俺ハ大キナ希望二燃エテヰタ 夫ハ今モ俺ノ胸ノ中二燃へツヾケテヰル
八月二九日
俺ノ環境ハ 質朴ナ気風卜 剛健ナ精神ガ流レテヰタ 俺ハ俺ノ心ヲ欺ク事ハ出来ない 日本ハ俺ヲ待ツ
八月三〇日
今日此ノ頃 俺ノ生活 夫ハ‥……ダ
八月三一日
明ルイ 心ノ清ラカナ 優シイ 親切ナ人 夫ガ小生ノ先生ダツタ ソシテ 今モ先生デアル
九月四日
眠リノ種類 ソノ姿勢ノ千差万別 時卜所トヲ論ゼズ悠々ト…・…‥
九月九日
鳴呼 欧露二日ハ落チテ ボルガノ波 ウラ悲シ
九月一二日
午後の一時を さんさんと照る樹の影で ごろりと草の上で寝転んでいた 静かに瞑《つぶ=目を閉じて》っていると 何時しか勇大な気が充ちて来る 此の時だ 余が特志(特別志願)を決心したのは
九月二三日
夫れ青年将校は一国元気の中枢にして 飽く迄高大に烈々たる抱負の発する所 萬朶の桜《垂れ下がった枝にも花が咲く桜》となつて砕け散る 純白たる富嶽は 澄み渡りたる玲瓏《れいろう=玉を思わせる美しい声》の心の姿なり
九月二五日
方今 青年将校の威容地に落ち 喧々轟々たる非難の声漸く高し 吾人悲憤慷慨止る方なし
九月三一日
昨日の送別の宴も まだほのかに香る 愈々綏化を発って公主嶺へと赴く 時十八・三十
十月一日
公主嶺入隊 大宮島・テニアン島《南太平洋北マリアナ諸島》の玉砕を、入隊式に於て部隊長より聞く 日曜日晴れ
十月二日
(月)(晴) 三省(夕刻の反省の時間のこと)ノ時 余ハ茫然卜唱和シタリ。区隊長殿が候補生二次ギ次ギト尋ネラレシ時、余ハ如何ナルコトヲ答エンカトシキリニ思考セシガ、無キコトヲ有ルガ如ク装ハントスル心中ノ相克《そうこく=お互い敵として争う》如何トモシガタク、全ク慙愧《ざんき=恥じ入る》ニ堪エザリキ。我等ハ神ニアラザレバ、一日、何力欠点在ルモノナリ。サレバ、一日必ラズ反省アルモノナリ。
十月四日
愈々課業開始サレル (水)(晴)
十月九日
(月)(晴) 本日休養ナリ 浩然ノ気ヲ養ウ外出ナキ休日 正ニ二徒然《つれずれ》トシテ送ラレタリ 遺憾千万
十月十二日
言は行を伴わず 行は言を伴う 若きは力なり
十月十四日
(土)(晴) 整頓不良ノタメ区隊長ヨリー撃サル 明日ノ徹底ヲ期セリ
十月十九日
台湾沖航空戦 正二壮烈ナル大戦果 サレド末帰還機三一二機 イタマシキ哉 吾之ヲ覚悟セシニ 不覚ヤ無念ノ涙ヤルカタナシ 敵 るそん島《ヒリピンの島》二上陸 共二血涙ヲシボリシ吾ガ同期生ハ 此島二台湾二安着セシヤ
(つづく)
注
1932~1945年中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
kousei2
投稿数: 250
十月二四日
便所ノ手入レヲ実施ス 此レヲ修養道卜考フルハ未ダ心ノ至ラザルカ 然レドモ余ハ無心二嫌悪スルコトナシ
十月二七日
悠々たるかな白雲 徹すべし 徹すべし
十月三一日
空襲警報発令 駈走ニテ飛行場二帰り 飛行機ヲ分散配置セリ
十一月一日
