アジア鎮魂の旅・その13
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
待望した復員の日-2
砂浜に丸太の柱を立て ニッパ椰子の葉で屋根を葺き それに乾燥させた野草を敷き詰めた 家畜小屋を連想させる様な我が家でも、之で永遠の見納めに成るのか!・・・と思えば些か感慨深いものがある。
この様な我が家でも 「 発つ鳥水を濁さず 」の故事に倣って清掃し、干し草のベットに敷いてあった万年パンツにする筈だった麻袋も雑草といっしょに焼却した。
懐かしい故郷への復員を一日千秋の思いで待ち望んでい乍ら 病に倒れ、不帰の客となった四国出身のK氏の眠る 墓前に全員が整列して別れを告げた・・・ 誰一人見守る者もいない南瞑の孤島に、彼一人 置き去りにして帰る我々は後ろ髪を引かれる思いであり、深い悲しみの中 冥福を祈って 多恨村を後にしたのだった。
我々の血と汗と涙で切り開いたブッシュの道、幾度かの食料受領で通った泥濘の道も、愈々帰国となれば、足も軽やかになる。 追分村 経由で宝港に到着したのは夕方になった。久し振りに一夜を過ごす宝港に来て見れば、 軍司令部の百坪余も有りそうな建物や 膨大な付属建物も有り、また港の近くでは古惚けた自動車まで走っている。
凡そ 我々中央を外れた場所に住む最下級兵士達は想像もしなかった この別世界を 垣間見て 多くの者は其の違いの大きさに腹立たしさを感じたのだった。
宝港におけるレンパン島最後の野営も興奮して眠られずウトウトしながら朝を迎えた。
沖には既にアメリカのリバテー船が停泊している。食事を済ませ一夜の後片付けを終了し、逸る心を抑えながら桟橋に集まり、此処からは大発に分乗し,リバテイ船に横付け して 乗り移るのであるが、リバテー船に近付くと、驚く事に、タラップは無く、ただ縄梯子が四カ所に吊り下げられているだけである。
如何に1万㌧クラスの大型船とは云え 波に揺られており、一方 木の葉のように 大きく揺れる大発から この縄梯子を使って よじ登り、乗り移る芸当は 健康体であっても難しい。 まして栄養失調の我々にとっては尚更 危険極まるものであったが、 「 此処で落ちてたまるか! 」と満身に力を込め、 「 ヨイショ! ヨイショ! 」 の掛け声にタイミングを合わせながら一段、一段と登りつめた。
どっこいしょ、と最後の一段を登り詰め 、甲板に足を踏み込むと同時に、「今度こそ内地へ一直線に帰れる!・・・」という安堵感から一気に体中の力が抜け、焼け付く様な甲板に座り込んでしまい、仲間同士は 無言のうちに手を握り喜び合った。
私は一旦船倉に行き、之から内地へ到着するまで夫々が寝起きする場所を確認して、僅かな荷物を置くと、直ちに蒸し風呂のような船倉から甲板へ飛び出した。 同じ乗船でも 行き先不明のまま シンがポールを出港した時と違い、皆の顔は本当に明るい。
「 港シャンソン 」を口ずさんでいる者もいた。
甲板から リオウ諸島の上空に 沸き上がっている入道雲を眺めながら 幾多の苦難を乗り越えて来た感慨を込めて誰かが唄いはじめた。
さらばレンパンよ また来るまでは
しばし別れの 涙をかくす
恋し懐かし あの島見れば
椰子の木かげに 十字星
並み居る皆の顔は涙で くしゃくしゃになり乍らも 拭く事を忘れ大合唱となった。
リバテイ船への乗り込みが完了したのは、乗船開始から数時間を要し、船が錨を上げたのは、陽も大分 西に傾いた夕方に成っていた。
今にも沈まんとしている太陽が波に反射して眩しい! 、そんな中 船はレンパン島を出港し、南シナ海を経て 日本へ向かう永い航海が始まった。昭和二十一年六月十四日 生涯忘れられない日である。
