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紅葉の影に--ある牧師の戦時下の軌跡--

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/25 8:13
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 出産を待っていたかのように、長野の警察本部から特高刑事が来た。
 縁側で、というむつみに、外ではなんだから、と刑事は家の中に入ることを求めた。むつみは、背中におぶっていた陽子を降ろして膝に抱き、居間で応対した。むつみを取り調べるためだったのだ。しかし調べるもなにも、初めからむつみの語りもしない文章を書いたものを持参していた。
 読むようにと言うので、むつみは読んだ。一通り目を通したら、あとは「池田」 の印鑑を押せばいい、と言った。
 「押しません」
 声が上ずらないように気をつけて、むつみは突っぱねた。
 「わたしは、こんなことを話したこともないし、書いたこともありません」
 気合いをこめて、書類を返した。
 「何言っているんだ。調べはついているんだ!」
 罵声(ばせい)が飛んできた。あまりの怒鳴り声に、眠っていた陽子が泣きだした。刑事はさすがに声を落としたが、高飛車だった。
 「わが国には、天照大神直系の現人神、天皇陛下が居られるんだ。キリストはその上に立つんか。あんたらの言っていることは、そういうことだろ、え」
 目の前の紙をにらんだまま、むつみはだんまりを通した。何か話せば、言葉尻をつかまれそうだった。脅しに負けてはいけない。心のなかで恐怖と戦った。

 乳飲み子の陽子を連れて自分が引っ張られるということはよもやあるまいが、背後になにか夫を引っ掛けるワナが仕掛けてありそうな気がした。この戦争が始まるまでよく思想事件があった。思想犯が転向させられるときに、妻が先に「時局認識」を深めさせられ、懐柔(かいじゅう)され、「家族のために考えを変えてください」と夫に懇願させる話を聞いたことがあった。これもまた、そういうワナなのかもしれなかった。
 夫のために戦っているのではなく、まさしくむつみ自身の戦いだった。
 むつみはネンネコのなかに手をいれて、陽子の紅葉のような掌(てのひら)を人指し指で触った。すると握り返す反応があり、そこから温もりがむつみの指へと流れてきた。物言えぬ陽子が、おかあさん、がんばって、と励ましているようだった。
 根くらべの末、刑事は帰った。
 刑事の足音が遠ざかっていった。むつみは腰が抜けたようでしばらくは立ち上がれなかった。

 ---終わりーーー



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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/22 9:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 礼子の死後二か月後の10月、三女が生まれた。安産だった。
 手伝ってくれた岡谷教会の本屋の娘と佐久の従妹が帰ったあとは、産後の肥立ちがもうひとつおもわしくないまま、家事と育児をこなさねばならなかった。気力が湧かない日々で、わけてもつらいのはおむつの洗濯だった。諏訪の一〇月の水は、すでに背骨にまで染みるようだった。一通り汚れを落としたあと、しやがんで洗濯板でゴシゴシと二〇枚も洗っていると指は芯まで冷え、冷たさは脳髄まで上ってきた。豪雪地に比べれば雪こそ少ない諏訪だったが、結氷した諏訪湖の湖面に大音響をあげて亀裂を生じる「御神渡」(おみわたり)で知られたように、冬場の寒さ冷たさは厳しく、それも早くから始まった。

 ある日、家の外でたらいに水を張っていつものように洗濯をしていると、隣組の組長が通りかかった。そのまま通りすぎるだろうと思っていたら、足をとめ、
 「奥さん、産後の体を冷やさないようにね」
 と声をかけてくれた。そのやさしい一言を発するのに、彼は勇気がいったにちがいなかった。
 温かいおもいやりの声は、水の冷たさを忘れさせた。

 陽子。これが政一が送ってきた葉書に書いてあった名前だった。葉書は長野から来た。「義の陽」という意味の陽子なのだと書いてあった。
 その葉書を見た瞬間、むつみは、頭のなかが一瞬真っ白になった。すでに泰子(たいこ)と命名し、役場に届けてあったのだ。夫に誕生報告の葉書を出したのに、いっこうに返事はこず、役場に届ける期限がきた。知り合いの牧師に相談してむつみ自身が決め、最後の日に大作に役場に届けてもらった。長野から葉書が来たのは、その二日あとだった。長野への移送の直後だったので、葉書が松代から長野に転送されるのに時間がかかっていたのだ。