急顕的(瞬間的に現われて消える標的、空中射撃能力向上訓練に用いる) 三〇〇米五発中二発命中 明朗鷹揚ハ航空部隊ノ特性ナリト自負スルモ良シ サレド 内容、実力ノ涵養之二伴ハザルベカラズ
十一月二日
過ギシ日ヲシノビテ 徒然トシテ何等ナスコトナク他二頼り 何力大キナ力ノママニ自己ヲ忘却セントシタリ 惜シキ日月ナリ
十一月五日
特別攻撃隊 久シク壮快烈々タル壮挙ヲ拝シ 感激血涙 胸二迫ルヲ覚ユ
嫌ナラヤルナ 好キナコトダツタラ死ニモノ狂イデヤレ 若イ時ハ之デヨイ 何故 円満ナル必要ガアルカ 夫ハ悲シキアキラメ 本心ノ糊塗《こと=いい加減にごまかす》デハアルマイカ 柔弱ナル心ナリ 自己ノ良心ヲイツワルコトハ 悲シキコトナリ 嵐二叩カレテイル男ノ姿 美シイモノデハナイカ
十一月六日
俺ガ見習士官ニナツタラ 兵隊ヲ可愛ガロウ 下士官ハ大イニシボツテヤルゾ 特二軍曹ヲ 不愉快ナリ 目ノ上ノコブノ如クシテヰル様ハ言語二絶スル
十一月八日
神風特別攻撃隊 神風ヲ信ズ サレド大日本人ハ之ヲ頼ムベカラズ 自ラ 嵐ヲ起スベシ 思ヒココニ至ルトキ コノ攻撃隊ノ勇士ノ心事 正二尊シ 我々地上勤務者ノ夫ハ決シテ華々シカラズ マコト 縁ノ下ノ力持チナリ
十一月十五日
甲種幹部侯補生《注1》ノ非難サルルハ 無気力ノ故二非ズヤ
十一月十六日
時ガ解決スルカ 人ガ解決スルカ 俺ガ解決スルカ 余ノ日々展開サレユク生活ハ空虚ナリ 束ノ間ノ夢ヲ追ウガ如シ
十一月十九日
我々ハ軍隊二入ル以前乃至以後二於テ 所謂「士官侯」《士官候補生》ナルモノニ「空砲」「擬製弾」トシテ 面白カラヌ 又 卑下二似夕 文 相手ヲ敬シスギル先入主ヲ心二留メテ来タ 之ハ余リニモ自己軽視ニスギル 只 境遇卜 行ク道ノ異リタルニスギズ 我等ノ胸中ニハ 断ジテ彼等卜等シク勇猛ナル日本精神・大和魂・軍人精神ガ充溢シアリ 身ハタトイ幹候出身ナルトモ 断ジテ帝国軍人ナリ 今後 何人モ我等ヲ侮ラセズ 我等 又 自ラ軽ンゼズ 勇猛邁進 一剣ヲ振ツテ 敵米英ヲ撃滅センカナ
十一月二一日
空中勤務者《航空機搭乗勤務》合格 想うべし余の得意や
十一月二二日
余ハ空中勤務者ナリ
十一月二三日
大言壮語ヲナスヨリハ先ズ目前ノ一些事ヲ為スニ若カズ
十一月二九日
入隊式を前にして父にあて遺言めいた手紙を書く
十二月五日
入隊式 我レ航法学生《ナビゲーター習得要員》トシテ 宇都宮教導航空師団二入隊ス 最優秀航法者トシテ懸命ノ努力ヲ為サン
(つづく)
注
幹部候補生には甲乙があり 甲種は将来士官に採用される試験合格者 乙種は下士官に採用予定者をいう
便所ノ手入レヲ実施ス 此レヲ修養道卜考フルハ未ダ心ノ至ラザルカ 然レドモ余ハ無心二嫌悪スルコトナシ
十月二七日
悠々たるかな白雲 徹すべし 徹すべし
十月三一日
空襲警報発令 駈走ニテ飛行場二帰り 飛行機ヲ分散配置セリ
十一月一日
急顕的(瞬間的に現われて消える標的、空中射撃能力向上訓練に用いる) 三〇〇米五発中二発命中 明朗鷹揚ハ航空部隊ノ特性ナリト自負スルモ良シ サレド 内容、実力ノ涵養之二伴ハザルベカラズ