平穏な航海を続ける事一週間目に 天候の変化を予知する様な雲行きに不安を感じ、状況説明を求めたところ、船長側から「 小型台風の発生情報をキャッチした為 之を避けるべく 西に航路を変更して避難行動中である 」 と言う説明を受けた。然し波風は時間と共に其の激しさを増し、荒れ狂う波は一万㌧以上はあろうと思われる大型船で有りながら、木の葉の如くローリング、ピッチングを繰り返し、大きな波が来ると喫水十㍍以上ある船の甲板から波に手が届く程傾く、その恐怖を感じながらの数時間こそ 全員の心は
「 折角 拾った命ではあるが之で駄目か・・・」
と観念しつつ一時も早く台風圏内から脱出 出来る様に・・・と祈ったのである。
我々の仲間達は一部を除き 多くは 海上での暴風を経験した事が全く無い山国育ちである為 今にも転覆するのでは・・・・と思うような 台風の恐ろしさを初めて知った尊い経験であった。
台風も去り、明けても 暮れても空と海しか見えない単調な船旅が続く中で、我々の心を癒してくれたのは沖縄の東方を北上中 デッキに上がれば、昼はイルカの群れが船に戯れる如く泳ぎ回り、また飛び魚がデッキに飛び込んで来るような珍しい光景を、 夜は船の舳先から尾を引くように光る夜光虫の光などを眺める事が楽しみであった。
北上を続けた船は、愈々豊後水道に入って来た。 其の頃ようやく「 本船はこの先、瀬戸内海に入り 広島県の宇品港に入港する・・・・・ 」との連絡があった。 デッキから見る小島には 松ノ木が目に入り、確かに日本だと実感する事が出来た。
また、近づいて来た漁船の二人は夫婦だろうか? 、我々に手を振ってくれた。「 やっ、日本人の女性だ!・・・・ 」と 皆口々に叫びながら、感激の涙を流したが、お互いに顔を見合わせ、何の涙か分からない。 ただ、照れ隠しの為に笑い、はしゃいだ。 途中台風に遭遇したとは言え 約半月間に亘る航海も無事に終わり、リバテー船は宇品港に入港した。 しかし、検疫準備の為直ぐには上陸できず、船上から街の明かりを眺めつつ逸る気持と興奮の中で一夜を過ごした。
此処で我々復員者に対して、 石黒貞蔵 南馬軍司令官からのメッセージを紹介する。
「 今ヤ諸氏、洋々タル希望ニ満チテ、新生ノ門出ニ旅立タントス。諸氏ノ歓喜、正ニ言語ニ絶スルモノニアルベシ。本職モ而諸氏ノ心中ニ思イヲ致シ、更ニ諸氏ノ帰還ヲ鶴首シアル 郷党ヲ偲ビテ、衷心ヨリ祝福ノ意ヲ呈セザルヲ得ズ。 然リ而シテ諸氏ノ克ク知ラルル如ク、邦家ノ現況ハマコトニ多事多端ニシテ、ソノ諸氏ニ待ツトコロ而甚ダ大ナリ。邦家ノ再建ハ、真ニ国ヲ思イ自ラソノ礎石タルヲ以ッテ任ズル忍苦ノ士ニシテ、始メテ之ヲ為シ得ル所、内地ヲ遠ク離レテ幾星霜、不毛瘴癘ノ地ニ転戦シ、更ニ不踏ノ密林ヲ拓キテ営々大地ニ挑ミシ諸氏 <レンパン>ノ努力ハ、必ズヤ国家再建ノ原動力タリ得ベシ。
コレ本職ノ敢テ本土帰還ヲ称シテ以テ門出トイウ所以ナリ。願ワクバ諸氏能ク本職ノ意ノアルトコロヲ体シ、身ヲ以テ邦家再建ノ闘士タランコトヲ。
終リニ臨ミ海路ノ平安ト御健康ヲ祈ル 」 南馬軍司令官 石黒貞蔵
遂に我々は、焼け野が原と化した祖国日本に上陸した。広島に原子爆弾が投下された事も、其処で初めて知った。
この荒れ果てた広島では、連合国軍将兵の傍若無人な振る舞い、戦争被害者の惨めな実態、女性の変貌等などを目の当りにし、竜宮から帰った浦島太郎のような錯覚に陥って 一様に悲憤慷慨 唇を噛んだ。
そしてチュンポンの山中で 「 お前達は日本に帰り、荒れ果てた日本を再建する大事な仕事がある 」 と諭されたK班長の言葉を思い出したのである。
文字通り九死に一生を得て帰国した昭和21年7月1日こそ私の生涯忘れられない記念日であり、生活が安定したら必ず多くの仲間達が尊い命を落とした東南アジアの地を訪れ冥福を祈る旅をしよう、と心に誓ったのであった。
さらばレンパンよ 又来るまでは
しばし別れの 涙をかくす・・・・・
2006年8月29日 (火) 記