 夫が長野にいることを知ったのも、この葉書によってだった。夫はだんだん遠くに運び去られていた。万一のことがあったら、生まれた子どもとのつながりはこの命名しかなかった。どうしても名前を変更しなければならない。
 たまたま伊那の箕輪(みのわ)から、手塚という老婦人が手伝いに来てくれていた。箕輪の彼女の家に政一が不定期ではあったが泊まりがけで出かけ、特別に家庭集会を持っていた。彼女が葉書持参で役場に交渉に行ってくれた。幸運だった。事情をきいた役人の好意によって変更された。


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/21 8:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 八月一四日、小さな灯火がふっと消えるように、礼子の息がとまった。安らかな死であった。
 三日後家族だけの葬儀を終え、本家の了解を得て土屋家の墓に埋葬した。
 松代警察署の政一には、三枝が報告に行ってくれた。会ってじかに伝えてほしいと思ったが、それは許可されなかった。
 望月に預けてあった祐子を、葬儀の二日後に連れもどした。祐子は脇目もふらず、礼子の寝かされていた部屋にタッタッタッと入って行った。寝ているはずの妹がいなかった。布団もなかった。立ったまましばらく見ていたが、黙って家中をさがしはじめた。元気になってどこかで遊んでいるのだと思ったようだった。見つからなかった。
 「礼ちゃんはどこ~ どこにいるの」
 「礼子はね、東京のおじちゃんの家に薬がたくさんあるから、預けたのよ」
 さりげなく、むつみはそう言った。父親は病院に入院している、妹は死んだというのでは、幼い心にあまりに悲しみが重なるからだった。

 それからは何も言わなかった祐子が、半年ほどたって伯母の和代と道を歩いているとき、手をつないだまま突然言った。
 「おばちゃん。礼ちゃん、なかなか帰ってこないね」
 忘れたと思っていたら、鮮明に記憶したまま、ずっと帰りを待っていたのだった。
 「礼子ちゃんはね、神さまのところへ行ったのよ」
 もう本当のことを言うしかなかった。祐子は立ち止まって和代を見上げ、唇をぎゆつと曲げ、ひどく怒った。
 「東京のおじちゃんは、どうして、礼ちゃんを治してくれなかったの」
 死ということ、もう会えないということを、幼いなりに理解しているとしか思えなかった。手を強く握る祐子を、和代は不憫(ふびん)に思った。単に最も年の近い肉親というだけでなく、下諏訪では、礼子は祐子の唯一の友だちだった。
 むつみは、祐子を連れて下諏訪にもどった。礼子の訃報を知らせに松代署まで出かけた三枝が、松代警察では衣類の差し入れが許可されていると教えてくれたからだ。諏訪で許されたのは食料のみだった。ずっと同じ物を着たままに違いなかった。早く、差し入れの荷物を作りたかった。
 ところが、浴衣や褌(ふんどし)など身の回りのものを梱包したら、もうそれだけで力を使い果たしてしまった。荷のなかに入れる手紙どころか宛名も書けなかった。台所の板の間に座りこんで、せりだした腹部に手を当て、目の前の荷を茫然《ぼうぜん》と見つめるしかなかった。どれぐらい経っただろうか。
 明日にしようとあきらめたとき、「ごめんください」と、表で声がした。やっと腰をあげて戸を開けると、若い女性が立っていた。
 「妹とけんかをしたので、今晩泊めてください」
 思いつめた顔だった。
 「まあ。どうぞ、お入りになって」と招じいれて、話を聞いてみると、岡谷の教会に通っていたとのことだった。本屋の娘だった。泊まっていっていいのよと言うと、心底ほっとしたように顔をほころばせた。
 台所の様子をみて、荷物の宛先も書けないでいることがわかると、お役に立てることが見つかったと喜んで、達筆でさっさと書いてくれた。一晩泊まって、駅へ荷物を持っていき、もう一晩泊まって家事も助けてくれた。不思議な訪れだった。