十一月二日
過ギシ日ヲシノビテ 徒然トシテ何等ナスコトナク他二頼り 何力大キナ力ノママニ自己ヲ忘却セントシタリ 惜シキ日月ナリ
十一月五日
特別攻撃隊 久シク壮快烈々タル壮挙ヲ拝シ 感激血涙 胸二迫ルヲ覚ユ
嫌ナラヤルナ 好キナコトダツタラ死ニモノ狂イデヤレ 若イ時ハ之デヨイ 何故 円満ナル必要ガアルカ 夫ハ悲シキアキラメ 本心ノ糊塗《こと=いい加減にごまかす》デハアルマイカ 柔弱ナル心ナリ 自己ノ良心ヲイツワルコトハ 悲シキコトナリ 嵐二叩カレテイル男ノ姿 美シイモノデハナイカ
十一月六日
俺ガ見習士官ニナツタラ 兵隊ヲ可愛ガロウ 下士官ハ大イニシボツテヤルゾ 特二軍曹ヲ 不愉快ナリ 目ノ上ノコブノ如クシテヰル様ハ言語二絶スル
十一月八日
神風特別攻撃隊 神風ヲ信ズ サレド大日本人ハ之ヲ頼ムベカラズ 自ラ 嵐ヲ起スベシ 思ヒココニ至ルトキ コノ攻撃隊ノ勇士ノ心事 正二尊シ 我々地上勤務者ノ夫ハ決シテ華々シカラズ マコト 縁ノ下ノ力持チナリ
十一月十五日
甲種幹部侯補生《注1》ノ非難サルルハ 無気力ノ故二非ズヤ
十一月十六日
時ガ解決スルカ 人ガ解決スルカ 俺ガ解決スルカ 余ノ日々展開サレユク生活ハ空虚ナリ 束ノ間ノ夢ヲ追ウガ如シ
十一月十九日
我々ハ軍隊二入ル以前乃至以後二於テ 所謂「士官侯」《士官候補生》ナルモノニ「空砲」「擬製弾」トシテ 面白カラヌ 又 卑下二似夕 文 相手ヲ敬シスギル先入主ヲ心二留メテ来タ 之ハ余リニモ自己軽視ニスギル 只 境遇卜 行ク道ノ異リタルニスギズ 我等ノ胸中ニハ 断ジテ彼等卜等シク勇猛ナル日本精神・大和魂・軍人精神ガ充溢シアリ 身ハタトイ幹候出身ナルトモ 断ジテ帝国軍人ナリ 今後 何人モ我等ヲ侮ラセズ 我等 又 自ラ軽ンゼズ 勇猛邁進 一剣ヲ振ツテ 敵米英ヲ撃滅センカナ
十一月二一日
空中勤務者《航空機搭乗勤務》合格 想うべし余の得意や
十一月二二日
余ハ空中勤務者ナリ
十一月二三日
大言壮語ヲナスヨリハ先ズ目前ノ一些事ヲ為スニ若カズ
十一月二九日
入隊式を前にして父にあて遺言めいた手紙を書く
十二月五日
入隊式 我レ航法学生《ナビゲーター習得要員》トシテ 宇都宮教導航空師団二入隊ス 最優秀航法者トシテ懸命ノ努力ヲ為サン
(つづく)
注
幹部候補生には甲乙があり 甲種は将来士官に採用される試験合格者 乙種は下士官に採用予定者をいう
kousei2
投稿数: 250
十二月十一日
徹底スベキコト 勉学二徹シ 休憩二徹スベシ 人絶エズ緊張スルトキハ 無意識裡二倦怠ヲ生ジ 虚心坦懐《きょしんたんかい=わだかまり無くさっぱりする》ナル能ハズ 文 休息中ハ絶対二余事ヲ想ワズ 童心二帰リテ楽シマザルベカラザル所以ナリ
特ニ空中勤務者タルモノハ 過ギタルヲ想フ未練ヲ残サズ 又 刹那的ニナラズ 悠然ト勝利ノコトヲ想フベシ
十二月十六日
十三日 室井ノ家ヲ訪レ 久シク終日温和ナル家庭ノ雰囲気二心ヲ軽クセリ 時折 何トハナク忽然卜憂ウツナル沈ンダ気分ニ襲ワル 不安ナル思ヒ 誰シモ懐クヤモ知レズト思ウ 皇国ノ前途ヲ思ウ信念ニハ変ラネド 影サスコトアリ 真ノ明朗トハ如何ナルモノナランヤ
