アジア鎮魂の旅・その11
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アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
レンパンの休日
毎週一回の休養日には、大方の者は ゴロゴロ寝ていたが、我々若者は遠浅の海に出て サンゴ礁の岩に登り、澄み切った海中を泳ぐ色とりどりの熱帯魚を釣るのが この上ない娯楽であった。
或る好天の休養日、私はいつもの通り潮の引けた砂浜に出掛け、貝拾いをしていたところ、小石の下の水溜まりに 鰍のような小魚が泳いでいるのを見つけた。 早速捕まえた其の瞬間に、小魚の広げた胸鰭で手の平を刺され、手から腕にかけ みるみる腫れあがり、激痛に耐えかね、衛生班に行き事情を話し相談したところ、
「 死ぬ様な事は無い。この重曹を飲んでおけ 」 と言って 重曹を2粒くれた。言われる通り飲んでみたが全く効き目が無いどころか、夜半になるに従って発熱して眠れない。 再度衛生班を起し、丁重に頼み込んでモルヒネの注射をしてもらい 痛みは治まったが、結果的には微熱が下がらず2日間寝込んで仕舞った。 レンパン島には、この様な毒を持つ魚やサソリ、ムカデ等の昆虫、又多くの毒蛇が生息し、其の中で我々は裸同然の暮らしをしているのであり、考えて見れば、常に危険と隣り合わせの生活をしていたわけである。其の後も一回 サソリに刺され、モルヒネの世話に成ったのは都合二回で、その都度死ぬ様な思いをした。
上陸以来四ヶ月も過ぎると、単調な島の生活にも馴れて来た。畑に蒔いたタピオカやさつま芋、胡瓜などが収穫出来る様になると仲間達の神経も和らぎ、休日は趣向を凝らした演芸会が行なわれる様になった。
其の道のプロもいる仲間達は、夫々分担して 衣装や鬘、大道具、小道具に至るまで作るのであるが、特に女性の鬘<まげ>を椰子の実の繊維で作って演じた「 湯島の白梅 」や「 愛染かつら 」などの出し物では、観客の大喝采を受け、続いて歌謡曲、浪曲の出し物もあり、玄人のような芸に目頭を濡らす者まで出る状況であった。
レーションの支給が始まった頃から、「 のど自慢大会 」が開かれる様になった。 之は歌手の藤山一郎氏が同じ抑留者の一員として此処におり、彼の発案であったかも知れないと推測する。
我々は、島の東海岸にある 満賀村で開催された大会に二回出掛けた。 戦闘帽に越中褌それに杖を持ったレンパンスタイルで三々五々集まるのだが、赤道直下のレンパン島で炎熱の砂浜を歩くのは火傷を負う様な暑さであるが、それでも皆、砂浜と海を交互に渡りながら会場へ集まったものだった。
この大会の魅力は何と言っても、入賞々品にくれる、握り飯であり、参加賞に飯盒一杯のアタコであったが第一の目的であったが、思えばこの様な娯楽が、苦しい中にも円満な人間関係を保ちえた一因だったのかもしれない。
( 南千武地区から多根村方面を望む・・スコール来襲近し! )
2006年8月27日 (日)
毎週一回の休養日には、大方の者は ゴロゴロ寝ていたが、我々若者は遠浅の海に出て サンゴ礁の岩に登り、澄み切った海中を泳ぐ色とりどりの熱帯魚を釣るのが この上ない娯楽であった。
或る好天の休養日、私はいつもの通り潮の引けた砂浜に出掛け、貝拾いをしていたところ、小石の下の水溜まりに 鰍のような小魚が泳いでいるのを見つけた。 早速捕まえた其の瞬間に、小魚の広げた胸鰭で手の平を刺され、手から腕にかけ みるみる腫れあがり、激痛に耐えかね、衛生班に行き事情を話し相談したところ、
「 死ぬ様な事は無い。この重曹を飲んでおけ 」 と言って 重曹を2粒くれた。言われる通り飲んでみたが全く効き目が無いどころか、夜半になるに従って発熱して眠れない。 再度衛生班を起し、丁重に頼み込んでモルヒネの注射をしてもらい 痛みは治まったが、結果的には微熱が下がらず2日間寝込んで仕舞った。 レンパン島には、この様な毒を持つ魚やサソリ、ムカデ等の昆虫、又多くの毒蛇が生息し、其の中で我々は裸同然の暮らしをしているのであり、考えて見れば、常に危険と隣り合わせの生活をしていたわけである。其の後も一回 サソリに刺され、モルヒネの世話に成ったのは都合二回で、その都度死ぬ様な思いをした。
上陸以来四ヶ月も過ぎると、単調な島の生活にも馴れて来た。畑に蒔いたタピオカやさつま芋、胡瓜などが収穫出来る様になると仲間達の神経も和らぎ、休日は趣向を凝らした演芸会が行なわれる様になった。
其の道のプロもいる仲間達は、夫々分担して 衣装や鬘、大道具、小道具に至るまで作るのであるが、特に女性の鬘<まげ>を椰子の実の繊維で作って演じた「 湯島の白梅 」や「 愛染かつら 」などの出し物では、観客の大喝采を受け、続いて歌謡曲、浪曲の出し物もあり、玄人のような芸に目頭を濡らす者まで出る状況であった。
レーションの支給が始まった頃から、「 のど自慢大会 」が開かれる様になった。 之は歌手の藤山一郎氏が同じ抑留者の一員として此処におり、彼の発案であったかも知れないと推測する。
我々は、島の東海岸にある 満賀村で開催された大会に二回出掛けた。 戦闘帽に越中褌それに杖を持ったレンパンスタイルで三々五々集まるのだが、赤道直下のレンパン島で炎熱の砂浜を歩くのは火傷を負う様な暑さであるが、それでも皆、砂浜と海を交互に渡りながら会場へ集まったものだった。
この大会の魅力は何と言っても、入賞々品にくれる、握り飯であり、参加賞に飯盒一杯のアタコであったが第一の目的であったが、思えばこの様な娯楽が、苦しい中にも円満な人間関係を保ちえた一因だったのかもしれない。
( 南千武地区から多根村方面を望む・・スコール来襲近し! )
2006年8月27日 (日)