 特高課の刑事はしばしばやってきた。
 奥さん、教会を売りなさい。佐久の実家に帰りなさい。
 信者のなかには、特高以上に教会の売却をすすめる人がいた。
 「奥さん、わたしたちが生きている間には、教会は再び立つことはないでしょう。ご主人も、もう、いつ戻られることか」
 「主人不在のうちに、わたしがこの教会を売るなど、どうしてできますか。死んだって、できません。クリスチャンなら、おわかりでしょうに」
 牧師夫人の激しい言葉は、信者であった者にきつく響いたにちがいなかった。かろうじてなごやかにつながっていた関係が、目に見えて壊れていった。ああ、夫がいてくれたら。なぜ、わたしがこんなことを言う事態になったの。

 そんなとき、政一と聖書学院で同期だった金井直治牧師が見舞ってくれた。他県では、長野県ほど取り締りが厳しくなかったところもあり、時折ホーリネス系牧師の見舞いを受けることがあったのだった。政一が検挙されてからの一部始終を、むつみは堰(せき)を切ったように話した。
 金井牧師はじっくりむつみの話を聞き、しつかりと支え、ともに祈りを捧げてくれた。
 「奥さん、日本は負けますよ。神の子らを、あなたも信者たちも、こんなに苦しめるような国は負けます」
 誰にも聞かれてはならない言葉であった。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/20 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 心悸高進もなんとか落ち着いたむつみは、久しぶりに差し入れに行った。特高主任の高見沢は転勤していた。
 応対してくれた松尾巡査がそっと、「ご主人に会わせてあげましょう。ちょっとですよ」と言った。「お願いします」と、夢中でたのんだ。報告したいことが山ほどあった。松尾巡査は、政一のいる部屋の前にむつみを連れていった。扉がそっと開けられた。

 高い窓から日が差しこみ窓の真下を暗くしていたが、会えるとは思ってもいなかった夫がそこにいた。とっさに、子どもたちのことを話した。
 目をこらすと見える夫は別人のようだった。「何をしているんですか~」と思わず訊(き)いた。「黙想しているんだ」。松尾巡査はすばやく扉を閉めてしまった。聞けたのは、その二言だけだった。
 翌日上諏訪の信者が訪ねてきて、池田先生はもう上諏訪署にはいない、と知らせてくれた。
 「差し入れに伺ったら、『松代に移ったから家族に知らせてやれ』 と言われた」との話であった。
 松尾巡査の情けをありがたいと思った。

 病後の礼子の体力がなかなか回復しないまま、今度はハシカにかかった。その上腸が冒された。
 むつみの体力も精神力も限界だった。夫が諏訪にいる、身近にいると思っていたから、気力があったのだった。このままでは親子共倒れになるのはあきらかだった。佐久の平賀(ひらか)にある実家に移る決心をした。もう両親は亡くなり空き家になっていたが、姉の和代が子どもたちと住んでいた。婚家は山奥の大石にあったが、夫の西沢益市は船乗りで航海に出ていることが多く、和代はなにかと便利な実家に移っていた。
 大作はまだ一学期が終わっていなかったので下諏訪に残した。母方の本家を継ぐ叔父にたのみ、嫁入り前の従妹に大作の世話にきてもらうことにした。

 むつみは、妊娠八か月の身で重体の礼子を抱き、三歳の祐子を連れ、下諏訪駅から汽車に乗った。小海線に乗りついで佐久まで四時間あまりだった。
 平賀につくと、むつみは寝込んだ。祐子は、望月の三枝の実家にあずけられた。姉の和代や弟の保芳やその妻の三枝が、代わるがわる礼子の看病をしてくれた。本家の人たちも顔を出してくれた。兄の誠一も、ブドウ糖その他の注射をリュックサックに一杯詰め、東京からかけつけてきてくれた。一族の人びとの網に包まれ、むつみはやっと悲壮感から抜けでた。

 礼子が小さなジャガイモを一つ食べてもうれしさがこみあげた。しかし二、三時間もすると下痢をした。片時も母を離さなかった礼子だったが、布団を並べているむつみが床を離れても、泣かなくなった。看護婦だった姉の和代は、一喜一憂するのではなく、もう神にすべてをゆだねるように、とむつみに言った。しかし、夫不在のゆえにことさら子どもの健やかであることを願っていたのに、こんな事態になってしまったと思うと、むつみの気持ちはまた荒波に翻弄《ほんろう=もてあそばれる》されるのだった。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/19 8:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 バス停でかんかん照りの太陽にさらされながら帰りのバスを待っていると、目からハラハラと涙が流れ、とまらなかった。七か月の身重になっていた。血の気が引いていき、このまま倒れるのではないかと思った。