十二月十八日
行ケル者ハ己ニ無シ 又一切ハ流レ行ク 恋々タルナ 又 一切ハ流レントス 只アルハ 今ノミ 来ラントスルノミ コノ今ニコソ我ガ生命ハアルナレ
二月二〇日
又 室井ノ小母サンノ家ヲ訪レ 楽シク団ラン、中二1日ヲ送ツタ 親切ナ優シイ 心力ラ我々ヲ思ツテ下サル心ハ 何トオ礼申サレヨウカ マコトニ澄ンダ神ノ如キ境地ノ人トハ アノ方ノコトヲ言ウノダラウ 温イ風ガタエズ吹イテヰテ 外ハ筑波颪ノ鳴ル中二 我ハ幸福ダ 然シコノ温イ手二縋ル我々○○○(判読不能) コノ人達ニモ敵ヲ一歩モ進マセテハナラヌ 我儘一杯ナ元気ナ坊ヤ 殺伐ニナリ易キ心二 幼ナ心 童心ヲ思ヒ出サセル 童心二帰ラセテクレル 愉快ナ坊ヤ 大キクナツタラ立派ナ日本人ニナレ 純真ナレ 素直ナレ
あれをごらんと指差す方に……(流行歌「大利根月夜」の歌詞が続く
昭和二十年
一月一日
一年ノ計ハ元旦二在り 必勝 童心ナル哉 我等ノ生命ハ永ヘニ此ノ地ニトドマルベシ(このあと六ページにわたって意味不明の乱数が一面に書き込まれている。暗号作成の練習を兼ねて何等かの心境をつづっているのかも知れない。その末尾に、当時の物価が記録されている。チリ紙 四銭、甘味 五銭、洒 五〇銭、タバコ 七三銭、パイプ 四五銭)
一月四日
初飛行 愉快ナ気持
轟沈《3分以内に船が沈む》 轟沈 凱歌が上る……(「轟沈」の歌詞が続く)
一月六日
飛行機搭乗第三回目 自信満々 男ラシク小事ニ拘泥《こうでい=こだわる》セズ進マン 愉快ナリ大空
一月七日
(日)(晴) 男度胸ハ大空ニテ 本日慰問演芸会ヲ観覧セリ 後方二掲ゲ夕日ノ丸ノ大国旗二包マレテ死ニタキ思ヒナリ
本日デ飛行十回十時間 久慈(茨城県)ニ飛ビテ諸元測定訓練《注》
一月十五日
鬼怒川橋、大宮間往復単辺飛行
一月十七日
宇都宮、川越間単辺飛行二回 往復搭乗 益々飛行機二対スル興味深々トシテ湧クヲ覚ユ
一月十八日
室井氏ノ家二行ク
一月十九日
宇都宮、川越間単辺飛行
一月二〇日
鬼怒川、大宮間単辺飛行 機上ニ於テ度胸ノ良イ方ガ艮イ 夜、ネズミ顔ノ上ヲ這イ回ル
一月二一日
宇都宮駅、川越間単辺飛行 余裕ヲ或ル程度感ゼリ
一月二二日
鬼怒川橋、大宮閣僚機航法(編隊飛行)錀山中尉殿ヨリ 最モ優秀ナル組トシテ賞賛セラレタリ 夜間演習飛行 宇都宮上空 燈火綺麗ナリ 月明二反映シテ壮観ナリキ 案外安心ナルモノト感ゼリ
一月二三日
宇都宮、川越間飛行
一月二五日
宇都宮、久慈聞ニテ変針測風(飛行機の流れ具合を見て風速を割り出すこと)
(つづく)
注
航空機の機位(現在の位置)を測定する為 風向 風速 風力 機速を加味して実速や航空機の針路を決める(通常三角(三辺)航法で計算する)
徹底スベキコト 勉学二徹シ 休憩二徹スベシ 人絶エズ緊張スルトキハ 無意識裡二倦怠ヲ生ジ 虚心坦懐《きょしんたんかい=わだかまり無くさっぱりする》ナル能ハズ 文 休息中ハ絶対二余事ヲ想ワズ 童心二帰リテ楽シマザルベカラザル所以ナリ
特ニ空中勤務者タルモノハ 過ギタルヲ想フ未練ヲ残サズ 又 刹那的ニナラズ 悠然ト勝利ノコトヲ想フベシ
十二月十六日
十三日 室井ノ家ヲ訪レ 久シク終日温和ナル家庭ノ雰囲気二心ヲ軽クセリ 時折 何トハナク忽然卜憂ウツナル沈ンダ気分ニ襲ワル 不安ナル思ヒ 誰シモ懐クヤモ知レズト思ウ 皇国ノ前途ヲ思ウ信念ニハ変ラネド 影サスコトアリ 真ノ明朗トハ如何ナルモノナランヤ
十二月十八日
行ケル者ハ己ニ無シ 又一切ハ流レ行ク 恋々タルナ 又 一切ハ流レントス 只アルハ 今ノミ 来ラントスルノミ コノ今ニコソ我ガ生命ハアルナレ
二月二〇日
又 室井ノ小母サンノ家ヲ訪レ 楽シク団ラン、中二1日ヲ送ツタ 親切ナ優シイ 心力ラ我々ヲ思ツテ下サル心ハ 何トオ礼申サレヨウカ マコトニ澄ンダ神ノ如キ境地ノ人トハ アノ方ノコトヲ言ウノダラウ 温イ風ガタエズ吹イテヰテ 外ハ筑波颪ノ鳴ル中二 我ハ幸福ダ 然シコノ温イ手二縋ル我々○○○(判読不能) コノ人達ニモ敵ヲ一歩モ進マセテハナラヌ 我儘一杯ナ元気ナ坊ヤ 殺伐ニナリ易キ心二 幼ナ心 童心ヲ思ヒ出サセル 童心二帰ラセテクレル 愉快ナ坊ヤ 大キクナツタラ立派ナ日本人ニナレ 純真ナレ 素直ナレ
あれをごらんと指差す方に……(流行歌「大利根月夜」の歌詞が続く
昭和二十年
一月一日
一年ノ計ハ元旦二在り 必勝 童心ナル哉 我等ノ生命ハ永ヘニ此ノ地ニトドマルベシ(このあと六ページにわたって意味不明の乱数が一面に書き込まれている。暗号作成の練習を兼ねて何等かの心境をつづっているのかも知れない。その末尾に、当時の物価が記録されている。チリ紙 四銭、甘味 五銭、洒 五〇銭、タバコ 七三銭、パイプ 四五銭)
一月四日
初飛行 愉快ナ気持
轟沈《3分以内に船が沈む》 轟沈 凱歌が上る……(「轟沈」の歌詞が続く)
一月六日
飛行機搭乗第三回目 自信満々 男ラシク小事ニ拘泥《こうでい=こだわる》セズ進マン 愉快ナリ大空
一月七日
(日)(晴) 男度胸ハ大空ニテ 本日慰問演芸会ヲ観覧セリ 後方二掲ゲ夕日ノ丸ノ大国旗二包マレテ死ニタキ思ヒナリ
本日デ飛行十回十時間 久慈(茨城県)ニ飛ビテ諸元測定訓練《注》
一月十五日
鬼怒川橋、大宮間往復単辺飛行
一月十七日
宇都宮、川越間単辺飛行二回 往復搭乗 益々飛行機二対スル興味深々トシテ湧クヲ覚ユ
一月十八日
室井氏ノ家二行ク
一月十九日
宇都宮、川越間単辺飛行
一月二〇日
鬼怒川、大宮間単辺飛行 機上ニ於テ度胸ノ良イ方ガ艮イ 夜、ネズミ顔ノ上ヲ這イ回ル
一月二一日
宇都宮駅、川越間単辺飛行 余裕ヲ或ル程度感ゼリ
一月二二日
鬼怒川橋、大宮閣僚機航法(編隊飛行)錀山中尉殿ヨリ 最モ優秀ナル組トシテ賞賛セラレタリ 夜間演習飛行 宇都宮上空 燈火綺麗ナリ 月明二反映シテ壮観ナリキ 案外安心ナルモノト感ゼリ
一月二三日
宇都宮、川越間飛行
一月二五日
宇都宮、久慈聞ニテ変針測風(飛行機の流れ具合を見て風速を割り出すこと)