 家にもどり聖書を開いた。十字架にかけられる前、最後の晩餐《ばんさん》の席でイエスが弟子たちに語っている場面であった。「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」 (ヨハネ一五・二五)。イエスを信じる者もまた憎まれるという、迫害の予告の個所だった。
 祈って床に就いたが、夜中に目が覚めた。身体の変調はここから始まった。

 昼間聞いたことが思いだされ、鼓動が急に激しくなった。脈は数えられないほど速く打った。
 真っ暗な闇へ沈んでいくようで、とても横になってはいられず、起き上がった。自分の右手で左手を握りながら、寝室のなかを歩き回った。ふと鏡に映った自分の顔を見ると土気色をしていた。覚悟を決めて隣家へ行き、戸を叩いて起こし牧師館まで来てもらった。ちょうどその時、野菜泥棒などを見張る夜警が鈴(りん)を振って通りかかるのが聞こえたので、近くの医者まで走って呼んでもらった。「心悸高進」(しんきこうしん)と診断された。

 その後、何をしても動悸が速く食事も作れなかった。むつみは、望月で小学校の教員をしている弟保芳に電報を打った。妻の三枝が、二歳と三歳の娘を連れて早速手伝いにきてくれた。そのお陰で、二、三日床に着いて休めた。

 娘の礼子は、同じ年ごろの従姉妹と遊べることで興奮し、食事もほぼ同量を食べた。しかしちょぅど離乳ができた時期の胃腸には、あまりにも負担が大きかった。皆の帰った夜、はげしく下痢をし、熱は四十度を越えた。大腸カタルだった。けいれんを起こした。舌を噛まないように、口に箸をかませようとしてガーゼを巻くのが間に合わず、指を突っ込んだほどだった。往診の医者はブドウ糖の注射をしてくれたが、次の注射は一週間後だと、申し訳なさそうに言った。薬は配給で、入手の方法は他になかった。

 徹夜の看護がつづき、どうにか峠を越えた。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/18 8:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 全国的に食糧が乏しくなり、商店の廃業がつづいた。角の魚屋も店を閉じた。売る配給の魚が回ってこないのだった。あとで聞けば店主は闇屋をやって捕まり、政一の隣の房に留置されていた。家族を食べさせるためだった。そんな状況のなか、辰野の信徒がスルメや数の子などの食料品を手土産に、むつみを見舞ってくれた。目立たないように、代わるがわるやってきた。検挙前の政一は下諏訪、上諏訪、岡谷、辰野の四個所で牧会をしていたが、辰野だけは行政の管轄がちがい、諏訪警察に呼び出されなかったのだ。留置場への差し入れに栄養のある品を加えられたのは、その手土産のお陰だった。

 辰野の信徒たちはがらんとした教会を見て、驚き、悲しみ、売却品をなんとか買い戻そうと言ってくれたが、むつみは「どうぞ、このままに」とたのんだ。天からの使いのように彼らが訪ねてくれるこの生活に、どんな変化も起きないことを強く望んだのだった。

 むつみが牧師に嫁ぐことになったとき、牧師生活の貧しさを知る長兄の土屋誠一は、「貧乏クジだな」とむつみの覚悟のほどを問いただすように言ったが、備品売却の一部始終を知らせたときは、クリスチャンではないその兄が、
 「牧師の妻として、そのようなことは覚悟して然るべきだ。キリストを十字架につけた兵卒等は、その着物をくじ引きにして分けたじゃないか。キリストは、つばを吐きかけられたじゃないか。しかしむつみたちにそれほどの事は起こらないと思う。政一さんは悪いことをして連行されていったのではないのだから、泰然自若(たいぜんじじゃく)として居れ。生活費はわたしが送る」
 と手紙をくれた。むつみは大いに励まされた。いくら要るかと訊《き》かれ、むつみは二〇円と書いた。
 東京で薬局を営む兄からは毎月二〇円が送られてきた。東京では、普通の勤め人の初任給が約一〇〇円だったが、むつみの生活は極度につましく、それで安定した生活を営んだ。牧師の生活がどれだけつましいか、長兄はつくづく知ったのだった。

 七月に入ってすぐ、上諏訪署に差し入れを届けに行ったとき、むつみは特高主任の高見沢から、思いがけない話を聞かされた。ある信徒が、「奥さんはわたしたちを頼って困る。注意してください」と言いにきたというのだ。高見沢は「『奥さんは自分で働いている』と、むしろ弁護してあげたのですよ」と付け加えた。むつみは高見沢の前で言葉を失った。

 政一の検挙後、教会は解散させられていたが、解散前の教団の新聞の代金その他の請求書が来ていたので、教会の会計に、できるだけ早く集めて本部に送ってくれるよう依頼したのだ。それがこんな所で、こんな話になって語られているとは……。神をともに礼拝した人たちが、内輪の問題をこともあろうに夫を留置している警察に言うとは……。


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/17 8:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 しばらくして警察は、教会の講壇、六三鍵の足踏みオルガンをはじめ、備品、什器《=日常使う器具》などを全部競売に付すように言ってきた。びっくりしたむつみは、「やめてほしい」 と泣いて懇願した。主人は了解しているのかと聞いても、返事はなかった。信徒たちには、残された家族の生活費のために、と説得された。生活費は要ったが、こんな形で捻出《ねんしゆつ》される金銭は受け取れなかった。教会は、牧師個人の所有物ではない。教会の建物と付属品は、それまでの信者たちからの賜物としてそこにあるのだ。しかしやめてほしいとあまりしつこく言うと、今度は私物化しているようにも取られそうで、むつみは悩んだ。教会の備品を使い回して、生活費をきりつめ日常生活を保ってきたことは、誰もが知っていた。教会のちゃぶ台も、牧師館と教会堂を日常的に行ったりきたりしていたのだった。
 古物商人が呼ばれ値が付けられ、競売会は開かれた。買いに集まったのは主に、もうそのころは教会に来なくなっていた信徒たちだった。
 むつみが、そこで行われていることを見る覚悟を決めて、やっと牧師館から会堂に出てきたときは、すでにどんぶりも茶椀も五〇枚の座布団も家族が使っていたちゃぶ台も、引取り手が決まっていた。

 その夜、三歳の祐子が夜中に目をさまし、布団の上に座ったまま泣いた。
 「どうしたの。こわい夢見たの」
 「おかあちゃん、あのオルガン、どこいったの」
 昼間、物が運び去られていくのを見ていた。オルガンは100円だった。
 「預けてあるの。戦争が終わったら、信者の家から持って来てくれるのよ」
 となだめた。事実、信徒たちはそのように話していた。その後祐子は、オルガンを買い取った信徒の家のそばを通るとき、とりわけオルガンの音が響くとき、強い悲しみとうらめしさを感じるようになった。
 それはむつみとて同じであった。ちゃぶ台を買ったのは桂川だった。重たいから息子にリヤカーで取りにこさせるといって、教会堂の縁側に置いて帰った。初産で祐子が生まれるときは心細いむつみを励まし、つわりのときは、食べられそうな惣菜(そうざい)を持ってきてくれるほど親しかったのに。

 桂川にもまた言い分があった。しかし、それが語られたのは戦後になってからだった。
 備品の処分で牧師家族の生活費を捻出する考えも、むつみは警察の指示だと信じ込んでいたが、戦後落ち着いてから政一が調べた結果、そうではないことがわかった。拘留者の救済費用捻出に日本基督教団財務部は消極的だった。幹部を第一次検挙で根こそぎやられた第六部は、やむなく在京の幹部夫人や検挙を免れた者たちが、教会堂の備品売却などの財産処分で拘留者家族を救済しようと動いたのだった。警察はその動きを組織つぶしに利用したといえた。

 むつみは、備品の売却代金は受け取ったが、生活費にはできなかった。教会の借地代に当てた。借地代が払えなければ、教会堂の維持は不可能だった。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/14 8:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 教会員が、警察にあれこれ教会の事情を尋ねられ、以後一切教会に出入りしてはならないと厳命されたと聞いたのは、数日後だった。信者の出入りはパタリと途絶え、二、三人が、夜、人目をさけて訪ねてくれるばかりだった。温かく言葉を交わしていた近所の人も、挨拶をしてもバツ悪げに視線をさけた。すべてがあっという間の変化だった。