(つづく)
注
航空機の機位(現在の位置)を測定する為 風向 風速 風力 機速を加味して実速や航空機の針路を決める(通常三角(三辺)航法で計算する)
kousei2
投稿数: 250
一月二六日
鬼怒川、大宮間ニテ変針測風 海上夜間飛行二出ルモ 雪ノタメ引キ返ス
一月二七日
空襲警報 夜間飛行訓練
一月二九日
宝積寺(栃木県)-水戸-洋上-豊浦(茨城)-飛行場 夜間飛行 飛行機ハ楽シイ
一月三〇日
鬼怒川橋-鉾田(茨城県)-洋上-久慈-飛行場
一月三一日
室井サンノ家ヲ訪レル
二月三日
人、心身ノ実ハ 依ツテ腹中ヨリ来ルベシ 美麗 香味 以テソノ食餌ニヨル深ク之ヲ慎ムベシ
二月四日
「人間五〇年 人間化転ノ内ヲ比ブレバ夢幻ノ如シ一度」ト謡ヒシ信長ノ心事 亦 佳シ 今 皇国ノ安危ヲ思ヒ 人間二十年ニシテ満足スベキナリ 若キ日ノ感傷 又 愚ナランカ 愚ナラズ 静カニ之ヲ観ジ 自ラ観ズレバ 転心感慨ナカルベカラズ 清純ナル心ノ発スル所 混迷ヲ去リ 明鏡《めいきょう=くもりの無い-》水ヲ止メ サレド一抹ノ哀愁アルベシ 人ノ子ナレバ 未ダ若ケレバ 大義ニ生クル心 能ク之ニ克ツベシ 克ツベシ 父へ 母へ 弟 妹へ
大君ノ民族ノ想イハ変り行クベシ
二月五日
洋上低空目測飛行訓練
二月六日
前日二同ジ 錀山中尉機 水戸二不時着陸ス
二月九日
三辺航法 飛行場-水戸-洋上
二月十日
三辺航法 飛行場-鉾田-洋上
B-29梯団 各梯団十機内外ニテ飛行場上空通過 鮮ヤカナ航跡ヲ引キ 敵ナガラ天晴ナ編隊ナリ 今ニ 我等 汝等ノ上ニ爆弾ノ雨ヲ御見舞申サン
二月十一日
三辺航法 前日ニ同ジ 航法モ熟練セシト自覚ス 後ハ只演習卜努力ニ依ル習練ノミ
二月十三日
三辺航法 前日ニ同ジ 機上通信ヲ実施ス
二月十四日
週番士官ニ叱責サル
二月十五日
心中ノ敵卜戦ヒテ克チタシ
二月十六日
敵米ノ企図ハ 終ニ我ガ本土ニ及ブ 早朝ヨリ波状攻撃ヲ以テ関東各地ニ進入シ 遂ニ薄暮ニ及ビタリ 愈々決戦へト驀進ス
(この日、関東地方に一千機来襲し、二月十九日の米軍の硫黄島上陸の支援行動をとる)
「不淡白ナリ」卜主任教官殿ヨリ注意サル 余ハ此ノ恥辱万斛《ばんかい=総てのものに先がけて》ノ涙ヲ呑ム 退団ニ処サルトモ更ニイズ サレド我ガ戦友ノ微衷《びちゅう=心の中》ヲ察セザルヤ 只 独ソ自己立安ニ馳リテ 一歩ヲ進メテ 他ノ苦衷ヲ偲ブ情ナシ 之ヲ憾ミテ思フハ非力 申シ開キハ為シ申サズ
二月二四日
午後、会合法 霞ケ浦上空ヲ盛ンニ旋回ス
三月一日
修業、目捷《もくしょう=目と睫毛》ノ間ニ迫リタリ 悠揚トシテ闊歩《かっぽ=大またに歩く》スベシ 将校団ノ団結ヲ阻害スルモノ 1.不平 2.悲観 3.妥協心 4.出身別
四月十一日
以下五枚 極秘
夜 忝くも大命を拝す《命令を受ける》 一死以て皇恩に応へ奉らんと覚悟す 馳せ参ずるもの 第二中隊見習士官室全員 橋本、長尾 第三中隊吉野、第一中隊 岡田少尉殿 ともどもに航法者として参ず 会合後 死ねるかと 中隊長殿に言われ 莞爾《かんじ=にっこり笑う》として「ハイ」と応ふ