 大作は小学校の三年生になったばかりだったが、父の検挙の当日にもう、「大ちゃんのお母さん、まま母だよ」と今まで言われたことのないことを言われた。遊びに出ると「スパイだぁ!」といじめられ、ときには石を投げられて泣いて帰った。
 祐子のママゴト遊びの仲間は一人も来なくなった。毎日、拾ってきたレンガを無心に石でたたいて赤い粉にしてお茶椀やお皿に盛るという、一人遊びを始めた。突然、孤独な幼児期が始まった。むつみが差し入れのため上諏訪署まで出かけるときは、次女の礼子が眠っていれば、三歳の祐子が留守番さえしたのだった。

そんなときに、 「奥さん、留守にするとき、お子さんはわたしがあずかります。いつでもおいていってください。悪いことをしたのではないから、わたしはいくら調べられてもいいです」
 毅然(きぜん)とそう言ってくれる女性がいた。若い信徒の水沢えい子だった。蕎麦屋を営む家の娘だった。足が不自由でいつも松葉杖を使っていた。つらい経験を乗り越えてきた人だった。力ある者のふるう横暴への恐怖を乗り越えて示される勇気以外、いったいどんな勇気があるといえるのか。生涯忘れえぬ人として、むつみの心に深く残った。

 日本基督教団から、統理者富田満の名で通達が届いた。日付は、四月九日になっていた。

 元日本聖教会及び元きよめ教会派所属の教会及び宗教結社は、今般宗教団体法第十六条及び治安警察法第八条第二項の規定に依り、教会設立認可の取消及び結社禁止の処分を受けたるに付き、処分当時同教会又は宗教結社に在任したる教会主管者及び宗教結社代表の諸氏は、此の際自発的に教師職の辞任を申出られ度し。もし之に応ぜざる場合に於ては、遺憾ながら教団規則第二百四十六条第七号の規定に依り教師の分限を剥奪することと可相成(あいなるべく)に付き、此際可及的速やかに辞表提出有之度(これありたく)此段申入れ候。

 辞任を強要していた。むつみは仕方なく、辞任の書類を作って送った。
 生活費を得るため真綿《まわた=注》のチョッキ作りを覚えて、内職を始めた。諏訪はお蚕(カイコ)仕事の中心地であり、教会の隣の建物も製糸工場だった。チョッキは、真綿をのばして糸状にし、原始的な織機で織っていく。その前に、赤や紫に真綿を染めたりもした。温かい防寒着の無い時代であったから、真綿のチョッキが重宝されていたのだ。
 五月下旬、教団総務局長鈴木浩二の名で、また封書が届いた。辞任者と謹慎中の者への、就職のアンケートであった。

  ---この度文部省の命令により去る四月自発的に辞任したる者及び謹慎中の者につき調査を行うこととなった。別記注意事項参照の上、同封用紙各空欄に記入の上教団事務所宛書留便にて御回答願いたい。
  追伸 今日まで他に就職していない方は、謹慎中の者並に教師復得希望の者といえどもこの際一日も早く国家の要請する方面に御就職され奉公の誠を尽されんことを願いあげる。

 むつみは、はらわたが煮えくりかえるようだった。
 獄中にいる者に就職状況を問い合わせるなど、何事か。「この際一日も早く国家の要請する方面に御就職され奉公の誠を尽されるように」との文面に、「夫は、国家の要請により留置場のなかで御奉公しております」と同封用紙に書きつけたかった。

注 真綿=糸にできない屑繭(くずまゆ)を引き伸ばし乾燥した綿

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 第3章・1

 妻・銃後の守り……………………………一九四三年

 一九四二年のホーリネス系牧師一斉検挙のあと、政一の妻むつみは、夫にも「その時」が来るかもしれないと思った。もし万一来たら、おそらく教会はやっていけないだろう、と夫婦で語りあいもした。しかし「その時」、妻の自分になにが始まるのか、具体的なことは見当がつかなかった。