無心にて壮途を祝して 遊ぶ
我が同乗者 溝田彦二少尉殿(陸軍士官学校第五六期) 田中弥一伍長(二三歳) 高尾峯望兵長(十九歳・少年飛行兵出身)
四月十二日
十三時 出陣式 戦隊長御訓示(菊水作戦発令)
東方遥拝 皇城に訣別し奉る 聖寿万才 之より 福本中尉殿に桜花の下に写真を取って戴く 溝田少尉殿と二、三枚とる 関の叔父に顔もよく似られ 性格もそのまま 豪放磊落な青年将校である
高尾兵長は紅顔の美少年 桜も蕾 可惜 二〇年を散る桜なり
四月十二日
戦隊長機 離陸後失速 墜落 焼死す 戦隊長殿 第一中隊長殿 福永大尉殿 伊藤大尉殿 ○○中尉殿(判読不能)岡田少尉殿等 十二名 壮途半ばにして散華し給ふ
先発 各務原に行きし各中隊機当○○夕刻着す 三中隊機 車輪不具合 胴体着陸 第二中隊機 飛行場に突込み ○○十名 又 勇途空しく散る 可惜 ○○しき攻撃を前にして 又 悲しくもあれ 第一中隊 海没《海に沈む》 かくて若干戦力を減ぜるも我等の攻撃精神些 も衰えず 益々盛んなり 旅館に宿泊す (福岡県朝倉郡甘木町いろは旅館)
(判読不能の文字が続出し、心の動揺が見える)
住所録(父の清八を筆頭にして十二名分が記入されている)
四月二二日
記 以下 戦友部下に託してお送りいたします
(以下 四四頁空白)
人間○○○のうちを比ぶれは 夢幻《むげん=夢まぼろし》の如し一度生を得て 滅ぜざるもの有るべきか(以下二二字判読不能)
結婚について
(その五頁あと一四九貫目) 我は海の子 さすらひの
(以下五行 判読不能)
(了)
鬼怒川、大宮間ニテ変針測風 海上夜間飛行二出ルモ 雪ノタメ引キ返ス
一月二七日
空襲警報 夜間飛行訓練
一月二九日
宝積寺(栃木県)-水戸-洋上-豊浦(茨城)-飛行場 夜間飛行 飛行機ハ楽シイ
一月三〇日
鬼怒川橋-鉾田(茨城県)-洋上-久慈-飛行場
一月三一日
室井サンノ家ヲ訪レル
二月三日
人、心身ノ実ハ 依ツテ腹中ヨリ来ルベシ 美麗 香味 以テソノ食餌ニヨル深ク之ヲ慎ムベシ
二月四日
「人間五〇年 人間化転ノ内ヲ比ブレバ夢幻ノ如シ一度」ト謡ヒシ信長ノ心事 亦 佳シ 今 皇国ノ安危ヲ思ヒ 人間二十年ニシテ満足スベキナリ 若キ日ノ感傷 又 愚ナランカ 愚ナラズ 静カニ之ヲ観ジ 自ラ観ズレバ 転心感慨ナカルベカラズ 清純ナル心ノ発スル所 混迷ヲ去リ 明鏡《めいきょう=くもりの無い-》水ヲ止メ サレド一抹ノ哀愁アルベシ 人ノ子ナレバ 未ダ若ケレバ 大義ニ生クル心 能ク之ニ克ツベシ 克ツベシ 父へ 母へ 弟 妹へ
大君ノ民族ノ想イハ変り行クベシ
二月五日
洋上低空目測飛行訓練
二月六日
前日二同ジ 錀山中尉機 水戸二不時着陸ス
二月九日
三辺航法 飛行場-水戸-洋上
二月十日
三辺航法 飛行場-鉾田-洋上
B-29梯団 各梯団十機内外ニテ飛行場上空通過 鮮ヤカナ航跡ヲ引キ 敵ナガラ天晴ナ編隊ナリ 今ニ 我等 汝等ノ上ニ爆弾ノ雨ヲ御見舞申サン
二月十一日
三辺航法 前日ニ同ジ 航法モ熟練セシト自覚ス 後ハ只演習卜努力ニ依ル習練ノミ
二月十三日
三辺航法 前日ニ同ジ 機上通信ヲ実施ス
二月十四日
週番士官ニ叱責サル
二月十五日
心中ノ敵卜戦ヒテ克チタシ
二月十六日
敵米ノ企図ハ 終ニ我ガ本土ニ及ブ 早朝ヨリ波状攻撃ヲ以テ関東各地ニ進入シ 遂ニ薄暮ニ及ビタリ 愈々決戦へト驀進ス
(この日、関東地方に一千機来襲し、二月十九日の米軍の硫黄島上陸の支援行動をとる)
「不淡白ナリ」卜主任教官殿ヨリ注意サル 余ハ此ノ恥辱万斛《ばんかい=総てのものに先がけて》ノ涙ヲ呑ム 退団ニ処サルトモ更ニイズ サレド我ガ戦友ノ微衷《びちゅう=心の中》ヲ察セザルヤ 只 独ソ自己立安ニ馳リテ 一歩ヲ進メテ 他ノ苦衷ヲ偲ブ情ナシ 之ヲ憾ミテ思フハ非力 申シ開キハ為シ申サズ
二月二四日
午後、会合法 霞ケ浦上空ヲ盛ンニ旋回ス
三月一日
修業、目捷《もくしょう=目と睫毛》ノ間ニ迫リタリ 悠揚トシテ闊歩《かっぽ=大またに歩く》スベシ 将校団ノ団結ヲ阻害スルモノ 1.不平 2.悲観 3.妥協心 4.出身別
四月十一日
以下五枚 極秘
夜 忝くも大命を拝す《命令を受ける》 一死以て皇恩に応へ奉らんと覚悟す 馳せ参ずるもの 第二中隊見習士官室全員 橋本、長尾 第三中隊吉野、第一中隊 岡田少尉殿 ともどもに航法者として参ず 会合後 死ねるかと 中隊長殿に言われ 莞爾《かんじ=にっこり笑う》として「ハイ」と応ふ
無心にて壮途を祝して 遊ぶ
我が同乗者 溝田彦二少尉殿(陸軍士官学校第五六期) 田中弥一伍長(二三歳) 高尾峯望兵長(十九歳・少年飛行兵出身)
四月十二日
十三時 出陣式 戦隊長御訓示(菊水作戦発令)
東方遥拝 皇城に訣別し奉る 聖寿万才 之より 福本中尉殿に桜花の下に写真を取って戴く 溝田少尉殿と二、三枚とる 関の叔父に顔もよく似られ 性格もそのまま 豪放磊落な青年将校である
高尾兵長は紅顔の美少年 桜も蕾 可惜 二〇年を散る桜なり
四月十二日
戦隊長機 離陸後失速 墜落 焼死す 戦隊長殿 第一中隊長殿 福永大尉殿 伊藤大尉殿 ○○中尉殿(判読不能)岡田少尉殿等 十二名 壮途半ばにして散華し給ふ
先発 各務原に行きし各中隊機当○○夕刻着す 三中隊機 車輪不具合 胴体着陸 第二中隊機 飛行場に突込み ○○十名 又 勇途空しく散る 可惜 ○○しき攻撃を前にして 又 悲しくもあれ 第一中隊 海没《海に沈む》 かくて若干戦力を減ぜるも我等の攻撃精神些 も衰えず 益々盛んなり 旅館に宿泊す (福岡県朝倉郡甘木町いろは旅館)
(判読不能の文字が続出し、心の動揺が見える)
住所録(父の清八を筆頭にして十二名分が記入されている)
四月二二日
記 以下 戦友部下に託してお送りいたします
(以下 四四頁空白)
人間○○○のうちを比ぶれは 夢幻《むげん=夢まぼろし》の如し一度生を得て 滅ぜざるもの有るべきか(以下二二字判読不能)
結婚について
(その五頁あと一四九貫目) 我は海の子 さすらひの
(以下五行 判読不能)
(了)