 むつみは、一九〇九年(明治四二) 佐久の農家の生まれで、八人兄弟姉妹のなかでそだった。
 幼いころ姉について佐久中込ホーリネス教会に通ったのが、キリスト教との出会いだった。野沢女学校を卒業したあと、内務省の役人だった長兄の世話で、東京高井戸の浴風園という身よりのない老人のホームで働いていたが、その兄が板橋で薬局を開いたときから兄を手伝い、日本基督教会角筈《つのはず》教会で洗礼をうけた。その後東京聖書学校で学んでいたときに、聖教会の年会に行き、佐久教会の女性牧師の紹介で政一と出会ったのだった。
 「来るものは、やはり来るのだ……」
 というのが、夫連行の朝の心境だった。
 夫がその信仰と伝道のためにこういうことになるのなら、あとはわたしが守っていかなければならないのだと、しつかりと 「銃後の守り」《注》 の覚悟はした。
 子どもたちは父親が手術をしたことを知っていたから、おとうさんはまた入院したと話した。
 しかし長男の大作には、そんな話は幼い妹たち向けだとわかっていた。

 その夜子どもたちが寝静まったあと、むつみは、本が持ち去られてすっかり空っぽになった本棚やリンゴ箱をしみじみと眺めた。日々の糧として政一が読んでいた書物は政一と不可分だった。普段元気で明るいむつみではあったが、痛みと悲しみで胸は張り裂けそうだった。階下に降りて電灯をつけ、会堂に入った。座布団を一枚とりだして座り、声に出して祈った。願わくはわが往くべき道を照らしたまえ。

 与えられた聖句は、『詩篇』 二三篇だった。

  たとい、われ死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ
  なんじ、我と共にいませばなり

 そうであった。インマヌエル。神われらと共にいます。今日、この恐るべき一日を生きる力を与えられたではないか。明日という日を主にゆだね、ようやく眠りについた。

注 銃後の守り=戦線の後方。転じて、直接は戦争に参加していない一般国民の国内の守り

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 最晩年に、娘の祐子の質問に政一は答えている。
 娘「……それで、なんと答えたの」
 父「答えもしない。答えることもない。答えさせる余裕も与えなかった。だって説明させておいて、いきなり怒鳴(どな)りつけたんだから。『そこへ座れッ。土下座して謝れッ』 って」
 娘「……それで、謝ったの」
 父「……『はあ、申し訳ありません』て言うしかなかった」
 娘「……手記に、土下座してその罪を懺悔(ざんげ)したって書いてあったけど…」
 父「国体に背いたことに対する謝罪、天皇に背くことなんか考えたこともなかったから…」
 娘「……その上に立っていこうと決意していた教義が、国体に反すると言われたときは、どんな気持ちだったの」
父「そんなこと、とんでもない、と思ったよ。自分は、キリストの救いの恵みを受けているし、福音は世界唯一のものとして、自分の人生を導いているし。そういう信仰で、日本人を教化していくのは、国のためにも最善をつくしていることだと信じていた。……だから、ああ断絶した、という思いだった」
 娘「非国民て言われることは」
 父「国民としてとんでもないことである、って気持ち」
 娘「国のために一生懸命やっているのにって」
 父「そうだよ。善良な、忠良な国民であるのに、非国民なんてね。不逞な教義を宣布活動するなんて言われてね。その断絶感がね……。正しいと思っていたことが否定されたんだから。圧倒的に踏みにじられたっていう感じ。国家に」
 娘「そのとき、国家とか、そういう言葉で、考えたの」
 父「言葉にすれば、誠意が通じない圧倒的ななにかがわたしを踏みにじっているつて感覚だよね。はじめは、訳がわからないさ。言葉が浮かぶゆとりもない。でも、それは国家さ。当時は 『国体』といっていたがね」

 - その日、政一はそれで独房にもどされた。
                             
 政一は打ちのめされた。込み上げる鳴咽(おえつ)をおさえられず、慟哭(どうこく)した。
 翌朝は、まぶたがはれて、人に顔をあわせられないほどだった。幸か不幸か、看守以外誰とも顔をあわすことはなかったが。
 また、無為のままの日々が始まった。

 鉄窓の霊なる我は悟れども肉なる我はいたく悩めり
 まのあたりあいまみゆるはいつの日か妊《みご》もる妻よいとしの子らよ
 聖僧の如く悟りて坐りませ飢えも渇きも責めも恥をも


                      

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編集者 (代理投稿)

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